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第二章:テニスコートの幽霊

断頭台で散ったはずのロベスピエールはゆっくりと目を覚ます…

最初に戻ってきたのは、嗅覚だった。


血の臭いが消えていた。


七月のパリの、あの甘く腐った鉄錆の臭い——千三百七十六人の血を吸い込んだ石畳が、夏の陽に灼かれて放つ、あの臭いが、完全に消えていた。代わりに鼻腔を満たしたのは、黴と汗と、湿った石壁の臭いだった。どこかで蝋燭が燃えている。埃っぽい空気の中に、数百の人間が密集して放つ体温が渦を巻いている。


次に戻ってきたのは、聴覚だった。


怒号。


だが、革命広場の罵声とは明らかに異質な音だった。あの罵声には憎悪があった。五年間の恐怖政治が蒸留した、純度の高い殺意があった。今、鼓膜を叩いているのは、それとはまったく違う種類の振動だった。


怒りではある。だが、その怒りには方向がなかった。標的が定まっていなかった。沸騰した液体が容器の中で暴れ回るように、行き場のないエネルギーが空間全体を震わせている。


——この声を、知っている。


ロベスピエールは目を開けた。


天井が高かった。


木造の梁が、暗い天井を横切っている。高い窓から六月の光が差し込み、埃の粒子が金色の柱となって斜めに空間を貫いていた。光の柱の中を、無数の腕が振り上げられ、拳が突き上げられ、紙束が振り回されている。


ロベスピエールは、自分が椅子に座っていることに気づいた。


木製の、粗末な椅子。周囲には同じような椅子に座った男たちがひしめき合い、立ち上がって叫ぶ者、隣の男の肩を掴んで何事かをまくし立てる者、陳情書の束を頭上に掲げて振り回す者——その光景を、ロベスピエールは凍りついたように見つめた。


処刑が、失敗したのか。


最初に浮かんだのは、その仮説だった。ギロチンの刃が首に達する前に何らかの事故が起き、自分は気を失い、どこかの建物に運び込まれた。だが、それでは説明がつかない。革命広場でロベスピエールを助ける人間など、一人もいないはずだ。サンキュロットはとうにロベスピエールを見捨てていた。エベールを処刑した時点で。


ロベスピエールは、自分の体を見下ろした。


黄色い上着を着ていた。


血に染まったシャツではない。黄色い、見覚えのある上着。襟の形、袖口のボタン、胸元の仕立て——五年前に着ていた上着だった。三部会に出席するために仕立てた、あの上着。


顎に手を当てた。


痛みがなかった。


包帯もなかった。砕けた骨片もなかった。顎骨は完全に——完璧に——元の位置にあった。口を開閉してみる。何の痛みもない。舌が口蓋に触れ、歯列が正確に噛み合う。


ロベスピエールの心拍数が跳ね上がった。


だが、それは恐怖によるものではなかった。


彼は立ち上がった。周囲を見渡した。視線が、ひとつの光景を捉えた瞬間、マクシミリアン・ロベスピエールの全思考が停止した。



部屋の前方に、壇が設えてあった。


その壇の上に、一人の男が立っている。長身で、天文学者特有の——あるいは数学者特有の——正確さで背筋を伸ばし、右手に紙を掲げている。ジャン=シルヴァン・バイイ。パリ天文台の天文学者にして、第三身分の議長。


バイイの隣では、太った体躯の男が両足を踏ん張り、拳を握りしめている。黒い上着。額に汗が光り、顔が紅潮している。オノーレ・ミラボー。ジャコバン・クラブの設立者。内反足のタレーランが「あの男は王室に買収される」と見抜いていた、あの激情の塊のような男。


——1791年に死ぬ男だ。


ロベスピエールの脳が、自動的にデータを呼び出した。ミラボーは1791年4月2日に急死する。毒殺の噂。そして死後、秘密の金庫からルイ十六世との密書が発見され、王党派に買収されていたことが白日の下に晒される。パンテオンに安置されていた棺は引きずり出され、汚物と共に無縁墓地に捨てられる。


バイイの右手には、今まさに宣誓文が握られている。「王国の憲法が制定され、強固な基盤の上に確立されるまでは、決して解散せず——」あの文面だ。ムーニエが起草し、バイイが朗読した、あの宣誓文。


