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プチトリアノン日記 ——白いカビと議員たち——

こちらは余談章です。本作を読むと、さらに面白く読めます!

——以下は、フランス共和国啓蒙庁発行『共和国農業と暮らし』1794年夏号の巻頭コラムである。本誌は全国四万の教区、主要都市の公共図書館、および国民議会議員の執務室に、無料で配布されている。


編集方針は、国民議会文化局の監修による。


---

『市民アントワネットのプチトリアノン日記』


——新しいチーズとの出会い——


---


おはよう、フランス。


今日も太陽がまぶしいわ。プチトリアノンの朝は、早起きした鶏たちの鳴き声と、風に揺れるラベンダーの香りから始まります。私が目を覚ます頃には、もう農園のみんなが働き始めていて、牛のミルクを搾ったり、菜園の雑草を抜いたり、井戸から水を汲んだり、忙しく動いているのですよ。


最近は、周囲の皆様もかつての身分など気にせず、遠慮なく話しかけてくださるようになりました。


市場の魚屋のおじさんが「市民アントワネット、今朝のイワシは脂が乗っているよ!」と声をかけてくれたり、ご近所の農家の奥様が「市民アントワネット、ズッキーニの苗、分けてあげようか?」と菜園に寄ってくださったり。おかげで、私の畑でもお野菜が立派に収穫できるようになりましたのよ。


今朝はルッコラ、ズッキーニ、そしてラディッシュを収穫。ご近所の農家の奥様に教えていただいたレシピでサラダにしたら、夫(※時計技師として大活躍中)も子供たちも大満足の笑顔でした。夫は最近、オーストリアのマリア・テレーザ皇后陛下からの懐中時計のご注文で忙しく、工房に籠もりきりなのですが、食卓では「このラディッシュ、シャキシャキだね」と目を輝かせてくださるのです。


アーティチョークの栽培は少し難しいと聞きましたが、来季はぜひ挑戦してみたいわ。プロヴァンス地方の農家のご婦人によれば、日当たりと水はけがすべてなのだそうです。


さて、今日はブリー地方から来られた司祭様が「変わった食べ物の作り方を教える」とのことで、プチトリアノンにお招きしました。


紹介してくださったのは、ノルマンディー地方から来られたマリー・アレルさんという、土の香りの似合うとても美しい方と、その旦那様のジャックさん。


布教活動でノルマンディーを訪れた司祭様が、マリー様とチーズの話で意気投合し、なんと「新しいチーズ」の製法を閃いたのだそうです!


私も腕まくりをして、朝絞ったばかりの牛乳をかき混ぜました。マリーさんは、驚くほど優しい手つきで、乳を凝固させる時の温度を、指先の感覚だけで確かめてくださるのですよ。「こればかりは、体で覚えるしかないんです」と笑いながら。


出来上がったのは、表面が真っ白で、中はとろけるように濃厚な——彼らが「カマンベール」と名付けた魔法のようなチーズ。カマンベールというのは、マリーさんが住んでいる村の名前なのだそうです。


夕暮れの風の中、焼きたてのパンにこのカマンベールを乗せて、家族や農園のみんなと一緒に頬張るひととき。これこそが、何にも代えがたい「フランスの本当の豊かさ」なのでしょうね。


——市民アントワネットより


---


* * *


国民議会の議場。


昼休みの直前だった。


午前の審議が一段落し、議員たちが椅子から立ち上がり始めた頃、議場の扉が開いた。入ってきたのは、麻のエプロンをかけたマリー・アントワネットだった。


彼女の手には蓋のついた木製の籠。籠の中からは、微かな、しかし濃厚な香りが漂っていた。発酵した乳の香り。どこか田舎の納屋を思わせる、素朴で温かい香り。


「お邪魔してもよろしいかしら?」


アントワネットの声は、議場の天井に柔らかく響いた。


議員たちが振り向いた。最前列の机で書類を整理していたダントンが、最初に顔を上げた。

ジョルジュ・ジャック・ダントン。三十五歳。巨漢。顔には天然痘の痕。だが、その醜い顔に宿る目は、パリの民衆と同じ温度で脈打つ目だった。

この時間軸のダントンは、生きていた。改変歴史の中で、誰も処刑されないまま、民衆派の代表として議員を続けていた。


「おお、市民アントワネット!なんだ、その良い匂いは」


「新しい食べ物をお持ちしたのです。議員の皆様にも召し上がっていただきたくて」


好奇心に引かれた議員たちがアントワネットの周囲に集まってきた。ロベスピエールが議長席を離れ、机の整理の途中で歩み寄った。タレーランが杖を突きながら近づいた。ナポレオンが窓際から振り向いた。ラヴォアジエが研究所の書類を抱えたまま寄ってきた。ラファイエットが議員席から立ち上がった。


