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マルタ騎士団のM&A——ナポレオンの選択肢——

1794年。早春。


地中海は、青かった。


どこまでも深い、宝石のような青。シチリア島の南、北アフリカの北——ヨーロッパとアフリカの間に横たわる内海の、まさに中央に、その島はあった。


マルタ島。


東西二十七キロメートル、南北十四キロメートル。面積三百十六平方キロメートル。岩だらけの、不毛な、小さな島。真水は乏しく、土壌は痩せ、農業にはほとんど適さない。——だが、その位置だけが、この島に途方もない価値を与えていた。


地中海の交差点。


東地中海と西地中海を結ぶ航路の中央。アフリカとヨーロッパの間。イスラム世界とキリスト教世界の境界線。——この島を支配する者は、地中海のすべての交易路を監視し、すべての船舶に関税を課し、すべての海上保険を管理する力を持つ。


そして、この島には、二百六十年にわたって騎士たちが住んでいた。


* * *


ヴァレッタ。マルタ島の首都。


十六世紀にオスマン帝国軍を撃退した騎士団総長ジャン・ド・ラ・ヴァレットにちなんで名づけられた要塞都市。高さ三十メートルの城壁が港湾を囲み、蜂蜜色の石灰岩で建てられた壮麗な宮殿と教会が、狭い通りに沿って並んでいる。


だが、1794年のヴァレッタは、壮麗さの影に朽ちつつあった。


城壁の石灰岩は風化し、補修されないまま崩れかけている。騎士団長の宮殿の窓ガラスが何枚か割れていて、修理の予算がつかない。聖ヨハネ大聖堂のカラヴァッジョの傑作『洗礼者聖ヨハネの斬首』は、湿気と塩害で退色が始まっている。


騎士たちは、まだ、いた。


だが、彼らはもはや騎士ではなかった。


十六世紀にオスマン帝国の大軍を撃退し、一五七一年のレパントの海戦で十字架の旗を掲げた戦士たちの末裔は——十七世紀以降、戦う相手を失い、修道士としての誓いを守ることもなく、自堕落な生活に転じていた。朝は遅く起き、昼はワインを飲み、午後は賭博をし、夜は女を買う。黒いマントの修道服は、クローゼットの奥に畳まれたまま、虫に食われていた。


そして——金がなかった。


かつて騎士団は、ヨーロッパ各国に「コマンドリー」と呼ばれる騎士団領や荘園を保有し、その収入で運営されていた。フランスだけでも数十のコマンドリーがあり、莫大な地代と小作料が騎士団の金庫に流れ込んでいた。だが、フランス革命以降、フランス全土で修道会の権威が縮小し、騎士団のフランス国内の領地は事実上、凍結されていた。収入の三分の一以上が、一夜にして消えたのだ。


残りの収入も、じりじりと減少していた。スペインの政情不安。オーストリアの無関心。イタリア各国の財政難。——ヨーロッパの貴族たちが騎士団に寄進する余裕を失いつつあった。


騎士団総長エマニュエル・ド・ロアン。六十九歳の総長は、まだ生きていた。

生きてはいたが——疲れ果てていた。


* * *


二月。


ヴァレッタの港に、一隻の商船が入った。


マルセイユからの定期便。だが、この日の商船には、通常の積荷に加えて一人の乗客が乗っていた。


ナポレオン・ボナパルト。二十四歳。


軍服ではなかった。黒いフロックコートに、白いシャツ。腰には剣も拳銃も帯びていない。代わりに、左脇に——分厚い革の鞄を抱えていた。鞄の中には、契約書があった。


ナポレオンがマルタ島に降り立ったとき、港の波止場には数人の騎士が立っていた。彼らは騎士というよりも、退役した船員のようなくたびれた男たちだった。黒いマントは着ていなかった。代わりに、色あせたシャツと、擦り切れたズボン。


「フランス共和国の特使か」


「特使ではない。物流最高執行官だ」


ナポレオンが、コルシカ訛りのイタリア語で答えた。コルシカ島はマルタ島の北西に位置する。同じ地中海の島民として、ナポレオンのイタリア語は、パリでのフランス語よりも自然で、力強かった。


