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嫉妬という名の燃料

シャイヨーの製作所は、音でできていた。


鍛造ハンマーの打撃。送風機の唸り。歯切り盤の悲鳴。中庭では試運転中の機関が白い蒸気を吐き、職人たちの怒鳴り声がその全部を上から塗り潰していく。


門をくぐったフルトンは、しばらく立ち尽くした。


ロンドンのソーホー製作所は、敵の城だったから中を見ていない。つまりフルトンは生まれて初めて、機関を「卸売りの規模」で作る場所に立っていた。並んだシリンダー。積まれたフライホイール。鋳造を待つ砂型の列。


大聖堂だ、と思った。火と鉄の。


「口を閉じろ、フルトン。職人に舐められる」


隣でダバンが言った。だがその声も、いつもより硬い。


無理もなかった。20年前、この男はこの中庭で図面の引き方を覚えたのだ。剣を握る間隔で鉛筆を握って。


「……懐かしいですか」


「いいや」ダバンは前だけを見ていた。「炉の位置が変わった。儂の知っているシャイヨーは、もうない」


嘘だな、とフルトンは思った。さっきから一度も、足元を見ずに歩いている。敷石の段差も、排水溝も、全部覚えている足取りだった。


呼び出しの書状は、三日前に届いていた。


差出人はペリエ兄弟。文面は一行。


「資料返却の儀につき、シャイヨーまでご足労願いたい」


返却。

つまり、答えは否だ。わざわざ呼びつけて突っ返すのが、あの兄の流儀なのだろう。ダバンは「行くだけ無駄だ」と言い、言いながら、誰よりも早く身支度を済ませていた。


* * *


事務棟の応接室で、兄ペリエは例の模型を挟んで座っていた。


空洞の船。資料の束。すべて、三日前と同じ配置で、几帳面に揃えられて。


「来たか。掛けたまえ」


弟のオーギュストが茶を運んできた。その顔が妙に落ち着かない。兄の顔色を窺う回数が、前回の倍はある。


「単刀直入に言う」と兄ペリエは始めた。「検討の結果シャイヨーとして、機関の供給は可能であると判断した」


フルトンは、危うく茶を取り落としかけた。


「可能、ですか」


「可能だ。ただし、条件がある」


来た。


「第一に、機関の設計権はシャイヨーが保持する。第二に、製造費は前払い。第三に、本件は機関の売買契約であって、共同開発ではない。シャイヨーは納品後の運用に責任を負わず、名前も出さん。成功しようが失敗しようが、我々は無関係だ。以上だ」


フルトンは、頭の中で条件を裏返した。


翻訳すると、こうなる。金は取る。手は貸す。だが、この船の物語には、一行も登場しない。


成功すれば、それはダバンの雪辱の物語になる。失敗すれば、アメリカ人の山師の物語になる。どちらに転んでも、シャイヨーは外にいる。完璧な保身だった。完璧すぎて、ほとんど芸術だった。


「前払いの額は」と、ダバンが初めて口を開いた。

兄ペリエが、紙を一枚、滑らせて寄越した。


ダバンがそれを見て、眉ひとつ動かさずに、フルトンに回した。


フルトンは数字を見た。

見て、二度数えた。桁を間違えたかと思ったからだ。間違えていなかった。


「……ムッシュ・ペリエ。率直に伺いますが、これは海軍の戦列艦が買える額では」


「機関は精密機械だ。船級の複動機を新規に設計し、専用に鋳る。安くはない」


「安くはないでしょうが、これは『高い』を三回くらい通り過ぎた数字です」


「嫌なら、他を当たることだ」


兄ペリエの声は、平坦だった。平坦すぎた。


フルトンは理解した。これは値段ではない。壁だ。「可能」という言葉で扉を開けて見せながら、誰も通れない高さに敷居を上げる。断ったのはそちらだ、という形を作るための数字。


