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馬力の亡国、三馬力の祖国

「いいか、フルトン。三つだけ覚えておけ」


国民科学研究所の長い廊下を歩きながら、ダバンが指を立てた。


「第一に、兄のジャック=コンスタンタンには絶対に計算式を見せるな。式を見せた瞬間、奴は耳を閉じる。数字は会話で出せ。世間話のふりをして出せ」


「第二は」


「弟のオーギュスト=シャルルを味方にしろ。弟は兄より柔らかい。ただし兄の前では絶対に兄に逆らわん。つまり味方にしても役に立たん」


「……それは味方と呼べるんですか」


「第三」ダバンはフルトンの質問を無視した。「私が何を言われても、君は笑うな。眉も動かすな。君が私を庇った瞬間、この面会は終わる」


フルトンは、脇に抱えた革のケースを抱え直した。中には図面と、三日徹夜で仕上げた船の模型が入っている。


「ひとつ聞いていいですか、ムッシュ・ダバン」


「なんだ」


「あなたは来ない方がよかったのでは」


ダバンは、半歩も乱れずに歩き続けた。


「百回考えた。それでも来る。12年前、私は逃げるように退室した。今日は、最後まで部屋にいる。それだけのために来る」


廊下の突き当たり。両開きの扉。

扉の前で、フルトンは一度だけ深呼吸した。ロンドンの控えの間を思い出す。あのときと同じだ。扉の向こうに、権威が座っている。


違うのは、ひとつだけ。


今日は、こちらに伝説が一人ついている。口は最悪に悪いが。


* * *


会議室の長机の向こうにペリエ兄弟は並んで座っていた。


兄、ジャック=コンスタンタン・ペリエ。五十二歳。シャイヨー製作所の主。フランスで最初にワットの機関を動かした男。灰色の髪を几帳面に撫でつけ、机の上には書類が直角に揃えてある。


弟、オーギュスト=シャルル。四十七歳。兄より柔らかい輪郭。兄より浅く座り、兄より先に、入室したフルトンに会釈をした。


そして兄の視線は——フルトンを素通りして、その後ろのダバンに、釘のように刺さった。


「……話が違うな。アメリカ人技師との面会と聞いていたが」


「私は付き添いだ」とダバンが言った。「荷物持ちと思ってもらえばいい」


「侯爵さまが荷物持ちとは。共和国も板についたものだ」


空気が、五度ほど下がった。


フルトンは何も聞こえなかった顔で進み出て、長机にケースを置いた。


「ロバート・フルトンです。本日はお時間をいただき光栄です。ムッシュ・ペリエ。お二人にお会いするのは、実は二度目でして」


兄ペリエの眉が、わずかに動いた。


「会った覚えはないが」


「お会いしたのは私が一方的に、です。5年前、ロンドンの機械工の集まりで、シャイヨーの複動機関の図面の写しが回覧されました。ピストンの往復の両方から力を取り出す機構を、ワット社の本家の図面と並べて皆で見比べたんです。結論だけ申し上げると、その夜、酒場の勘定はフランス式の蒸気機関に乾杯する者が払うことになりました」


「ほう。誰が払った」


「私です」


弟が、噴き出しかけて咳に変えた。兄は笑わなかった。だが、直角に揃えた書類の角を、指先で一度だけ撫でた。


ダバンは壁際の椅子に座り、置物になった。宣言どおりに。


「それで」と兄ペリエが言った。「本題は何かね。まさかロンドンの酒場の話をしに、研究所の会議室を押さえたわけではあるまい」


「蒸気船です」


部屋の温度が、今度は氷点下まで落ちた。


兄ペリエは、ゆっくりと背もたれに体を預けた。その仕草には様式があった。何百回も繰り返して磨き上げた、却下の様式。


「時間の無駄だ」


「と、仰ると」


「蒸気機関の出力対重量比では、船舶の推進は経済的に成立せん。私は1775年に、この手で実験した。机上の空論ではなく、セーヌに実物を浮かべてだ。フランスで蒸気船を語る資格のある人間がいるとすれば、それは成功を夢見た者ではない。失敗を実測した者だ」


(来た!)