フランス共和国の中枢を担う六人の男たちが一人の女性の籠を囲んだ。


* * *


アントワネットが、籠の蓋を開けた。


中には、円盤状の小さなチーズが六つ、麻布に包まれて並んでいた。直径約十センチ、厚さ三センチ。表面は白く、柔らかそうなカビで覆われている。麻布を開けると、あの濃厚な香りが、一気に広がった。


「カマンベールというチーズです。ノルマンディー地方で考案されました」


アントワネットが、小さなナイフを取り出した。一つのチーズを切ると、断面から、クリーム色の、とろりとした中身が現れた。半熟卵の黄身のような、濃厚な、流れるような食感。


アントワネットは、用意してきたパンの薄切りにチーズを乗せて、六人の男たちに配った。


「どうぞ、ご試食を」


六人の男たちが、ほぼ同時にパンを口に運んだ。


一瞬の沈黙。


そして、それぞれが、それぞれの反応を示し始めた。


* * *


「うまい!」


最初に声を上げたのは、ダントンだった。


巨漢の議員が、パンを一口で噛み砕き、口を大きく開けて咀嚼した。顎の動きに合わせて、彼の左右の頬が連動して動いた。飲み込むと、ダントンは親指を立てた。


「これはいい、庶民の味だ!貴族の食い物じゃない。農家のテーブルの味だ。パンに乗せて、葡萄酒と一緒に食えば、疲れた一日が報われる!」


ダントンの声は、議場の天井に反響した。


「アントワネット、これをどこで手に入れた。値段はどれくらいだ。農民でも買える値段か」


「はい、ダントンさん。ノルマンディーのマリーさんの農場で作っていただきました。一個あたり、およそ二フランで売れると伺っております」


「二フラン!パリの職人の一日の給料の四分の一か。うむ、悪くない。悪くないぞ、市民アントワネット。これは売れる!庶民を中心に売れる!酒場で、パン屋で、市場で、みんなが食いたがる味だ!」


ダントンが、二つ目のパンに手を伸ばした。彼の周囲の空気が喜びで振動していた。この男の幸福は、常に民衆の幸福と同期していた。民衆が喜ぶものを、ダントン自身が喜ぶ。それが、ポピュリストの最も純粋な形だった。


* * *


ダントンの声が響いている間、ロベスピエールは無言でパンを咀嚼していた。


痩身の議長は、三度噛み、ゆっくりと味を確かめ、飲み込んだ。表情は動かなかった。だが、その脳の中では、凄まじい速度で計算が走り始めていた。


「ふむ」


ロベスピエールが、低い声で言った。


「ダントンの予想は、おそらく正確だ。これは売れる。パリの民衆に。地方都市の市民に。農村の自作農に。全国で、爆発的に売れる可能性がある」


議員たちが、ロベスピエールを見た。


「そうなれば、明日からノルマンディー地方の牛乳とチーズの需要は前年比で四百パーセント跳ね上がる。場合によっては五百パーセント。現在のノルマンディーの酪農インフラでは、とうてい対応できない。牛の頭数を増やす必要がある。搾乳施設を拡大する必要がある。チーズ熟成用の地下倉庫を建設する必要がある。そして、何より、パリへの輸送路を強化しなければならない」


ロベスピエールが窓の外を見た。


「現在のノルマンディー=パリ間の幹線道路は、穀物と布の輸送を前提に設計されている。乳製品のような傷みやすい商品の高速輸送には向いていない。冷蔵にも限界があるだろう、発送から消費までの時間を最小化する必要がある。専用の輸送路と、専用の荷馬車を配備し、物流網の配備を急がせねば」