三日前の「検討する」より、質の悪い「否」だった。


部屋が、沈黙した。


ダバンは石になっている。弟は茶碗の中を見ている。兄は直角に揃えた書類の角を、指で撫でている。


フルトンは、窓の外を見た。


中庭で、試運転の機関が蒸気を吐いていた。あの機関ひとつあれば。あの心臓ひとつで、船は走るのに。心臓は目の前に山積みで、しかしどの一個にも、手が届かない。


ロンドンと同じだ。


あの霧の国でも、技術はあった。機関もあった。届かなかっただけだ。理屈ではない何かが、いつも最後の四十センチで、腕を掴む。


疲れが急に来た。


フルトンは茶を一口飲み、ほとんど独り言としてこぼした。


「……フランスに来れば、と思っていたんですがね。海を渡っても、結局やることは同じだ。ロンドンではワット氏の妨害に遭い、パリでは…」


「待て」


声が、部屋を貫いた。


フルトンが顔を上げると、兄ペリエが身を乗り出していた。書類の角から指が離れていた。


「今、何と言った」


「は?」


「ワットだ。ワットが何だと言った」


「……私がロンドンで計画を潰された経緯ですか。ご存じかと思っていましたが」


「妨害の中身を言え。正確にだ」


フルトンは、ダバンと顔を見合わせた。ダバンは分からん、という顔で顎をしゃくった。


「計画書は技術審査を通りかけていました。流れが変わったのは産業界への照会からです。ワット氏は私の計画を『時期尚早、独創性なし』と切り捨てそれだけなら意見ですが、その後、別の筋から政府に意見書が回りました。私は『フランスのための技術調達を企てる、出自不明のスパイ』だそうです。機関の輸出許可は拒否。国内活動は監視対象。それで、海を渡りました」


言い終える前に兄ペリエは立ち上がっていた。


「オーギュスト」


「は、はい」


「書庫から例の綴りを持ってこい。全部だ」


* * *


机の上に、書類の山が積まれた。

英国式の事務封筒。差出人はすべて同じ。ボールトン・アンド・ワット商会、もしくはその代理人。


「一年で九通」と兄ペリエは言った。指が封筒を一通ずつ、叩いていく。「ライセンス料の追徴。分離凝縮器の特許権侵害の警告。複動機構に関する権利主張。期日までに回答なくば法廷で、ときた。いいかね、フルトン君。儂は1779年、フランスで最初にワットの機関を据えた男だ。図面の対価は正規に払った。あの男が寄越したのは不完全な図面で、足りない部分はこの工房が自力で埋めた。89年の複動機は、九割がシャイヨーの設計だ。それを今になって『当社の特許の派生物』だと?」


封筒を叩く指が、止まった。


「ジェームズ・ワットはな、フルトン君。偉大な発明家だ。それは認める。認めた上で言うが、あの男は自分の発明の上に座り込んで、他人が前に進むのを足を出して転ばせることを晩年の事業にした男だ。ホーンブロワーの複式機関がどう潰されたか知っているか。法廷でだ。技術でではなく、弁護士と陪審でだ。発明で勝てなくなった発明家ほど見苦しいものはない」


「兄さん、興奮しすぎだ。彼は自分の発明を……」


「黙れ、オーギュスト。儂は40年この商売をやって、機関の良し悪しで負けたことは一度もない。負けるのはいつも、機関の外でだ。特許。役所。委員会。根回し……そうか。そうか、貴様もか、フルトン君。貴様も機関の外で負けた口か」


兄ペリエは、机の上の、空洞を抱えた船の模型を見た。

それから、九通の封筒の山を見た。

その二つを、天秤に載せるように、交互に。


「……この船が走れば」と、彼は言った。声の温度が、変わっていた。「ワットは何を失う」

フルトンは、慎重に答えた。


「直接には、何も。ですが蒸気機関の歴史は、書き換わります。『機関を完成させたのはワット、機関に海を渡らせたのはフランス』と。ソーホーの機関は炭鉱の水を汲み続け、シャイヨーの機関は大西洋を」


