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第三章:シェイエスの影

死刑されたはずのロベスピエールはテニスコートで目を覚ます。

目の前では、まさにテニスコートの誓いがなされようとしていたーー

ロベスピエールは立ち上がった。だが、壇上へは向かわなかった。


立ち上がったまま、動かなかった。


万歳三唱の余韻がまだ球戯場の空気を震わせている。議員たちは興奮のままに口々に語り合い、バイイは壇上で宣誓文を畳みながら、次の議事進行について隣のムーニエと言葉を交わしている。ミラボーは壇を降り、数人の議員に囲まれて何事かを身振り手振りで力説している。


誰も、ロベスピエールを見ていなかった。


当然だった。1789年6月のマクシミリアン・ロベスピエールは、無名だった。アルトワ州選出の第三身分代議員。三十一歳。地方都市アラスの弁護士。国民議会の議席に座ってはいるが、発言の機会はほとんどなく、あったとしても声が小さく弁舌も巧みとは言えず、主要な議員たちの記憶にすら残っていない。シェイエスの理論、ミラボーの雄弁、バイイの議長としての威厳——それらの巨大な存在に比べれば、黄色い上着の痩身の青年は、球戯場の壁に貼りついた影のようなものだった。


ロベスピエールは、その事実を冷静に認識していた。


そして、その事実の中に、ひとつの誘惑を嗅ぎ取った。



——このまま、黙っていればいい。


思考が、囁いた。


壇上に上がる必要はない。宣誓に署名し、静かに椅子に座り、革命の流れに身を任せればいい。ただし、今度は致命的な局面を事前に回避する。ダントンとは距離を置く。公安委員会には加わらない。恐怖政治が始まる前に、議員の職を辞し、アラスに帰る。あるいはシェイエスのように——


シェイエス。


ロベスピエールの視線が、壇の手前に座っている白い服の男を捉えた。


アベ・シェイエスは、周囲の熱狂とは無縁の静けさで、椅子に深く腰を据えていた。両手を膝の上で組み、鷹のような目で球戯場全体を見渡している。万歳三唱にも声を合わせず、拳も突き上げず、ただ観察していた。


あの男の生存戦略は、完璧だった。


革命の理論的支柱を打ち立てておきながら、自らは決して前線に立たない。火をつけておいて、火事場からは最初に退避する。三部会を国民議会に変えた功績は紛れもなくシェイエスのものだが、バスティーユが陥落した後も、王が処刑された後も、恐怖政治が吹き荒れた後も、テルミドールが来た後も——シェイエスは生きていた。


「革命の間、何をしていたのか」と問われれば、「生きていた」と答えるのだろう。


あの生き方を、自分もできる。


未来のデータを持つ自分なら、シェイエス以上に完璧に身を隠せる。どの派閥が勝つか知っている。誰がいつ失脚するか知っている。どの馬車に乗ってはいけないか、どの文書に署名してはいけないか、すべて知っている。嵐の中で最も安全な場所を、秒単位で選択できる。


そうすれば、生き延びられる。


天寿を全うできる。


断頭台の上で砕けた顎の痛みを、二度と味わわずに済む。



誘惑は、甘かった。


三秒間——あるいは五秒間——ロベスピエールは、その甘さに浸った。アラスの自宅の書斎。窓の外に広がるアルトワの穀倉地帯。本棚に並ぶルソーの全集。暖炉の前で猫を膝に乗せ、革命の騒乱を遠い都の出来事として新聞で読む老後。あの家に帰れる。あの平穏に戻れる。自分の手を一滴の血で汚すことなく、六十年でも七十年でも——


だが。


ロベスピエールの思考は、五秒で誘惑を切断した。


外科医がメスで腫瘍を切除するように、冷静に、正確に、甘い幻想を脳から摘出した。


なぜか。


理由は、感情ではなかった。良心の呵責でも、革命への使命感でも、フランスへの愛国心でもなかった。ロベスピエールを動かしたのは、もっと冷徹な、もっと計算的な論理だった。



——自分が黙れば、歴史は繰り返す。


それだけのことだった。


自分がアラスに帰ったとしても、革命は止まらない。バスティーユは陥落する。王は処刑される。恐怖政治は始まる。ただし、ロベスピエールの代わりに別の誰かが公安委員会を率いることになる。


誰だ?