ロベスピエールの声が、完全に事務的になった。


「ノルマンディー担当の物流官と、至急の会議だ。今日の午後に招集する。道路の強化計画と、新型荷馬車の設計と、販売拠点の選定、すべてを三週間以内に決定する。ナポレオン、忙しくなるぞ」


ロベスピエールの目が、もはやパンもチーズも見ていなかった。見ているのは、脳の中の巨大な地図と、その上を流れる牛乳と通貨の流れだった。


* * *


「しかし」


静かな声が、ロベスピエールの計算の流れに、割り込んだ。


ラヴォアジエだった。


五十一歳の化学者は、パンとチーズを両手に持ち、断面をまじまじと観察していた。科学者の目で。チーズの構造を、材料を、発酵のメカニズムを、同時に分析している目で。


「柔軟性のある状態で流通させるには、工夫が必要だな」


ラヴォアジエが、指先でチーズの表面に触れた。白いカビの層は、しっとりと指に馴染んだ。だが、指を離すと、皮膚の油が、白い表面に微かに残った。


「このチーズは非常に柔らかい。輸送中の振動で形が崩れる可能性が高い。また、表面のカビは生きている。つまり、発酵が進行中だ。温度と湿度の変化に敏感だろう。長距離輸送では、品質が劣化する」


「つまり、どうする」


ロベスピエールが聞いた。


「容器が必要だ。例えば、木箱に入れるなどすれば、持ち運べる上に、保存もできそうだ」


ラヴォアジエの目が、かすかに光った。科学者の目に、新しい設計のアイデアが次々と浮かんでいる目だった。


「木箱の素材は、ノルマンディー地方に豊富なポプラ材がいい。軽く、柔らかく、チーズの呼吸を妨げない。蓋は密閉せず、わずかな通気を残す。内側には乾燥した麦藁を詰めて、衝撃を吸収させる。——これで、振動による形崩れを防ぎ、適度な湿度も保てる」


ラヴォアジエが、鞄からペンと紙を取り出した。議場の机に広げ、即座に設計図を描き始めた。円形の木箱。内径十二センチ。深さ四センチ。蓋と底には小さな通気穴。側面には、産地と熟成期間を記すためのスタンプ枠——。


「この木箱自体が、ブランドになる。『カマンベール・ド・ノルマンディー』と焼印を押せば、産地証明になり、偽造防止にもなる。しかも、木箱は再利用できる。一度使用した箱を農家が回収し、洗浄して再出荷する。—環境にも、経済にも、優しい循環システムだ」


ラヴォアジエのペンが、設計図の上を走った。


* * *


「ほう」


窓際で腕を組んでいたナポレオンが、机に近づいてきた。二十四歳のコルシカ人は、ラヴォアジエの設計図を覗き込んだ。


「持ち運びが出来るなら、遠征でも使える」


ナポレオンの灰色の目が、光った。


「フラン経済圏の物流船がマルタ島まで運べる。イタリア半島の駐屯地にも、イスパニア国境の関税所にも、アルプス越えの巡礼路の宿場にも——全国、いや全欧州の我々の活動拠点に配給できる。ポプラ材の木箱なら、船倉に積み重ねても崩れない。税関職員や土木作業員や巡礼者の、貴重なタンパク源になる」


ナポレオンの脳の中で、すでに地中海全域のチーズ配給網が構築されつつあった。


「実に良い。ラヴォアジエ殿の木箱の設計を、私の物流規格に統合しよう。街道の荷馬車の荷台寸法と、港湾の貨物コンテナの寸法と、兵站基地の倉庫棚の寸法、すべてに、この木箱が最適に収まるように調整する。規格の統一だ」


「軍事転用か」


ダントンが、眉を顰めた。


「カマンベールは、庶民の食卓の味だぞ、コルシカ人。軍の食糧にするな」


「軍の食糧であると同時に、庶民の食卓の味でもある。両立する。それに、ダントン。我々の『軍』は戦争をしない。国境の巡視と、関税の徴収と、巡礼路の整備をしている。彼らもまた、庶民だ」


ナポレオンの言葉は、ダントンを一瞬で納得させた。この時間軸のフランスには、戦争がない。兵士たちは戦場の兵士ではなく、公共事業の作業員であり、国境の監視員であり、海上の税関職員だった。彼らにチーズを配給することは、民衆にチーズを配給することと同義だった。


