霧の中の肖像
1794年、ロンドン。
ナポレオンがマルタ島での交渉を進めていたころ、ドーバー海峡の向こう側で、ロバート・フルトンは絵を描くように姿勢正しく待っていた。
ホワイトホールの庁舎の控えの間。秋の霧が窓の外で世界を灰色一色に塗り潰し、部屋のなかでは石炭の小さな火が、役人たちの無関心と同じ温度で燃えていた。
待つことには慣れていた。画家とは待つ職業だ。絵具が乾くのを待ち、依頼主の気が変わらないのを祈り、光が窓の正しい角度に来る一瞬を待つ。フィラデルフィアの宝飾店で象牙の小さな楕円に貴婦人の顔を描いていた17歳から、彼はずっと待ってきた。
だから彼は、待ち時間を無駄にしない。観察する。
壁の肖像画。歴代の海軍卿たち。どれも同じ画法で描かれている。重厚な闇を背景に、勲章だけが光る构図。フルトンは職業柄、筆致から画家の心情を読む癖があった。これらの絵を描いた画家たちは、対象を尊敬していない。恐れている。恐れは闇を厚く塗らせる。
大英帝国は、闇の厚い国だ。
それでも彼はこの国に7年いた。理由は単純で、ここには未来が先に来ていたからだ。運河が国土を血管のように走り、炉が夜通し赤く、蒸気機関が炭鉱の水を汲み上げる。ペンシルベニアの農場で母に読み書きを習った少年にとって、この島は約束の地のはずだった。腕一本で身を立てる者の国。
扉が開いた。
「ミスター・フルトン」
書記官は名簿から顔を上げなかった。「お通しします」
フルトンは立ち上がり、上着の襟を直した。脇には筒に入れた図面。この日のために引き直した、蒸気推進船舶の計画書の最終稿。彼は楽観していた。楽観は彼の生地のようなもので、裁ち落としても裁ち落としても、袖口から覗いた。
なにしろ、図面は完璧だった。
誰が見ても、その船はもう走っているように見えるはずだった。
* * *
審査官は三人いた。中央の男が、フルトンの筒には目もくれず、机の上の一枚の書面を裏返した。
「結論から申し上げる。貴殿の蒸気推進船舶計画への支援は、却下された」
フルトンは頷いた。一度目の却下は想定の内だ。彼は筒の蓋に手を掛けた。
「では、改訂版の図面をご覧いただきたい。前回ご指摘のあった外輪の——」
「図面は不要です」
声は事務的だった。事務的であることに、努力の要らない種類の声だった。
「あわせて通達する。貴殿が申請していたボールトン・アンド・ワット社製蒸気機関の利用、及び国外への持ち出し許可は、認められない。機械輸出禁止法に基づく決定である。なお——」
男は初めて顔を上げた。
「貴殿の今後の国内における活動についても、しかるべき注意が払われることになる。以上」
フルトンは、筒の蓋に手を掛けたまま、動けなかった。
却下は分かる。輸出不許可も、法律があるなら分かる。だが最後の一文は、何だ。しかるべき注意。あれは技術審査の言葉ではない。
あれは、警察の言葉だ。
「理由を伺いたい。技術的な欠陥のご指摘なら、改善案を提示できます。資金計画の不備なら——」
「理由を開示する義務は、当方にはない」
「私は七年、この国で働いてきました。運河の計画書を書き、閘門の改良案を出し、特許を取った。大理石を挽く機械も……」
「ミスター・フルトン」
左側の年嵩の男が、初めて口を開いた。その声には、事務的な男の声にはないものが混じっていた。微かな、ほとんど親切に近い、疲労。
「あなたは絵がお上手だ」
フルトンは黙った。
「あなたの図面を私も拝見した。じつに見事だ。蒸気の船が波を切って走っている。煙が風になびく角度まで描いてある。見ていると、その船がもう海を走っているような気にさせられる」
男は書面を揃えながら、立ち上がった。
「この国には、まだ走っていない船が、もう走っているように見せられては困る方々がいる。どうか、お引き取りを」
* * *
霧のなかを、フルトンは歩いた。
テムズ沿いの道。荷馬車の轍。石炭の匂い。霧はあらゆる輪郭を呑んでいた。聖ポールの円蓋も、橋も、帆柱の林も、すべてが灰色の下絵に戻っていた。世界がまだ何も描き込まれていないカンバスに。
まだ走っていない船が、もう走っているように見せられては困る方々がいる。
あの一言が、靴のなかの小石のように、一歩ごとに彼を突いた。
