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マルタ騎士団の選択——地中海の覇権——

ロアン総長は契約書を閉じた。


ナポレオンを通してフランスから与えられた選択肢は、「契約を受け入れるか、拒否して自ら滅びるか」の2択だった。3つ目の選択肢を与えてくれる近隣諸国は思いつかない。

選択肢は与えられている。しかし、これは選択と言えるのだろうか?


長い沈黙が、大広間を満たした。歴代騎士団総長の肖像画が壁から見下ろしている。ラ・ヴァレット。オスマン帝国の大軍を撃退した英雄。彼の肖像画の目はこの会話をどう見ているだろう。


「ボナパルト殿」


「はい」


「この契約書には、騎士団の誇りについて、何も書かれていない」


「誇りは契約書に書くものではありません」


「そうだ。だからこそ、口頭で確認したい。騎士団が税関組織に転身した後、騎士たちは何のために生きればいい」


ナポレオンは、この質問を予想していなかった。帳簿と数字と利率の交渉は準備してきた。だが、「何のために生きるか」という問いは、物流CEOの管轄外だった。


だが、ナポレオンは即座に答えた。


「総長閣下。騎士団の本来の使命は何でしたか」


「聖地巡礼者の保護と医療奉仕だ」


「保護は、もう必要ないかもしれない。巡礼路はフランスが整備している。だが医療奉仕は、まだ必要だ。地中海の船乗りたちは今も航海中に病気になり、怪我をし、港で治療を受けられずに死んでいく。マルタ島に地中海最大の海上病院を設立してはどうでしょう。フラン経済圏の海上保険の加入者には、マルタ島の病院での治療を無料で提供する。保険料の一部を病院の運営費に充てる」


ロアン総長の目が変わった。


「海上病院……」


「騎士団は元々病院騎士団です。正式名称にも『病院』が入っている。税関と保険の仕事は騎士団の生計を支えるための手段です。だが、その手段の上に本来の使命である医療奉仕を再建することができる」


ロアン総長は椅子の背にもたれた。


七百年の歴史が老人の脳裏を駆け巡っていた。エルサレムの聖ヨハネ病院。巡礼者の傷を洗い、病人の額を冷やし、死にゆく者の手を握った、あの最初の修道士たち。やがて彼らは剣を取り、要塞を築き、海賊となり、戦士となった。だが、最初の使命は医療だった。癒やしだった。


「……もし、この契約を結べば、騎士団は税関として金を稼ぎ、その金で病院を運営する。聖戦の戦士ではなく、海上の医師として地中海に奉仕する」


「そうです」


「それは、七百年前の使命への回帰だ」


「その通り。形を変えた回帰です。剣を計算尺に持ち替え、城壁を港湾施設に建て替え、十字軍の旗を保険証書に刷り直す。だが、その中心にあるのは同じものです。地中海で苦しむ人々を助けるという使命」


ロアン総長は契約書を再び開いた。


今度は別の目で読み直していた。


* * *


三時間後。


騎士団の評議会が招集された。


ナポレオンは評議会への出席を許され、契約の内容を説明した。

集められた騎士たちは最初、困惑と抵抗を示した。騎士の大半は五十代以上の老齢の男たちであり、新しい変化を柔軟に受け入れる準備はできていなかった。


「税関だと?我々は騎士だ。税関の役人ではない」


「保険?保険とは何だ。賭博の一種か」


「計算尺?剣の代わりに計算尺を持てと?」


だが、ナポレオンが国債の利率と、海上保険の収益見通しと、マルタ島の病院建設計画を数字で示すと、騎士たちの顔色が変わった。


数字は雄弁だった。


現在の騎士団の年間歳入は約二百万フラン相当。コマンドリーの縮小で、実質的な手取りは百二十万フランにまで減少している。だが、ナポレオンの契約が実現すれば、国債の利息収入だけで百五十万フラン。加えて、関税徴収の二十パーセント留保で、地中海の交易量から推定して年間八十万フラン以上。海上保険料の管理手数料で、さらに四十万フラン。合計二百七十万フラン以上。


現在の倍以上の収入。


しかも、小作人との紛争、天候による不作、領地の修繕などコマンドリーの管理に関わる面倒な実務から解放される。国債は半年ごとに利息が振り込まれるだけで、手間がかからない。