フルトンは、心の中で手を打った。今の一言を、待っていた。


「仰るとおりです」


兄ペリエが、虚を突かれた顔をした。隣で弟も瞬きをした。壁際のダバンだけが、微動だにしなかった。


「……今、何と言った」


「仰るとおり、と申し上げました。蒸気船を語る資格があるのは、失敗を実測した者だけです。だからこそ私は今日、世界中の『実測された失敗』を持ってきました」


フルトンはケースを開けた。

取り出したのは、まず一束の紙だった。


「アメリカ。ジョン・フィッチ。デラウェア川で、蒸気船を実際に商業運航させた男です。1790年の夏、定期便として数千キロを走りました。そして、その年の冬に破産しました」


「走ったのに、破産した?」と弟が身を乗り出した。


「ええ。船は走った。客が乗らなかった。速度が駅馬車と大差なく、運賃で燃料代を賄えなかったんです。つぎにスコットランドのサイミントン。湖で試験して、外輪は見事に回り、出資者の財布の方が先に止まりました。私自身、ロンドンで計画を潰されています。理由は……まあ、技術以外の何かでした」


フルトンは、失敗の記録を一枚ずつ、長机の上に並べていった。トランプを配るように。


「ムッシュ・ペリエ。世界中の蒸気船は、二種類の死に方をしています。出力不足で物理的に死ぬか、採算不足で経済的に死ぬか。あなたの1775年の実験は、前者の死因を世界で最初に特定した記録です。失敗ではありません。解剖記録です。解剖なしに医学が進まないように、あなたの実測なしに、この一束は読み解けない」


兄ペリエは、机に並んだ紙を見ていた。


押しやらなかった。

壁際で、ダバンの目だけが、それを見ていた。


* * *



ジャック=コンスタンタン・ペリエは、警戒していた。


このアメリカ人は、上手すぎる。


話の組み立てが、ではない。組み立てなら自分も読める。商談を四十年やってきた。褒めてから売り込む人間なら、千人は見てきた。


上手すぎるのは、目だ。


このアメリカ人は、こちらが何かを言うたびに、ほんの一瞬、目で机の上の紙の配置を直す。話の流れに合わせて見せる図の順番をその場で組み替えている。準備した演説をしているのではない。こちらの反応を読みながら、絵を描き足している。


まるで、肖像画家だ。座っているこちらの顔色を見ながら、筆を選び直す。


(厄介なのが来た)


と、ペリエは思った。そして、自分がその「厄介」を、少しも不快に思っていないことに気づいて、もっと警戒した。


四十年、機械を売ってきた。売り込みには飽きている。だが、いい仕事には飽きていない。このアメリカ人の資料の束は、いい仕事だった。フィッチの運航記録の写し。燃料消費の概算。船体抵抗の比較図。どれも、欲しくなる種類の紙だ。


問題は、紙ではない。

壁際だ。

壁際に座っている男が、視界の端から消えない。


20年前、シャイヨーの製図台で剣を握る間隔で鉛筆を握っていた青年。筋は良かった。良すぎた。貴族の道楽だと思っていたら、5年で図面が自分を追い越し始め、10年でソーヌの報告書が届いた。

40メートルの船が、15分、川を遡った。


あの報告書を読んだ夜のことをペリエは誰にも話したことがない。弟にもだ。読み終えて、自分のセーヌの実験記録を出してきて、朝まで並べて読んだ。答えは明け方に出ていた。出力だ。自分の機関は、最初から足りていなかった。船体抵抗の見積もりを、自分は誤っていた。


つまり、あの青年は正しい。


そう認める準備が、できかけていた。

アカデミーの、あの席までは。


あの席で青年は図表を出した。正しい図表を。正しさを、満座の前でこちらの顔に向けて。「ペリエ氏の実験は出力の見積もりを誤っており…」と、22歳も年下の声が言った。


事実だった。

事実であることと許せることは、別の帳簿に記載される。


あの日、自分は図表を机の端へ押しやった。

以来、押しやった図表は、夜中に時々、机に戻ってくる。20年間、戻ってくる。押しやった音まで、ついてくる。紙が滑る、乾いた、小さな音。あんな小さな音が、なぜ20年消えないのか、ペリエには分からない。

分からないまま、52歳になった。


「——ムッシュ・ペリエ?」


アメリカ人の声で、我に返った。


「続けたまえ」


「では、本題の数字を。世界中の解剖記録が指す死因は、共通しています。出力対重量比の閾値です。船体抵抗に対して、機関出力が一定の線を下回ると、船は物理的には進んでも、経済的には沈む。その線は——」


アメリカ人は、そこで言葉を切った。


言うのか、とペリエは思った。三馬力と。あの数字を。この部屋で。


壁際の男は、彫像のままだった。


「——その線は、船ごとに違います。ですから私は今日、数字を申し上げません」


ペリエは、目を上げた。


「代わりに、これを」


アメリカ人がケースから取り出したのは、船の模型だった。


精巧な、20分の1の模型。だが普通の模型ではなかった。船体の片側が、外科の図譜のように開いていて、機関と、伝動と、外輪の機構が、すべて見えるようになっている。そして機関の据え付け部分だけが空洞だった。