意味が分からなかったからではない。意味が分かりすぎたからだ。
翌週、ブリッジウォーター公爵の屋敷から面会の延期を告げる短い手紙が来た。理由は書かれていなかった。
その翌週、王立研究所の知人が約束していた晩餐を取り消した。理由は書かれていなかった。
彼が出入りしていた製図室で、職人たちの会話が彼が入ると半拍止まるようになった。理由は誰も言わなかった。
理由のない出来事が積み重なるとき、理由はひとつしかない。
誰かが理由を配って回っているのだ。
フルトンは下宿の部屋で蝋燭を一本だけ灯し、自分の図面を机に広げた。
蒸気船。側面図、平面図、機関の断面図。我ながら、いい図面だった。線の一本ずつに説得力を持たせる引き方を、彼は絵筆から学んだ。陰影で鋼の質量を見せ、水しぶきの白で速度を見せる。図面とは説得だ。まだ存在しないものの肖像画だ。
存在しないものを描く。
それが自分の唯一の才能だと彼は思っていた。
その才能が、なぜ罪になる。
* * *
答えは10日後の夜に届いた。
戸を叩いたのは見知らぬ従僕で、名乗らず封蝋に紋章のない手紙だけを置いて霧に消えた。
フルトンは封を切った。
署名はない。だが書き出しの一行で、誰の手か分かった。
「——貴君の双傾斜面の計画書、いまだ我が書斎にあり。返却を怠っている非礼を、この手紙の用件をもって詫びることにする——」
スタノープ伯爵。
チャールズ・スタノープ。第三代スタノープ伯。
フルトンが運河の件で文通を続けてきた、この国でもっとも風変わりな貴族。自ら「市民スタノープ」を名乗り、貴族院でただ一人、対仏戦争に反対票を投じ続ける男。印刷機を発明し、計算機を発明し、そして、蒸気で進む船を設計している男。
庶民院ではジャコバン呼ばわりされ、屋敷に投石されても演説をやめない。
フルトンはこの偏屈な伯爵が好きだった。伯爵は身分で人を測らない。図面で測る。
手紙は、伯爵らしい、回りくどさのない筆致で続いていた。
「——貴君の計画が却下された経緯を、知る立場にある者から聞いた。書き残すべきではない種類の話だが、書き残さなければ貴君は理由のない霧のなかで窒息するだろう。ゆえに書く。読み終えたら焼かれたい。
——貴君の計画書は、技術審査の段階では好意的に扱われていた。海軍内にも、蒸気の軍事的価値を理解する若い士官がいる。流れが変わったのは、審査が産業界への照会に回されてからだ。照会先には、当然、バーミンガムが含まれていた。
——ソーホーの老人が、何と言ったと思うかね。
——「蒸気機関の船舶への応用は時期尚早であり、計画には独創性が認められない」。ここまでは、まだ技術者の意見だ。問題はその先だ。老人の共同経営者の手を経て、別の筋から政府に達した意見書には、こうあったそうだ。『フルトンなる者は出自不明のアメリカ人であり、共和主義者と交わり、その計画の真の目的はフランスのための技術調達である疑いが濃い』
——貴君は、スパイにされたのだ。
——笑うなかれ。私は二十年、議会であの老人の特許の壁と戦う技術者たちを見てきた。ホーンブロワーの複式機関が法廷で潰されるのも見た。あの老人は偉大だ。それは誰も否定できない。凝縮器の発明は今世紀の奇跡のひとつだ。だが偉大な男の晩年ほど、新しい才能にとって危険な場所はない。老人は自分の機関が完成形だと信じている。ゆえに、機関の先を描く者は、老人の世界では二種類しかいない。模倣者か、敵だ。
——貴君は模倣者には見えなかった。貴君の図面は、出来が良すぎた。
——加えて、時勢が老人に味方した。海の向こうでは革命政府が学者を集めて新しい国を組んでいる。議会は対岸の「設計された共和国」に怯えている。怯えた政府に「フランスのスパイ」という言葉を差し出せば、審査は要らない。貴君の計画書が優れていればいるほど、疑いは深まる仕掛けだ。凡庸な図面なら、誰もスパイを疑わなかったろう。
——貴君の才能そのものが、証拠にされたのだ——」
フルトンは、そこで一度、手紙を置いた。
蝋燭の炎が揺れて、机の上の図面の陰影が動いた。描かれた船が、一瞬、波に揺れたように見えた。
彼は自分の手を見た。インクの染みた、画家の手を。