* * *


「外交にもな」


杖をつきながら、タレーランが言った。


跛行の元外交官は、小さく切ったチーズを、もう一度、ゆっくりと味わった。薄い唇の端に、満足げな微笑みが浮かんだ。


「ヨーロッパの宮廷は、フランスの食文化に特別な敬意を持っている。フランス料理は、ルイ十四世の時代から、ヨーロッパの上流階級の憧れだ。バター。パン。ワイン。そして——チーズ」


タレーランが、小さな一切れを指で摘んで、光に透かした。


「この手の手土産は、実に評判がいい。ハイソな晩餐会で、フランス産の新しいチーズが供されれば、それだけで、招待した側の格が上がる。『これはパリから直接取り寄せた、共和国公認の最新のチーズです』と紹介すれば、どれほど傲慢なオーストリア貴族も、どれほど保守的なスペイン枢機卿も、思わず身を乗り出す」


「軍事転用の次は、外交の道具か」


ダントンが、小さな溜息をついたが、タレーランは気づいていないのか、素知らぬ顔で言葉を続ける。


「そう。刀剣は相手を怒らせるが、チーズは相手を笑顔にする。同じ目的、つまり、相手に言うことを聞かせられるなら、どちらが効率的か、議論の余地はない」


タレーランの薄い唇が、皮肉な形に歪んだ。


「私のウィーンへの次の外交便に、マルタ経由の物流網で、この『カマンベール』を三百個ほど同送してほしい。各国の宮廷と、主要なサロンの女主人に配布する。費用は、外務省の機密費から」


* * *


「……感想はそれだけですの?」


アントワネットの声が、議員たちの熱気に満ちた議論の中に、静かに響いた。


六人の男たちが、振り向いた。


彼女は笑っていなかった。麻のエプロンをつけた元王妃は、籠の取っ手を握りしめ、空になったパンの皿を見下ろしていた。


「皆様、感想はそれだけですの?物流網、輸送容器、軍事転用、外交道具……それだけですの?」


議場の空気が、一瞬、止まった。


ロベスピエールが、真面目な顔で頷いた。


「悪いが、市民アントワネット。たった今、実に忙しくなった。感謝するよ。これほど価値のある情報を、議員全員が同時に共有できたのは、あなたのおかげだ。ノルマンディーの酪農業界への投資計画を、今夜中に草案する必要がある」