「騎士団総長に会いたい。アポイントメントは取ってある」


「ああ。聞いている。——だが、総長は体調が優れない。長い会談は難しいかもしれない」


「長くはかからない。三十分で十分だ」


ナポレオンは革の鞄を抱え直し、ヴァレッタの坂道を上り始めた。


蜂蜜色の石灰岩の壁が、両側にそびえている。十六世紀の要塞都市。オスマン帝国の大軍を跳ね返した城壁。

だが、その城壁を守る騎士たちは、もういない。いるのは、酔っ払いと賭博師、それに金のない老人たちだけだ。


ナポレオンの目が、要塞の構造を無意識に分析していた。城壁の厚さ。砲台の位置。港湾の水深。物流CEOの目で見ていたが、軍人の目でもあった。この男の中には、二つの目が同居している。道路を設計する目と、要塞を攻略する目。今日使うのは前者だ。だが、後者も常に開いている。


* * *


騎士団長の宮殿。


エマニュエル・ド・ロアンは、宮殿の大広間で、ナポレオンを待っていた。


大広間は、かつての壮麗さの残骸を留めていた。天井のフレスコ画。大理石の床。壁面の甲冑のコレクション。歴代騎士団総長の肖像画。

だが、シャンデリアの蝋燭は半分しか灯されておらず、大理石の床には修繕されていない亀裂が走り、甲冑の一部は錆びていた。


ロアン総長は、椅子に深く座っていた。六十九歳。痩せた体。白い髪。だが、目はまだ明晰だった。地中海の海の色をした、深い青の目。


「ボナパルト殿。遠路はるばる、ようこそマルタへ」


「総長閣下。お会いできて光栄です」


ナポレオンは、丁重に一礼した。だが、その丁重さの下には、獲物を前にした獣の集中力が張り詰めていた。ロアン総長は、それを見抜いていたかもしれない。見抜いていたが、抵抗する気力がなかったのかもしれない。


「座ってくれ。——コーヒーか、ワインか」


「コーヒーを。ありがとうございます」


ナポレオンは椅子に座り、革の鞄をテーブルの上に置いた。


「総長閣下。単刀直入に申し上げます」


「どうぞ」


「聖ヨハネ騎士団は——危機に瀕している」


ロアン総長の表情は、変わらなかった。この事実は騎士団の全員が知っていた。知っていて、どうすることもできずに、ヴァレッタの宮殿の残り少ない蝋燭の光の中で、過去の栄光を回想しながら老いていく。


「フランス国内のコマンドリーは縮小されている。収入の三分の一が消えた。残りの収入も減少傾向にある。このままでは、十年以内に騎士団は財政的に破綻する」


「……数字は、その通りだ」


「騎士団の存在意義も失われつつある。オスマン帝国との聖戦は終わった。地中海の海賊は減少した。巡礼者の護衛も、近代的な海軍の前には不要になった。騎士団は、戦う相手を失い、守るべき対象を失い、存在する理由を失っている」


「厳しい言い方だな、ボナパルト殿」


「事実です」


ナポレオンの声には、残酷さはなかった。だが、容赦もなかった。物流CEOが、収支報告書を読み上げるような、淡々とした声。


「だが、私は、騎士団を滅ぼしに来たのではない。救いに来たのです」


「救い?」


「騎士団には、失われた存在意義に代わる新しい存在意義を提案します」


ナポレオンが、革の鞄を開けた。


中から取り出されたのは、一冊の契約書だった。羊皮紙ではなく、ラヴォアジエの改良紙に印刷された、近代的な法律文書。表紙には「フランス共和国と聖ヨハネ主権軍事病院騎士修道会との間の包括的事業提携契約書」と記されている。


ロアン総長は、契約書を手に取った。老いた手がかすかに震えた。


* * *


「契約の骨子を説明します」


ナポレオンが、契約書のページを示した。


「第一条。聖ヨハネ騎士団は、フランス国内のすべてのコマンドリーの所有権を、フランス共和国に移管する」


ロアン総長の顔が、硬くなった。


「コマンドリーの没収か」


「没収ではない。変換です」


ナポレオンが、即座に修正した。


「没収は、対価なしに取り上げることです。変換は、対価と交換に形を変えることです。第二条。フランス共和国は、移管されたコマンドリーの評価額に相当するフラン建て国債を、騎士団に発行する。年利五パーセント。満期三十年。利払いは半年ごと。——つまり、騎士団は、土地という固定資産を手放す代わりに、フラン建ての金融資産を得る。土地は管理が必要で、小作人との紛争があり、天候に左右される。だが、国債は持っているだけで半年ごとに利息が入る」