この手は、まだ存在しないものを、存在するように見せることができる。それだけの手だ。それだけの手であることが、誇りだった。フィラデルフィアの象牙の楕円から、ここまで来た。存在しない船を描き、存在しない運河を描き、図面の説得力だけを通貨にして、大西洋を渡った。
その通貨が、この国では偽造の証拠として読まれた。
上手く描けば描くほど、罪が重くなる国で、自分は七年、描き続けていた。
笑い声が、喉の奥で潰れた。砕けたガラスを飲んだような音がした。
* * *
手紙には、続きがあった。
「——さて、貴君はこれからどうするか。
——この国に留まる道は、ないわけではない。10年待てば老人の特許は切れる。老人自身も引退する。だが貴君は10年、製図台のない部屋で、監視官の足音を数えて暮らすことになる。貴君の歳でその10年は、画家が利き腕を縛って過ごす10年だ。
——アメリカに帰る道もある。だが貴君自身が誰より知っているはずだ。あの国にはまだ、貴君の船を鋳る炉がない。
——残る道は、ひとつしかない。そして私がこの手紙を書いたのは、その道を貴君に勧めるためだ。勧める、という言葉が穏当でなければ、白状するためだ。
——貴君と私は、似た船を夢見てきた。私のケント号は走らなかった。私には貴君のような目がない。私は機構を組めるが、機構の先にある光景を描けない。だから私は、自分の船を諦める代わりに、貴君の船が走るところを見たい。それがどこの川の上であっても、だ。
——海の向こうの連中は、学者に国を設計させている。化学者が大臣のように振る舞い、数学者が学校を組み、あの国の研究所は、いま世界でいちばん新しい問いを買い取る市場だ。私は対仏戦争に反対し続けて、義弟からは食卓で口も利いてもらえん身だが、敵情くらいは知っている。
——皮肉を言おう。貴君をスパイと呼んだ者たちは、予測を誤っていない。貴君はいずれフランスに行く。彼らの讒言が、貴君をそこへ追いやるからだ。連中は嘘をついたが、結果的に真実になる。世界はときどき、そういう不愉快な帳尻の合わせ方をする。
——行きたまえ、フルトン君。
——もう走っているように見える船を、本当に走らせてくる人間が、海峡の向こうで待っている。私はそう聞いている。
——この手紙は焼くこと。灰は窓から捨てること。貴君の成功を、敵国にて祈る。
——市民S」
フルトンは手紙を読み終え、長いあいだ、蝋燭の炎を見ていた。
それから言われたとおりにした。手紙を炎にかざすと、紙は端から琥珀色に縮れ、伯爵の角張った文字が、一行ずつ、光になって消えた。スパイにされたのだ、の一行が燃えるのを、彼は最後まで見届けた。
灰を窓から捨てた。霧が灰を受け取って、見えなくした。
机に戻ると、図面だけが残っていた。
走っていない船。走っているように見える船。この島のどの川も、この船を受け取らない。この島でこの船は、永遠に「上手すぎる嘘」のままだ。
フルトンは図面を、丁寧に、四つに巻いた。筒に納め、蓋をした。
それから旅行鞄の底から、古い書類入れを出した。フィラデルフィアから持ってきた、すり切れた革の書類入れ。なかには紹介状が一束。その一番下に、もう何年も使う宛てのなかった一通があった。
差出人はベンジャミン・フランクリン。
凧と鍵で空の電気を盗み、肖像画がこの国の版画屋にすら並ぶ、あの老博士。少年の頃のフルトンに最初の励ましをくれ、晩年のパリ仕込みの皮肉で「ヨーロッパで学ぶなら、パリの研究所のラヴォアジエ氏を訪ねよ。あの男は空気から真実を取り出す」と書いてくれた人。4年前に亡くなった、アメリカ合衆国建国の父の一人。
宛先の国は、いま、彼の祖国がかつてそうだったように、王のいない国を名乗っている。そして彼は、その国のスパイということになっている。
フルトンは紹介状を筒の隣に置き、窓の外の霧を見た。
霧の向こうに海峡があり、海峡の向こうに、灰色ではない色があるはずだった。
行けば、奴の讒言が真実になる。ワットの嘘を、自分の足が完成させることになる。それが癪で、癪で、仕方がない。それでも他に道はない。
そして彼は画家だったから、知っていた。下絵が灰色なのは、絵の失敗ではない。まだ、色を置く前なだけだ。
翌朝、彼は船便を調べはじめた。
大英帝国は、出来の良すぎる図面を一枚、国外に追放しようとしていた。
それがどれほど高くつくかを、まだ誰も計算していなかった。