「では、失礼する。午後の物流会議の議題に、このチーズの件を追加する」


ロベスピエールが、籠から最後の一切れのパンとチーズを取り、議場を出た。


「私も研究所に戻る。木箱の試作を、今日中に始める。ポプラ材のサンプルを、ノルマンディーの木工所から取り寄せねば」


ラヴォアジエが、設計図を抱えて、続いた。


「私はマルセイユ港の物流管理者に、急使を送る。地中海全域への配給ルートを再設計する」


ナポレオンが、革の外套を羽織って、歩き出した。


「私は外務省に戻る。ウィーン便の積荷リストを更新せねば」


タレーランが、杖を鳴らしながら、退出した。


「カマンベール、ちょっと俺の分、残しておいてくれ!家に持って帰りたい。女房と子供たちに食わせる!」


ダントンが、籠から二つのチーズを抱え上げ、嬉しそうに議場を去った。


数分の間に、議場は空になった。


残されたのは、アントワネットと、彼女が抱える空の籠と、散らばったパンのかけらと——そして、一人、立ち尽くしている男だった。


* * *


ラファイエット。


長身の元軍人は、手に小さな一切れのパンとチーズを持ったまま、議場の中央に残っていた。他の議員たちが議場を去っていく慌ただしさの中で、彼だけが動かなかった。


アントワネットの背中が、かすかに震えていた。寂しさか、怒りか、失望か。——おそらく、その三つが混ざり合った何かだった。


ラファイエットが、ゆっくりと、アントワネットに近づいた。


「あの……アントワネット」


彼の声は、軍人らしい朗らかさを帯びていたが、今日は、どこか控えめだった。


「私はワインに合う美味しいチーズだと思いましたよ」


アントワネットが、振り向いた。麻のエプロンをつけた元王妃の目が、ラファイエットを見た。その目には——涙はなかった。だが、乾いた、少し疲れた光があった。


「慰めは不要ですわ」


アントワネットの声は鋭かった。だが、鋭さの奥に、かすかに微笑みの兆しがあった。


「ああ、失礼。慰めるつもりはなかったんですが」


ラファイエットが、明るく笑った。


「本当に、美味しいと思ったんです。ブルゴーニュの赤ワイン、ピノ・ノワールと合わせたら、最高でしょうね。クリーミーさと、ワインのタンニンが、互いを引き立て合う。アメリカではこんな味のチーズは絶対に手に入らない。ワシントン将軍の晩餐会でお出ししたら、喜ばれたろうな」


アントワネットが、籠を机に置いた。


「……ラファイエット」


「はい」


「あなたは、普通の感想を言ってくださる、唯一の方ですわね」


「普通ですか。私にはそれしか言えないんですよ。他の皆様のように、物流とか外交とか、そういう難しい頭を持ち合わせていないので」


ラファイエットが、残っていたパンとチーズを、一口で食べた。大きな口を開けて、美味しそうに咀嚼した。


「いやあ、美味しい。——マリーさんに、私からも感謝を伝えてください。こんなチーズを作ってくれて、ありがとうございますと」


「……伝えておきますわ」


アントワネットの唇に、今度ははっきりと微笑みが浮かんだ。


プチトリアノンの朝の菜園で、農婦たちと一緒に収穫をしているときの、あの自然な微笑み。宮廷の仮面ではない、本物の微笑み。


「ラファイエット」


「はい」


「来週、プチトリアノンにいらっしゃいませんか?ブルゴーニュのワインと、このチーズを用意しておきますわ。夫と子供たちも、ご招待したいと申しております」


「喜んで伺います。ただし、一つ条件があります」


「何ですの?」


「物流のことも、外交のことも、一切話さない。ただ、食べて、飲んで、農園の野菜の話をする。それだけの時間を、約束してください」


アントワネットが今度こそ声を上げて笑った。


「約束いたしますわ、ラファイエット」


* * *


その夜、ロベスピエールの執務室。


机の上には、午後の物流会議で決定された計画書が広げられていた。ノルマンディー酪農業への資本投入計画。専用荷馬車の設計発注書。パリ市内の販売拠点の選定地図。ラヴォアジエのポプラ材木箱の設計図。


すべてが驚くべき速度で組み上がっていた。


ロベスピエールは、計画書に署名を重ねながら、ふと手を止めた。


机の片隅に、一切れのチーズが、残されていた。議場を出るときに、ロベスピエール自身が持っていった一切れ。


ロベスピエールは、そのチーズを手に取った。


パンを切らせ、乗せて、口に運んだ。


ゆっくりと、咀嚼した。


……確かに、美味しかった。


ロベスピエールの唇に、かすかな微笑みが浮かんだ。誰も見ていない執務室の中で、痩身の議長は、ただの人間として、美味しいチーズを味わった。


脳の中では、まだ計算が走り続けていた。ノルマンディーの酪農インフラの投資収益率。ヨーロッパ輸出の予測売上。ラヴォアジエの木箱の特許戦略。——だが、計算の背後で、もう一つの声が、小さく囁いていた。


ラファイエットの声だった。


「人間は、数式ではない」


そして、今夜、もう一人の声が加わっていた。


アントワネットの声だった。


「感想はそれだけですの?」


ロベスピエールは、最後の一切れを食べ終えた。皿には、白いカビの欠片が、少しだけ残った。


窓の外では、パリの夜が、ガス灯の光に包まれていた。セーヌ川の向こうから、ノルマンディー方面への幹線道路が伸びている。明日の朝から、その道路の拡張工事が始まる。ラヴォアジエの木箱の試作が始まる。ヨーロッパ全土にフランスのチーズが運ばれる。


すべてが、いつものようにシステムに吸収されていく。


だが、今夜だけは、ロベスピエールの胸に小さな何かが残っていた。美味しいものを食べた記憶。その記憶は、帳簿にも、計画書にも、書き込まれない種類のものだった。


ロベスピエールは、ペンを置き、蝋燭の炎を見つめた。


明日は、また、忙しい一日になる。

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