「……悪くないな」


最初に態度を変えたのは、フランス語圏出身の若い騎士だった。三十代。騎士団の中では珍しく、帳簿の読める男。


「剣で稼ぐよりも、帳簿で稼ぐ方が効率的だ」


「効率的という言葉を使うな。我々は騎士だ。効率などという商人の言葉は……」


「では、閣下。非効率に破産する方がお好みですか」


老騎士が口を閉じた。


評決が取られた。


賛成十八。反対四。棄権二。


聖ヨハネ騎士団は、七百年の歴史の中で最大の事業転換を多数決で承認した。


* * *


契約が締結された夜、ナポレオンはヴァレッタの城壁の上に立っていた。


地中海の夜。星が、水面に映って揺れている。港には数隻の商船が停泊し、甲板の灯りが波に反射している。遠くに、シチリア島の灯火が微かに見える。


ナポレオンの手には、署名済みの契約書の控えが握られていた。


マルタ島。地中海の交差点。この島が、今日から、フラン経済圏の海上物流ハブになった。


正史では、ナポレオンは四年後にこの島を軍艦で占領することになる。砲弾を撃ち込み、城壁を破り、騎士たちを追い出す。

だが、この時間軸では一発の砲弾もなく、一滴の血も流さず、契約書一枚で、同じ結果を……いや、もっと良い結果を手に入れた。


軍事占領した島は抵抗を生む。住民は反発し、ゲリラ戦が起き、駐留軍の維持費がかさむ。

だが、契約で手に入れた島は抵抗を生まない。騎士団は自発的に合意した。住民は経済的恩恵を受ける。維持費は騎士団の運営費から賄われる。


効率的だ。


あの若い騎士が使った言葉だ。効率的。


ナポレオンは、城壁の上から、地中海を見下ろした。


この海を制覇する。陸の道路網に加えて、海の物流網を掌握する。フランスの大西洋岸のルアーブルから、地中海のマルセイユを経て、マルタ島を中継し、東地中海のすべての港にフランの力が及ぶ。


大西洋から地中海まで。一本の動脈。


ナポレオンの獰猛な笑みが、地中海の夜風に溶けた。


* * *


翌月から、マルタ島の変容が始まった。


ヴァレッタの港湾が近代的な物流施設に改装された。倉庫が建設され、クレーンが設置され、桟橋が延長された。ナポレオンの承認した設計図に基づいてフランスの港湾技師たちがマルタ島の港を、地中海最高の物流拠点に変えていった。


騎士たちは最初は戸惑いながらも、新しい仕事を学び始めた。


関税の計算方法。海上保険の引き受け手続き。積荷の検査と品質管理。

剣の代わりに帳簿を持ち、甲冑の代わりに事務服を着て、城壁の見張り台の代わりに税関の窓口に座った。


彼らの新しい制服には赤いマルタ十字が刺繍されていた。七百年の誇りの象徴が、税関の制服の胸に小さく、しかし確かに、残されていた。


地中海を行き交う商船がマルタの港に寄港し始めた。関税はフラン建てで徴収され、海上保険はフラン建てで引き受けられた。イタリアの商人が、ギリシアの船主が、北アフリカの交易者が、フランの利便性に引き寄せられ、マルタ島を経由地として利用するようになった。


関税免除の特約。フラン経済圏の加盟国の船舶は、関税が二割引きになる。

この特約が、地中海の商人たちをフラン経済圏に引き込む強力な磁石になった。加盟すれば関税が安くなる。加盟しなければ高い関税を払う。

選択は自明だった。


フラン経済圏という巨大なオペレーティング・システムが、地中海全域に、静かに、しかし止められない速度で浸透していった。


パリからルアーブルまでの道路網。ルアーブルからマルセイユまでの国内物流。マルセイユからアルプスを越えてローマに至る巡礼路。ローマからマルタ島に至る海路。マルタ島から地中海全域に広がる海上保険と関税のネットワーク。


すべてがフランという一つの通貨で繋がっている。


すべてがナポレオンの道路規格で統一されている。


すべてがロベスピエールのアルゴリズムで制御されている。


地中海はもはや、ローマの海でも、オスマンの海でもなかった。


フランの海になりつつあった。

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