嬉しそうな顔が見たくて
エドガーとの婚約を解消してから、私の日々はずいぶんと穏やかになった。
執務の途中でたびたび応接室へ呼び出されることもなくなり、善意を装った言葉に疲れさせられることもなくなった。
使用人たちも、クラディエ家のために心から働いてくれる者だけが残っていた。
それに、エドガーとの婚約解消のために始めたことではあったけれど、西部港湾事業も順調に進んでいた。
折に触れて港湾事業の進捗報告を聞くのは、なかなか楽しかった。
頭の中で描いていただけの計画が、少しずつ現実になっていくのを感じられたからだ。
そして私の日常に、思いがけない話が舞い込んできた。
アデル公爵家からの縁談である。
その縁談が来たとき、何事も家の利を第一に考える父が、初めて私の意見を尋ねてくれた。
私にとっても、それは断る理由のない、よい縁談だった。
アデル公爵家の家格と信頼。
次期財務卿と呼ばれるカイスの能力。
それから……。
『今夜のあなたは、十分すぎるほどお美しいです』
あの夜の、甘い声。
アデル公爵家から縁談が来た日、私は迷わず、父に受け入れる意思を伝えた。
そうして、私たちの婚約はとんとん拍子に進んでいった。
そして今日。
「お嬢様、カイス・アデル様がお越しです」
ロイドがカイスの訪問を告げた。
今夜、私は彼とともに夜会へ出席することになっている。
けれど、思っていたよりも早い訪問だった。
執務室で港湾事業の進捗報告書を読んでいた私は、彼を迎えるために応接室へ向かった。
「クラディエ嬢」
カイスが私に向かって、目元を和らげて笑った。
婚約してから、彼が私を呼ぶ名は変わっていた。
ほんの少し変わっただけなのに、なぜか彼との距離がずいぶん近くなったような気がした。
「早く着きすぎてしまいました。お仕事の邪魔をしていなければよいのですが」
「大丈夫です。そろそろ終えるところでしたから」
目の前の相手がエドガーだったなら。
エドガーのせいで仕事の手を止めなければならなかったなら、きっと気が重くなっていただろう。
けれど、不思議と私の心は弾んでいた。
普段からカイスが、私を気遣ってくれる人だと分かっているからだろうか。
「よろしければ、夜会までの間、少しお茶をご一緒しませんか?」
「喜んで」
カイスは微笑みながら、私に小箱を差し出した。
「たいしたものではありませんが、オルシアン商会のクッキーです」
「ありがとうございます」
私は嬉しくなって、その箱を受け取った。
ほどなくして、私たちの前には二杯の紅茶と、彼が持ってきてくれたクッキーが用意された。
「このクッキーは……」
以前、財務局で私がおいしく食べた、あのクッキーだった。
驚いて見つめていると、彼は少し照れたように微笑んだ。
「お口に合っていたようでしたので」
ただの手土産だと思っていたのに、私のことを覚えていて、わざわざ選んできてくれたのだ。
嬉しくて、ありがたかった。
そして、少し恥ずかしくもなった。
あのとき彼の前で、私はこのクッキーをそんなにおいしそうに食べていたのだろうか、と思って。
「いただきます」
私はクッキーを手に取り、ひと口かじった。
相変わらず、柔らかくて、味が濃すぎない、おいしいクッキーだった。
なぜか、私が食べる様子を見ているカイスの口元にも、満足そうな笑みが浮かんでいた。
「その顔を」
「……?」
「もう一度、見てみたかったんです」
「……え?」
クッキーを口元に運んだまま目を丸くすると、彼は少し気まずそうに視線をそらした。
「失礼しました。以前、クッキーを召し上がっているあなたが、とても幸せそうに見えたので……」
「あ、ありがとうございます」
赤くなった顔を彼に見られたくなくて、私は深くうつむいたまま、消え入りそうな声で答えた。
◇
夜会の夜、私は淡い藤色のドレスを身にまとっていた。
飾りは控えめで、星屑のような銀糸の刺繍が施されたドレスだった。
カイスもまた、濃紺に銀糸の刺繍が入った礼服を身にまとっていた。
彼の隣に立つと、不思議としっくりくるような気がした。
「クラディエ様、とてもお美しいですわ」
ラヴィス侯爵令嬢が近づいてきて、挨拶をしてくれた。
私は彼女に向かって、にこりと笑った。
「ありがとうございます。ラヴィス様もお美しいです」
「新たに婚約なさったのですってね? お二人があまりにもお似合いで、目を離せませんわ」
今度は、私の代わりにカイスが口を開いた。
「ありがとうございます。そう言っていただけて光栄です」
ラヴィス侯爵令嬢と挨拶を交わしたあと、私たちはほかの貴族たちとも言葉を交わした。
私たちがワインの入った杯を手に、夜会を楽しんでいたときだった。
会場の片隅に、見覚えのある一人の姿が目に留まった。
私は目を見開いた。
お読みいただきありがとうございます。