——1793年末に処刑される男だ。


データが、また走った。バイイは1789年に初代パリ市長に選出される。だが1791年、シャン・ド・マルスでデモ隊への発砲を命じたことで国民の信頼を失い、解任される。1793年11月、反革命分子として逮捕。シャン・ド・マルスで——かつて自分が発砲を命じた、まさにその場所で——ギロチンにかけられる。処刑の日は雨だった。群衆が「こいつは震えている、怖いのだろう」と嘲笑すると、バイイは「震えているのは寒さのせいだ」と答えた。それが最後の言葉になった。


壇の手前に座っている白い服の男。痩身で、鷹のような目をした男。アベ・シェイエス。『第三身分とは何か』の著者。「第三身分こそが国民である。国民がいなければ国家は存在しない」——あの言葉で革命の理論的支柱を打ち立てた男。


——この男だけは、死なない。


シェイエスは革命の嵐を巧みに泳ぎ切り、テルミドールでも耐えきった、稀有な生存者。


ロベスピエールの視線が、部屋全体を走査した。

五百七十七人。


第三身分の議員と、少数の進歩的な聖職者・貴族。六月の湿気と数百の体温で、球戯場の空気は蒸し風呂のように重い。高い窓から差し込む光が、カーテンをかすかに揺らしている。外からは、ヴェルサイユ宮殿の方角で軍靴が石畳を叩く音が微かに聞こえる。国王が集めた軍隊の足音だ。


ジュ・ド・ポーム。


屋内球戯場。


1789年6月20日。


ロベスピエールは、自分が経験していることの意味を——不可能であるという当然の判断を一切経由せずに——即座に、かつ完全に処理した。



おそらく、この瞬間こそが、マクシミリアン・ロベスピエールという人間の本質を最も鮮烈に示していた。


常人であれば、混乱するだろう。恐慌に陥るだろう。自分が狂ったのだと疑い、あるいは処刑の直前に見ている幻覚だと考え、あるいは死後の世界を彷徨っているのだと嘆くだろう。


ロベスピエールは、そのいずれの感情も経験しなかった。


代わりに、彼の脳は以下の処理を実行した。


第一。現在の感覚入力——視覚、聴覚、嗅覚、触覚——は、すべて整合的である。幻覚や夢であれば、これほどの解像度と一貫性は維持されない。


第二。顎の負傷が完全に消失している。黄色い上着は五年前のもの。身体的状態が1789年6月時点にリセットされている。


第三。眼前の光景は、すべて史実と一致する。バイイ、ミラボー、シェイエス、ムーニエ——配置も服装も、ダヴィドが後に描くことになるあの絵画と、完全に一致している。


結論。自分は、1794年7月28日の断頭台から、1789年6月20日の球戯場に、時間を遡って移動した。


ロベスピエールは、この結論を受け入れるのに三秒を要さなかった。


なぜなら、彼にとって重要なのは「なぜ」ではなく「何をするか」だったからだ。原因の究明は後回しでいい。メカニズムの解明は学者に任せればいい。今、この瞬間に必要なのは、この状況が自分に何を可能にするかの即時評価だった。


そして、その評価は、すでに断頭台の上で完了していた。


完璧な設計図は、すでに脳内にある。


未来の失敗は、すべて記憶に刻まれている。


あとは、実行するだけだ。



だが、ロベスピエールは動かなかった。


椅子に座ったまま、冷ややかな目で——五年後の断頭台から戻ってきた目で——テニスコートの熱狂を観察し始めた。


怒号が渦を巻いている。議員たちは立ち上がり、拳を突き上げ、「我々は国民の代表だ!」「国王に屈するな!」と叫んでいる。バイイが手を挙げて静粛を求めるが、興奮した議員たちの声はなかなか収まらない。ミラボーが壇に駆け寄り、バイイの横で何事かを怒鳴っている。


——ノイズだ。


ロベスピエールの思考は、かつてこの場で感じたはずの高揚を、完全に切除していた。


五年前のこの日、三十一歳のマクシミリアン・ロベスピエールは、この光景に酔いしれていた。黄色い上着の胸に手を当て、目に涙すら浮かべていた。「これが革命の始まりだ」と信じていた。民衆の力が王権を打ち倒す、あの壮大な物語の第一頁に自分が立ち会っていることに、全身が震えていた。


今のロベスピエールには、それが見える。


この熱狂の正体が。


この怒号の本質が。


これは、一種の病だ。


制御されないまま増殖する感情の病。「怒り」という名の、極めて感染力の高い病原体。この球戯場で今、五百七十七人の議員の間を、猛烈な速度で増殖している。この感染は止まらない。バスティーユ襲撃へ、ヴェルサイユ行進へ、八月十日事件へ、九月虐殺へ、王の処刑へ、恐怖政治へ——五年間の暴力の連鎖は、すべてこの瞬間の病から始まった。


