あなたから離れるために
ロイドが前へ出ようとしたので、私は片手を上げて制した。
二人の声は小さかったが、はっきりと聞こえた。
「大丈夫だよ、ジェーン。君は何も悪くない」
エドガーの声は、この上なく優しかった。
「エドガー様……そんなふうに言ってくださるのは、エドガー様だけです」
いつの間に、ジェーンは彼をそんなふうに親しげに呼ぶようになったのだろう。
「たかが数回の失敗で、そこまで重い罰を受けるなんて。今回はルアがやりすぎたよ」
「……」
「それに、あんなふうに責められたあとでは、誰だって萎縮してしまうよ。萎縮すれば、また失敗もする。君だけが悪いわけじゃない」
「そう……ですよね?」
「そうそう。だから、君に再教育なんて全然必要ない」
「……はい。エドガー様のおっしゃるとおりです」
エドガーが、私の出した再教育の指示を「必要ないもの」と扱うところまで聞いて、私は静かに踵を返した。
そして自室まで戻ると、ロイドに告げた。
「エドガー様には、今日は体調が優れないため、申し訳ありませんがお会いできないと伝えてください」
「……かしこまりました」
「私があの場にいたことは、誰にも――」
そこまで言いかけて、私は口をつぐんだ。
ロイドに限って、軽々しく外へ漏らすことなどない。
けれど、私の言いたいことを察したのか、ロイドはすぐに答えた。
「心得ております。決して他言はいたしません」
結局、ジェーンに下した再教育の指示は、意味を失ってしまうかもしれない。
おそらく、ジェーンはまともに再教育を受ける気などないだろう。
「今回のジェーンへの処分を、使用人たちはどう受け止めるでしょうか」
私の問いに、ロイドはしばし考えてから答えた。
「反応は半々かと存じます」
「私もそう思います。妥当だと言う者もいれば、やりすぎだと言う者もいるでしょう」
「申し訳ございません。使用人たちを管理しきれなかった私の責任でございます」
ロイドが私の前で深く頭を下げた。
私は彼を見て、首を横に振った。
「いいのです、ロイド。人の心とは、そういうものでしょう。優しくしてくれる相手がいれば、寄りかかりたくなるものです」
……だからといって、すべてを許すつもりはないけれど。
◇
「ルア、この前はそんなに具合が悪かったの?」
王宮の財務局を訪れる日、私を王宮までエスコートすると言って屋敷を訪ねてきたエドガーは、いかにも心配そうな顔をしていた。
「ひどい頭痛があったのですが、今はだいぶよくなりました」
時折、エドガーのせいで本当に頭が痛くなるのは事実だから……。
「そうか。元気そうでよかったよ。この前は会えなかったから心配したんだ。顔を見たかったのに」
やはり……大した用件はなかったらしい。
いっそ毎日頭痛ということにしてしまえば、少しは平穏に過ごせるかもしれない。
「せっかくお越しいただいたのに、申し訳ありませんでした。その日はすぐにお帰りになったのですか?」
「その日? 苦労している使用人たちと少し話をして、慰めてあげたんだ。それから帰ったよ」
驚いたことに、彼は嘘をつかない。
嘘をつく必要がないと思っているのだろうか。
自分が正しいと信じているのだろうから。
エドガーは私の質問が気に入ったらしく、そのまま話を続けた。
「使用人たちはとても喜んでくれたよ。やっぱりクラディエ家には僕が必要なんだ。そうだろう?」
「……」
お世辞にもそうですねとは言えなかったので、曖昧に笑みを返し、馬車の窓の外へ視線を向けた。
ふと、今朝受け取った手紙のことを思い出した。
すると、自分でも気づかないうちに、自然な笑みがこぼれていた。
「ルア、何かいいことでもあったの? 君の笑顔を見るのは好きだけれど」
「ええ。とてもいいことがありました」
私は彼ににこりと笑ってみせた。
今日届いた手紙は、ある商会からのものだった。
最近、私はクラディエ領西部の港を整備する計画を進めていた。
その港を活性化させるために、クラディエ領の物資輸送を任せられる商会を探していたのだ。
そして今日届いた手紙は、ヴェルナー商会からの契約承諾の返事だった。
ヴェルナー商会は、私が調べていた商会の中でもかなり条件のよい商会だったので、私はとても満足していた。
「いったい何があったんだ……また僕には教えてくれないんだね?」
「お話しする必要はありません。いずれお分かりになりますから」
「何だい。もしかして、僕を喜ばせるために準備しているの? ルア、僕は君さえいてくれれば幸せなのに」
エドガーは甘い言葉のようなものを囁きながら、私を見つめた。
私は彼に、心からの笑みを返した。
あなたのおかげで、ここまで準備を進められました、エドガー様。
あなたから離れるために。
私は、エドガーが何度も一線を越えるのを見ながら、少しずつ手を打っていた。
ナルシアン伯爵家は、領地そのものは決して大きくなかったが、運よく交通の要衝を押さえていた。
そのため、王都へ向かう物資の多くがナルシアン伯爵領を通ると言っても過言ではなかった。
だから私たちの婚約が結ばれた当時、ナルシアン家はクラディエ領の物資輸送について、さまざまな便宜を図ることになっていた。
中継倉庫の利用、通行税や保管料の免除、王都行きの定期輸送隊にクラディエ領の物資を一定量載せられる輸送枠の確保。
さらに、ナルシアン家が昔から出資している大商会の利用も含まれていた。
これらすべてが不要だと父に証明するには、相応の材料を揃えなければならない。
感情だけで婚約を解消することはできない。
父を動かすには、利益が必要だ。
お読みいただきありがとうございます。