「五パーセント……」


ロアン総長が、暗算した。フランス国内のコマンドリーの総評価額は、おおよそ三千万フランに相当するだろう。年利五パーセントなら、年間百五十万フランの利息収入。現在の騎士団の年間歳入が約二百万フランであることを考えれば、利息収入だけで歳入の七割以上をカバーできる。


「悪くない条件だ」


「まだ終わっていません。——第三条が、核心です」


ナポレオンが、契約書の次のページを開いた。


「第三条。フランス共和国は、マルタ島をフラン経済圏の公式海上物流ハブおよび関税徴収所として独占的に利用する権利を取得する。聖ヨハネ騎士団は、この物流ハブの運営を委託され、地中海全域の交易船から、フラン建ての関税および海上保険料を徴収する。徴収額の二十パーセントを、騎士団の運営費として留保する」


沈黙。


ロアン総長が、契約書を二度読み返した。


「……つまり、こういうことか」


老総長が、ゆっくりと言った。


「騎士団は、剣を置き、帳簿を持てと」


「そうです」


「聖地巡礼者の護衛者から、海上税関の役人に転身しろと」


「正確には、海上保険と関税の徴収組織です。騎士団には七百年の歴史がある。地中海のすべての港を知っている。すべての航路を知っている。すべての季節風を知っている。その知識と経験を、税関と保険の運営に転用するだけです」


「転用。聖なる使命の、転用か」


ロアン総長の声に、苦さが滲んだ。だが、怒りではなかった。疲れ切った人間の、最後の抵抗の声だった。


「ボナパルト殿。率直に聞く」


「どうぞ」


「この契約を結べば、マルタ島は事実上、フランス共和国の海軍基地になるのではないか」


ナポレオンの目が一瞬だけ鋭くなった。


だが、即座に穏やかな表情に戻った。


「基地ではありません。物流ハブです。軍艦は配置しません。武装した人間は駐留しません。駐留するのは、税関職員と保険事務員と、港湾管理者だけです」


「だが、あなた方の道路と同じだろう。巡礼路の名目で物流幹線を作ったように。物流ハブの名目で海軍基地の機能を持たせるつもりではないのか」


ナポレオンは数秒間、ロアン総長の目を見つめた。


この老人は自堕落な騎士たちの親玉だと思っていたが、馬鹿ではなかった。七百年の歴史を持つ組織の長は、たとえ組織が腐敗していても、長自身の政治的洞察力は鈍っていなかった。


「総長閣下。正直に申し上げます」


「聞こう」


「私は物流ハブと海軍基地の間に明確な線を引くことはできません。港に大型船が停泊し、修理施設があり、燃料と水の補給ができる。それは、商船にとっても軍艦にとっても、同じインフラです。インフラそのものに軍事・非軍事の区別はない。問題は、そのインフラをどう使うかです」


「使い方は、あなた方が決める」


「今は商用に使います。それ以上のことは、約束できません。——ですが、約束できることが一つあります」


「何だ」


「マルタ島の主権は、聖ヨハネ騎士団に残します。フランス共和国は、マルタ島を併合しない。占領しない。騎士団旗は、マルタの城壁に翻り続けます。ただし、港湾の運営権と関税徴収権は、フランス共和国に独占的に委託されます」


「主権は残るが、実権は移る。それを、世間では傀儡と呼ぶ」


「傀儡ではありません。事業提携です」


ナポレオンの口調が、わずかに苛立ちを帯びた。この男は長い交渉が苦手だった。結論を先に出し、実行に移りたい。だが、相手が老練であればあるほど、結論に至るまでの対話が長くなる。


「総長閣下。選択肢を整理させてください」


ナポレオンが、指を立てた。


「選択肢は三つです。第一。この契約を結ぶ。コマンドリーの評価額に相当する国債を受け取り、マルタ島を物流ハブとして運営する。騎士団は税関組織として存続し、安定した収入を得る」


「第二。この契約を拒否する。コマンドリーの縮小は続く。収入は減少し続ける。十年以内に騎士団は財政破綻する。そして、財政破綻した騎士団の島に、誰かが軍艦で上陸する。そのとき、選択肢はない」


ロアン総長の顔が、蒼白になった。


ナポレオンが言っていることは脅迫ではなく、もう一つの未来だった。正史では、四年後の1798年に、まさにナポレオン自身がエジプト遠征の途中でマルタ島に上陸し、騎士団は戦わずして島を明け渡すことになる。


「第三の選択肢は——ない」


ナポレオンが、手を下ろした。


「実質的には、二択です。契約するか、滅びるか」


長い沈黙が、大広間を満たした。

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