自分も、感染者だった。


最も重篤な感染者だった。


「徳」という名の抗体を開発したつもりでいたが、実際にはウイルスの変異株を培養していただけだった。ギロチンという注射器で、患者の体から病原体を除去しようとして——しかし注射器そのものが新たな感染源になっていた。


ロベスピエールは、ミラボーの紅潮した顔を見た。


——あの男は、二年後に死ぬ。そして、裏切り者だったことが発覚する。


バイイの背筋の伸びた姿勢を見た。


——あの男は、四年後、自分が署名した処刑令状で死ぬ。


周囲の議員たちの興奮した顔を、一人ずつ見た。


——あの男は、ジロンド派として粛清される。あの男は、ダントン派として処刑される。あの男は、テルミドール以後に白色テロの犠牲になる。あの男は——


死者の名簿が、目の前に座っている。


まだ呼吸をしている死者たち。まだ笑い、まだ怒り、まだ拳を突き上げている死者たち。彼らは自分がこれから死ぬことを知らない。自分が送り出す荷馬車に載せられ、自分が整備したギロチンの刃の下に首を差し出すことを、まだ知らない。


——いや。


ロベスピエールは、その思考を修正した。


それは、かつての未来だ。もう存在しない未来。自分がここにいるということは、その未来はキャンセルされたということだ。あの五年間は、書き換え可能なデータになった。


問題は、どう書き換えるか、だ。



バイイが、ようやく怒号を鎮めつつあった。


彼は壇の中央に立ち、右手に宣誓文を掲げ、左手で静粛を求めている。天文学者らしい冷静さで、しかしその声には確かな情熱が宿っている。


「諸君。我々は今日、この場において——」


バイイの声が球戯場に響き始めた。「王国の憲法が制定され——」


ロベスピエールは、まだ動かなかった。


動くべきタイミングを、精密に計算していた。


ここで飛び出すのは早い。バイイがまだ宣誓文を読み上げている段階で壇を奪えば、単なる狂人として排除される。ミラボーの鉄拳で殴り倒されるのがオチだ。


かといって、宣誓が完了してしまえば手遅れになる。署名が済めば歴史は動き出す。三日後にルイ十六世が親臨会議を開き、「国王の承認しない議案は一切無効である」と宣言する。軍隊がヴェルサイユに集結する。七月十一日にネッケルが罷免される。七月十四日にバスティーユが襲撃される。


暴力の連鎖の起点は、この宣誓そのものではない。宣誓の「後」にある。宣誓は必要だ。第三身分の団結は必要だ。だが、その団結が向かう方向を——暴力ではなく、経済に——書き換えなければならない。


つまり。


バイイに宣誓を読ませ、議員たちの団結を確認した直後に、その熱量を自分が掌握する。暴走する前に、ハンドルを奪う。


タイミングは——


「——強固な基盤の上に確立されるまでは、決して解散せず、四方の状況に応じていかなる場所でも会議を開くことを誓う!」


バイイが宣誓文を読み終えた。


球戯場が、爆発した。


「フランス万歳!」


「国民万歳!」


「国王万歳!」


万歳三唱。五百七十七人の声が天井の梁を震わせ、高い窓のガラスを微かに鳴らした。議員たちは立ち上がり、隣の者と抱き合い、涙を流し、拳を突き上げている。壇上のバイイは宣誓文を高く掲げ、ミラボーは両足を踏ん張って咆哮している。シェイエスだけが、座ったまま静かに頷いている。


美しい光景だった。


ダヴィドがこの瞬間を描きたいと思うのも無理はない、とロベスピエールは考えた。古典主義的な均整と英雄的陶酔が融合した、完璧な構図。理念と感情が一致した、稀有な瞬間。


だが。


この美しさの下には、致命的なバグが潜んでいる。


「国王万歳」。彼らはまだ国王を敬っている。まだルイ十六世を信じている。この善意が裏切られたとき——ネッケル罷免のとき、ヴァレンヌ逃亡のとき——彼らの善意は瞬時に殺意に変わる。裏切られた善意ほど危険な爆薬はない。


万歳三唱が収まり始めた。


興奮の余韻で議員たちが口々に語り始める。「次は何をすべきか」「国王にどう対峙するか」「軍隊が来たらどうする」——声はまだ混沌としている。方向が定まっていない。


今だ。


ロベスピエールは、椅子から立ち上がった。


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