ダントンか。あの汚職にまみれた激情家が、自分の代わりに革命の舵を握る。結果は目に見えている。ダントンは取引する。王党派と。ジロンド派と。外国勢力と。革命は、ダントンの私利私欲によって内側から腐食する。


エベールか。あのサンキュロットの扇動者が、自分の代わりに民衆を率いる。結果はさらに悲惨だ。エベールは制御を知らない。非キリスト教運動を暴走させ、銀行家の逮捕を乱発し、パリを無政府状態に叩き落とす。


サン=ジュストか。あの美しい顔をした天使のような青年。自分の最も忠実な同志。だが、サン=ジュストは理想主義が純粋すぎる。妥協を知らない。交渉を知らない。彼が革命を率いれば、恐怖政治は自分のときよりも早く、自分のときよりも徹底的に、フランスを焦土に変えるだろう。


あるいは——ナポレオン。


コルシカ島出身の、まだ二十歳の砲兵士官。今はまだ無名の一軍人だが、あの男は革命の混乱を利用して、旅団将軍に昇進した。もしかしたら、それ以上になるかもしれない。


自分がいなくなっても、暴君は必ず生まれる。


革命という名の巨大なエネルギーが解放された以上、そのエネルギーを制御する者がいなければ、エネルギーは暴走する。水力発電のダムと同じだ。水を制御すれば電力になる。制御しなければ洪水になる。


そして、未来の全データを持つ制御者は、この世界に一人しかいない。



ロベスピエールは、再びシェイエスを見た。


白い服の男は、相変わらず椅子に座ったまま、静かに周囲を観察している。あの男の選択は合理的だ。だが、それは個人の合理性であって、国家の合理性ではない。シェイエスは自分を守った。だが、フランスを守ることはできなかった。革命は暴走し、恐怖政治が来て——結局、シェイエスが書いた『第三身分とは何か』が目指した世界は、彼の生涯をかけても実現しなかった。


「生きていた」。


それが、シェイエスの革命だった。


悪くない。だが、不十分だ。


ロベスピエールは、別の道を選ぶことにした。



視線が、壇上のバイイに戻った。


天文学者は宣誓文を畳み終え、次の議事に移ろうとしていた。ムーニエが何かを耳打ちし、バイイが頷いている。おそらく、国王への請願書の起草について打ち合わせているのだろう。史実通りに進めば、三日後にルイ十六世が親臨会議を開き、「国王の承認しない議案は一切無効である」と宣言する。そして軍隊が集結し、ネッケルが罷免され、バスティーユが陥落し——


暴力の連鎖の歯車が、バイイの手の中で、今まさに回り始めようとしている。


バイイ自身は善人だった。高潔な天文学者であり、誠実な議長だった。だが、善人であることと、革命を正しい方向に導けることは、まったく別の問題だった。バイイは星の軌道を計算できたが、人間の軌道は計算できなかった。シャン・ド・マルスで発砲を命じたとき、彼は秩序を守ろうとしただけだった。だが、その一発の銃声が、彼自身の処刑令状になった。


善意は、革命においては致命的な脆弱性だ。


善意は裏切られる。裏切られた善意は憎悪に変わる。憎悪はギロチンを求める。ギロチンは新たな憎悪を生む。これが、自分が五年間かけて学んだ、血で書かれた教訓だった。


バイイにこの場の進行を任せてはいけない。


この善良な天文学者に、革命の操縦桿を握らせてはいけない。彼は星を読めるが、嵐は読めない。そして、これから来るのは、フランス史上最大の嵐だ。



ロベスピエールは、歩き始めた。


感情からではなかった。衝動からでもなかった。五年間の失敗データが導き出した、最も合理的な最適解として、彼は壇上に向かって歩き始めた。

周囲の議員たちの間を縫うように進む。誰もロベスピエールに注意を払わない。黄色い上着の痩身の青年が、壇上に向かって歩いているだけだ。アルトワの無名の弁護士が、少し遅れて署名にでも向かっているのだろう——そう思われているに違いない。


