慈悲深きナルシアン家
エドガーは膝をついたまま、びくりと肩を震わせた。
ナルシアン伯爵が、恐ろしい剣幕で彼をにらみつけていたからだ。
その迫力に押され、エドガーはいったん口を閉じ、うつむいた。
「クラディエ公爵家にお前が婿入りすることは、我が家にとって大きな名誉であり、実利でもあった」
「……」
「公爵家との縁さえあれば、いずれ王宮勤めの道も開けると思っていた」
「……」
「お前の兄たちも、大した家には婿入りできなかった。だからこそ、お前に期待していたのだ。お前こそが、我が家の希望だったのに……」
伯爵の顔には、怒りと同時に苦い失望がにじんでいた。
エドガーは固く噛みしめていた唇を開いた。
「父上のお気持ちは、よくわかります。クラディエ公爵家の今回の婚約解消は、あまりにもひどい仕打ちで――」
「黙れ!」
どすっ!
伯爵はそのまま、エドガーの腹を強く蹴りつけた。
「……ぐっ」
衝撃で体を跳ねさせたエドガーは、腹を抱えて床に転がった。
「お前が今、公爵家を責める立場か! すべてお前のせいではないか! お前さえきちんとしていれば……お前さえまともにしていれば!」
エドガーを指差す伯爵の手は、怒りでぶるぶると震えていた。
驚いた伯爵夫人が、慌ててエドガーのそばへ駆け寄った。
「エドガー、エドガー。大丈夫? かわいそうに……」
彼女はエドガーを抱き寄せ、その背をさすった。
エドガーはしばらく、荒い息を吐き続けた。
伯爵夫人はエドガーを支えて起こすと、伯爵に向かって訴えた。
「あなた、お願いです。どうか、そこまでこの子を責めないでください……」
しかし伯爵は、その言葉をきっぱりとはねつけた。
「黙れ。庇い立てはするな」
「父上、僕は、僕は……」
エドガーが何か言い訳をしようとしたが、伯爵はそれを遮った。
「もう聞きたくない。お前のしたことで、家の名誉どころか、これから社交界で顔を上げることすらできなくなったのだ」
伯爵の目は怒りに血走っていた。
そして伯爵は、エドガーに向かって宣告した。
「エドガー。お前はもう、私の息子ではない」
「え……?」
エドガーの目が丸く見開かれた。
父がどれほど怒っていたとしても、本当に自分を切り捨てるなどとは思っていなかったのだ。
「お前を切り離してこそ、我が家は失った名誉を少しでも取り戻せる。お前をこの家から除籍する」
「父上、それは本気なのですか?」
「本気だ。今日中に、この家を出ていけ」
伯爵の表情が揺るがないことを確認して、エドガーはようやく姿勢を正し、謝罪の言葉を口にした。
「父上、どうかお許しください」
それは本当に反省して出た言葉ではなく、この場を切り抜けるための謝罪だった。
自分は何も悪いことなどしていない。
ただ、自分を悪いと言うこの世界のほうが、どこかおかしいだけだ。
少なくとも彼は、そう思っていた。
だが、その謝罪を聞いても伯爵の表情は変わらなかった。
「もう決めたことだ。撤回はしない」
口の中が、からからに乾いていく。
エドガーの頭は、今までにないほどの速さで回り始めた。
彼は両手を床につき、さらに深く頭を下げたまま、切羽詰まった声で言葉を続けた。
「我がナルシアン家は、慈悲深い家として知られているはずではありませんか。父上も母上も、僕が幼いころから孤児院の子供たちを助けてこられました。
それなのに、実の子である僕を見捨てるのですか?