「フルトン君」


「はい」


「君は今、儂に世辞を言ったな。プレゼンというやつだな」


「……半分は。残り半分は工学的事実です」


兄ペリエの顔に、四十年分の商談で鍛えた、岩のような無表情があった。

その岩が、ひび割れた。

笑ったのだ。


「あの傲慢なバーミンガムの老いぼれを海の上で出し抜けるというのか。法廷でも、特許庁でもなく。あの男が一度も勝負したことのない盤の上で」


「出し抜けます」とフルトンは言った。「機関さえ、あれば」


兄ペリエは、懐から万年筆ではなく羽根ペンを抜き、さっきの見積書を引き寄せ、数字の上に、太い線を引いた。


一本。二本。桁が、消えていく。


「製造費はシャイヨーが持つ。設計権は共同。名前も出す。出すとも、特大の銘板でだ。『機関製造シャイヨー工房ペリエ兄弟』船の一番目立つところに付けろ」


「兄さん!?」


「オーギュスト、炉の予定を組み直せ。水道会社のポンプは後回しだ」


「後回しって、市と契約が」


「パリの水は一年待っても腐らん。だがこの好機は腐る。それと」


兄ペリエの手が、止まった。

部屋の温度が、一段、変わった。


彼の目が、初めてまっすぐに、壁際の男を見た。


「……ジュフロワ」


二十年ぶりに呼ばれた名前に、ダバンは、すぐには返事をしなかった。


「船体抵抗に対する所要出力の計算を、君は持っているはずだ。12年いや、もう20年か。机の上で進めた分の、全部だ」


「持っている」


「見せろ」


短い沈黙があった。


ダバンはゆっくりと鞄から図表の束を取り出した。古い紙と新しい紙が混ざった、分厚い束。一番上の一枚は、紙の縁が茶色く灼けていた。20年前、アカデミーの机の上で、押しやられたあの図表を、彼が捨てられずに持ち続けたことは、誰の目にも明らかだった。


ダバンはそれを、机の中央に置いた。

兄ペリエは、手を伸ばした。

そして、自分の方へ、引き寄せた。


紙が机を滑る、乾いた、小さな音がした。

二十年前と同じ音だった。向きだけが、逆だった。


「……ふん」と、ペリエは図表に目を落としたまま言った。「三馬力か。船級なら換算で……なるほど。当時の儂の機関では、どのみち足りなかったわけだ」


「ああ」とダバンは言った。「足りなかった」


「計算は若い、と儂は言ったな。あの席で」


「言われた」


「川は老いている、とも」


「聞いた」


「両方、正しかったわけだ。君の計算は若く、儂の川は老いていた。それだけの話を、20年もだ」


それが、謝罪だった。

ジャック=コンスタンタン・ペリエという男に可能な、最大限の謝罪。ダバンもそれを知っていた。だから彼も、ダバンという男に可能な最大限の返礼をした。


「ペリエ。あんたの1775年の機関だがな。あの船体であの川なら、あれは妥当な設計だった。データが世界に存在しなかっただけだ。私は若くて、それが言えなかった」


兄ペリエは、図表から顔を上げなかった。

上げなかったが、ページをめくる指が、一枚ごとに速くなっていった。職人が、いい図面に出会ったときの速度だった。


* * *


その日の夕方、シャイヨーの応接室は製図室に変わっていた。


机の上には模型と図表と白紙が散乱し、四人の男が、肩を寄せ合って一枚の紙を覗き込んでいた。侯爵と、水道会社の重役兄弟と、アメリカ人。一週間前なら、パリ中の誰に聞いても「あり得ない」と答えた組み合わせだった。


「機関はうちだ」と兄ペリエが言った。「船体と全体設計はフルトン。出力と抵抗の計算はジュフロワ。それと熱効率と材料は、研究所のラヴォアジエ氏を引き込め。あの男の改良炉なら、石炭が三割浮く」


「もう話は通っています」とフルトンが言った。「氏の言葉を借りれば『楽観は修正できる。絶望と違って』だそうです」


「結構。では役者は揃った」


兄ペリエは、白紙の中央に、力強く船の輪郭を引いた。40年物の、迷いのない線だった。


「で、フルトン君。蒸気船の次は何を作る気だ。君のことだ、ケースの底にまだ何か隠しているのだろう」


フルトンは、一瞬、ダバンを見た。ダバンが頷いた。


「潜水艦と、魚雷を」


弟のオーギュストが、茶を吹いた。


「せ、潜水艦って、水に潜る?船が?沈んだら船の負けでは?」


「沈むんじゃありません。潜るんです。自分の意志で潜って、自分の意志で浮く。これが設計図です。名前はノーティラス」


「魚雷というのは」と兄ペリエ。


「水中に置く、番犬です」


フルトンの声から、商談の調子が消えた。


「ムッシュ・ペリエ。私は軍艦を作りたいんじゃない。その逆です。私の故郷は、独立戦争のあいだ、英国艦隊に港という港を塞がれました。海軍を持たない国は、持つ国の言い値で生きるしかない。今のフランスも同じだ。英国の戦列艦は百隻、フランスは数えるだけ虚しい。まともに艦隊で張り合えば、百年かかって、百年分の血が流れる」