壇の階段に足をかけた。


二段。三段。四段。


壇上に上がった。


バイイが振り向いた。ムーニエが怪訝な顔をした。


「何か?」


バイイが穏やかに問うた。天文学者の目には、困惑はあったが敵意はなかった。議員の一人が壇に上がってきただけのことだ。署名の確認か、あるいは陳情書の追加か、その程度の用件だと思っている。


ロベスピエールは、バイイの目を真正面から見た。


五年後に処刑される男の目を。雨の中のシャン・ド・マルスで「震えているのは寒さのせいだ」と言って死ぬ男の目を。


「議長」


ロベスピエールの声は、静かだった。だが、その静けさの中に、球戯場の熱狂とは異質な——もっと深い、もっと冷たい、もっと確信に満ちた——何かが、凝縮されていた。


「ここからは、私が話します」


バイイの眉が、かすかに上がった。


「失礼だが、君は——」


「アルトワ選出、マクシミリアン・ロベスピエールです」


「ああ。弁護士の。しかし、今は——」


「議長」


ロベスピエールは、一歩前に出た。バイイとの距離が、腕一本分になった。


「今から私が申し上げることを、議場のすべての議員に聞かせてください。三分で構いません。三分だけ、この壇をお借りしたい」


バイイは戸惑った。隣のムーニエに目配せした。ムーニエが小さく首を振った。——議事進行の妨げになる。今は国王への対応を議論すべきだ。無名の若い議員に壇を譲る理由はない。


「申し訳ないが、今は——」


「議長」


三度目に名を呼んだとき、ロベスピエールの声に含まれていたものは、もはや「お願い」ではなかった。


「三日後に何が起きるか、ご存知ですか」


バイイの表情が変わった。


「……何だと?」


「六月二十三日。国王は親臨会議を開きます。四千人の軍隊を議場の周囲に配置し、『国王の承認しない議案は一切無効である』と宣言します。我々の国民議会を、力で潰しにかかる。あなたはそれに抗議し、ミラボー伯爵は『銃剣の力によってのみ我々をここから追い出せるだろう』と叫ぶでしょう。勇ましい言葉です。ですが——」


ロベスピエールは声を落とした。バイイとムーニエだけに聞こえる声量で。


「——その勇ましさの先に待っているのは、血です。議長。大量の、血です」


バイイの顔から、天文学者の冷静さが消えた。


「君は……何を知っているのだ」


ロベスピエールは答えなかった。代わりに、バイイの肩にそっと手を置いた。処刑令状に署名した手で。四年後にこの男の首を落とすことになる手で——いや、もう落とさない手で。


「三分だけです、議長。三分で、この国の運命が変わります」


バイイは、ロベスピエールの目を見た。長い数秒間。


天文学者は、星の光を読む目を持っていた。何百万キロメートルも離れた恒星の微かな揺らぎから、その質量と軌道を読み取る目を。


その目が、ロベスピエールの瞳の奥に、何かを読んだ。


言葉にはできない何か。三十一歳の無名の弁護士が持つはずのない、途方もない重力のようなもの。あまりにも多くの死を見た目。あまりにも多くの失敗を刻んだ目。


バイイは、一歩退いた。


「……三分だ」


ムーニエが驚いた顔でバイイを見たが、バイイは静かに首を振った。


ロベスピエールは、壇の中央に立った。


五百七十七人の議員が眼下に広がっている。興奮の余韻でざわめく群衆。まだ誰も死んでいない群衆。まだ誰もギロチンを知らない群衆。


ロベスピエールは、息を吸った。


七月のパリではなく、六月のヴェルサイユの空気を。血の臭いではなく、黴と汗と蝋燭の臭いを。

そして、口を開いた。

祖国フランスの為に以前の人生では選ばなかった選択を進めることにしたロベスピエール。

さて、その選択やいかに?

フランス革命はどうなる?

お楽しみに!

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