そんなことをすれば、世間は何と言うでしょう。
子を切り捨てる冷たい親だと、そう思われるのではありませんか?」
必死に訴えたエドガーは、おそるおそる顔を上げて父を見た。
先ほどの言葉に、父の表情がわずかに揺らいでいた。
いける。
エドガーの顔に、希望の色が浮かんだ。
彼はいつものように、眉尻をできるだけ下げた表情を作った。
そして、さらに哀れを誘うように声を震わせ、言葉を重ねた。
「このまま僕が出ていけば、いったいどこへ行けばいいのですか。最後には道端で倒れて死ぬことになるでしょう。僕がそんな惨めな死に方をすれば、社交界はナルシアン家の慈悲を疑うはずです」
その言葉にさらに揺れたのか、伯爵の表情がかすかに歪んだ。
エドガーは、自分の言葉が届いたのだと感じ、心の中でほくそ笑んだ。
そして伯爵は、しばらく口をつぐんで考え込んだあと、重々しく口を開いた。
「エドガー」
「はい! 父上」
「……悪いが」
「……?」
「お前を切り捨てて失うものより、得られるもののほうが大きい」
「そ、そんな……」
エドガーは呆然と口を開け、父を見上げた。
――そんな。
いつも慈善を行ってきた父が、そんなことを言うはずがない。
他人である孤児たちでさえ哀れんで助けていた父が、実の子である僕を助けないはずがない。
こんなはずがない。
僕の知っている父上は、こんな人ではない。
父上は、本当に善良な人だと信じていたのに……。
貧しい人々を助け、
貴族たちの前で「弱き者には手を差し伸べるべきだ」と語っていた父上は、
あれは全部、嘘だったのか。
僕がずっと尊敬してきた父上は、そんな偽善者だったというのか。
衝撃で頭の中がいっぱいになり、言葉が出てこなかった。
「すぐに下がれ。そして今日中に、この家を出ていけ」
父の冷たい言葉に、エドガーはそれ以上何も言えず、その場を退くしかなかった。
伯爵夫人は、そんなエドガーを見つめながら、ハンカチで涙をぬぐっていた。
「ずいぶん惨めなお姿ですこと、お兄様」
廊下を歩いている途中、向こうから歩いてきた妹のエミリーが声をかけてきた。
「エミリー……」
エミリーは腕を組んだまま、険しい目でエドガーをにらみつけた。
「お兄様のせいで、私はまともな嫁ぎ先を見つけるのも難しくなりました。どう責任を取ってくださるの?」
「嫁ぎ先だって? エミリー……この兄が今、家を追い出されようとしているのに、お前は自分のことしか考えないのか?」
「自分のことしか考えない行動で、家族全員に大迷惑をかけたのはお兄様でしょう? この家で一番身勝手なのは、お兄様ですわ」
妹の容赦ない言葉に、エドガーは何も言い返せなかった。
皆、あまりにもひどい。
血を分けた家族でさえ、自分にこんなにも冷たい。
「お兄様のせいで嫁げなくなったら、一生恨みますから」
「……」
「ああ、もうお兄様でもないのかしら。もうすぐ貴族院で除籍されるのでしょうし」
除籍。
エミリーの言葉で、自分が本当にこの家を追い出されるのだと実感が湧いてきた。
もう自分は、伯爵家で大切に扱われる子息ではない。
これからは、平民として生きていかなければならないのだ。
苦しげな顔をしたエドガーを呆れたように見やり、エミリーは吐き捨てた。
「ですから、今後どこかで顔を合わせることがあっても、これからは私のことを『お嬢様』と呼びなさい。エドガー」
「エミリー……お前……!」
耐えがたい屈辱に、エドガーは両拳を強く握りしめ、ぶるぶると震えた。
エミリーは、ふん、と鼻で笑うと、そのままエドガーの横を通り過ぎていった。
一人残されたエドガーは、しばらく深くうつむいていた。
そんな彼の頭に浮かんだのは、いつも優しく、天使のような母の顔だった。
こうなったら、母上しかいない。
母上だけは、いつだって僕の味方だから。
お読みいただきありがとうございます。
少しでも楽しんでいただけましたら、ブックマークや評価で応援していただけると嬉しいです。