「機関室を、空けてあります」


アメリカ人は、模型を、そっと机の中央に置いた。


「ここに何馬力を据えるべきかは、機関を作る人間にしか決められません。私は船体と抵抗の計算を持っています。運航と採算の記録を持っています。ですが、心臓は作れない。フランスでこの空洞を埋められる工房は、シャイヨーひとつです。ムッシュ・ペリエ。この船の死因を、生まれる前に解剖してください。何馬力なら、死なずに済みますか」


部屋が、静まり返った。


ペリエは、空洞を抱えた船を見ていた。


見事な手だ、と思った。

数字を言えば、20年前の再演になる。だからこの男は、数字をこちらに言わせる。正しさを突き付ける代わりに、正しさの所有権ごと、こちらの机に置いた。


(ソーヌの男に、これができていればな)


そう思ってから、ペリエは胸の内で短く認めた。できるわけがなかった。あれは32歳の、自分の正しさに酔うだけの若さだった。そして押しやったこちらも、50手前の、自分の傷に酔うだけの……


……やめだ。


ペリエは帳簿を閉じるように思考を閉じ、模型に手を伸ばした。職人の指が、空洞の縁をなぞる。据え付けの寸法。軸の通し方。フライホイールの逃げ。


「……船体長は」


「実物換算で38メートルを想定しています」


「喫水は」


「1.6メートル」


「外輪の直径と、毎分の回転数は」


アメリカ人が即答する。弟が手帳を出して書き始める。気づけば自分も、頭の中の製図台に、シリンダーを置き始めている。径は。行程は。複動で、回転は歯車で増速して——


「兄さん」


弟の声が、弾んでいた。


「これ、89年の複動機の改良型なら、収まりますよ。ボイラーを横に寝かせれば——」


「収まるかどうかの話はしておらん」


ペリエは、自分の声が思ったより硬く出たことに気づいた。弟が首をすくめた。


収まる。それは見れば分かる。収まって、回って、おそらく、走る。40年機械を見てきた目が、もう結論を出している。この船は走る。フィッチの記録とこの船体設計と、シャイヨーの機関。三つ揃えば、走る。


走ってしまう。

そして処女航走の日。艫には、壁際のあの男が、立つのだろう。


新聞は書くだろう。「ソーヌの先駆者、二十年目の雪辱」と。アカデミーの不当な検査、シャイヨーの妨害、すべてが掘り返される。フランス初の蒸気船の物語は、ジュフロワ・ダバンの復権の物語として書かれる。ジャック=コンスタンタン・ペリエの名前は、その物語の中で、ひとつの役しか与えられない。


若い才能を潰した、老いた権威。


(儂が、ワットにされる)


その一語が浮かんだ瞬間、ペリエは模型から手を離していた。


「……話は、分かった」


自分の声が、遠くで聞こえた。


「資料は置いていきたまえ。検討する。返事は、追って」


アメリカ人の目に、初めて、計算の崩れた色が浮かんだ。弟が「兄さん」と言いかけて、呑み込んだ。


壁際の男は、何も言わなかった。


ただ立ち上がり、20年前と同じ礼を、寸分同じ角度でして、扉に向かった。その背中が言っていた。知っていた、と。お前はそういう男だと、知っていた、と。


違う、とペリエは思った。


違うのだ。機関が惜しいのではない。金の話でもない。ただ——お前の物語の中で悪役をやるために、儂の40年があったわけではない。それだけなのだ。それだけのことが、この歳になると、岩より動かんのだ。


扉が閉まった。


机の上には、空洞を抱えた船の模型と、資料の束が残された。


ペリエは、長いあいだ、それを見ていた。


押しやらなかった。


押しやれなかった。机の端まで、あと40センチ。その40センチが、20年だった。


「兄さん」


弟が、おそるおそる言った。


「バーミンガムの弁護士から、また書状が来てます。例の、ライセンス料の件。期日までに回答がなければ法廷で、と」


ペリエは答えなかった。


机の端の、別の書類の山。直角に揃えられたその山の一番上に、英国式の事務封筒が載っている。差出人、ボールトン・アンド・ワット商会代理人。この一年で、9通目。


ペリエは、封筒と船の模型を順に見た。


それから、どちらにも触れずに立ち上がった。


「……茶にする」


それが、その日のシャイヨーの主の、最後の決裁だった。

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