彼は、ノーティラスの図面の横に、球形の機雷の図を置いた。


「だが、港の入口に、これが眠っているとしたらどうです。見えない。数も分からない。触れれば戦列艦が一発で沈む。攻めてくる側にとって、これほど割に合わない海はない。機雷は一歩も動けません。外洋に出て、他国の港を襲うことは、原理的にできない。守ることしか、できない武器なんです。艦隊を百隻並べる代わりに、『この海に入れば損をする』という計算を、敵の頭の中に並べる。それで海戦は起きなくなる。私は本気で、そう信じています」


部屋が、静かになった。

工場の音だけが、遠くで続いていた。


やがて兄ペリエが、ぼそりと言った。


「……攻められない武器、か。商売としては最悪だな。戦が起きんのでは、二発目が売れん」


「兄さん!」


「だが」と、ペリエは図面を引き寄せた。例の、乾いた紙の音を立てて。「機構としては、最高に面白い。圧搾空気の貯蔵はどうする。潜航中の空気の量は計算したのか。おいジュフロワ、水中での船体抵抗は水上と式が変わるぞ、君の図表の何枚目だ」


四つの頭が、また一枚の紙の上に集まった。

窓の外で、シャイヨーの炉が、夕暮れに赤く燃えていた。


* * *



数日後。

外務省の執務室でタレーランは一通の報告書を読み終えた。


シャイヨーに端を発する、新会社設立の動き。

出資、ペリエ兄弟。

技術、フルトン、ダバン、ラヴォアジエ。

目的、蒸気船の商業運航、ならびに「沿岸防衛装置」の研究。


タレーランはペンを取り、帳簿のような私的な手控えに短く記した。


支出。ロンドンよりの書類写し一式の経費、ならびに書状二通の封蝋代。

収入。蒸気船開発事業一件。先駆者一名(在庫より再生)。技師一名(英国より無償譲渡)。出資金全額(他人の財布)。

備考。本件最大の功労者はジェームズ・ワット氏である。氏の嫉妬がなければフルトンは渡仏せず、氏の訴状がなければペリエは財布を開かなかった。敵国の老人の狭量が、当方の造船事業の燃料となる。つまるところ外交とは、他人の感情の再利用である。


ペンを置き、彼は窓の外のセーヌを眺めた。


あの川を、いずれ煙を吐く船が走る。その先の海峡を、その先の地中海を。

悪くない投資だった。回収がいつ、どんな形になるかは、まだ誰にも彼自身にも分かっていなかったが。


* * *


そして、翌年の早春。


セーヌ川の試験水域を、一隻の船が走った。


全長20メートル。中央に煙突。船尾に外輪。帆はなく、櫂もなく、曳き綱もない。岸に集まった野次馬が、ぽかんと口を開けて、流れを遡る船を目で追った。


操舵席の脇にはフルトンが立ち、機関の傍らには煤だらけのオーギュストが張り付き、岸ではペリエ兄とラヴォアジエが、懐中時計を片手に速度を測っていた。毎時8キロ。商用には充分。軍用には、これから。


そして艫には約束どおり、一人の男が立っていた。


ジュフロワ・ダバン、44歳。指揮はしない。何もしない。ただ、艫の隅に立って、目を閉じていた。

外輪が水を掴むたび、甲板が震える。

その振動が、靴底から、骨を伝って昇ってくる。20年前にソーヌで聞いた、あの音。歓声の代わりに、今日は野次馬のどよめきと、オーギュストの「圧力安定!」の声と、フルトンの笑い声が、それに混ざった。


悪くない、とダバンは思った。歓声は一万人分少ないが、船は20年分、速い。


誰も知らなかった。

岸で時計を睨むペリエも、艫で目を閉じるダバンも、操舵席で笑うフルトンもこの船と、ケースの底の二つの設計図が、最初の大勝利を、どんな形で挙げることになるのかを。


一発も撃たずに。


一隻も、まだ存在しないままで。


それはまた、別の盤面の話である。

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