彼の微笑みが胸に届く
エドガーの視線が力なく出口のほうへ向かい、それから再び私へ戻ってきた。
「……ルア。僕は……」
「警備兵を呼びましょうか?」
私は、面倒な物売りでも見るような目でエドガーを見つめた。
その間に、ロイドが数名の使用人を連れて進み出た。
「お嬢様、ご指示を」
私の命令が下れば、いつでもエドガーを連れ出すつもりなのだろう。
ようやく完全に自分の立場を理解したのか、エドガーは口を固く閉ざし、顔に濃い影を落としたまま、ゆっくりと出口のほうへ向かった。
エドガーは、本当に物分かりが悪い。
私は、エドガーがとぼとぼと去っていく後ろ姿を見つめていた。
完全に彼の姿が見えなくなってからも、なぜか実感が湧かず、彼が消えた場所を見つめていた。
それだけ、心が疲れきっていたのかもしれない。
「大丈夫でございますか、お嬢様」
ロイドが私に声をかけた。
私は彼を見て、にこりと笑った。
「大丈夫です。ただ、少し現実味がなくて」
「紛れもない現実でございます。そして、お嬢様ご自身が成し遂げられた現実です」
「ありがとう、ロイド。おかげで少し力が湧きました」
ロイドの言うとおり、エドガーとの関係を断ち切ったのは、私自身だった。
自分の力で、未来を変えたのだ。
私は本当に、エドガーから解放されたのだ。
そう思うと、ようやく少しずつ現実味が押し寄せてきた。
その時、私のもとへ歩み寄ってきたアデル公爵夫人が声をかけてきた。
「クラディエ嬢、今日はあなたのお誕生日です。不快なことは忘れて、改めて楽しみましょう」
「夫人」
私は彼女の前で深く頭を下げた。
「先ほどは、私のために声を上げてくださり、ありがとうございました。とても心強かったです」
「いいえ。彼の振る舞いは、私でなくとも誰が見ても目に余るものでしたわ。皆、彼に遠慮して口に出せなかっただけでしょう」
アデル公爵夫人は微笑み、言葉を続けた。
「それにしても、今夜の主役にエスコート役がいないのは困りますわね」
振り返った夫人の視線の先にいたのは、カイスだった。
カイスはすぐに夫人の視線に気づき、こちらへ歩み寄ってきた。
「よろしければ、息子にエスコートを務めさせましょう」
「お気遣いありがとうございます、夫人」
カイスが、私に腕を差し出した。
「クラディエ公爵令嬢」
私はその腕にそっと手を添えた。
書類を確認してもらう時とは違う意味で、少し緊張した。
以前、馬車まで送ってもらったことはあった。
けれど、こうして彼の腕に手を添えて歩くのは初めてだった。
「庭を少し歩きませんか」
「ええ、喜んで」
カイスの提案に、私は笑みを浮かべて答えた。
彼と歩き出そうとしたところで、彼が私にそっと囁いた。
「今夜のあなたは、立派でした」
そう告げる彼の青い瞳には、かすかな笑みが宿っていた。
その微笑みに、私はとても温かな気持ちになった。
だから私も、心から礼を告げた。
「ありがとうございます、アデル様」
カイスの言葉は、ほかの多くの貴族たちとは違って、不思議と飾り気がないように感じられた。
きっと、軽々しく言葉を口にする人ではないからだろう。
誰にでも簡単に笑いかける人でもない。
だからこそ、彼のかすかな微笑みが、胸にすっと届いた。
◇
カイスは、ルア・クラディエの手が自分の腕に添えられていることを、妙にはっきりと意識していた。
彼女に歩調を合わせながら、カイスはゆっくりと庭へ向かった。
夕暮れの庭の空気は熱を失い、心地よい涼しさを帯びていた。
先に口を開いたのは、カイスだった。
「少しお疲れのように見えますが、大丈夫ですか」
「そう見えますか?」
「ええ、少しだけ」
婚約者の件で、ずいぶん気を張っていたのだろう。
今日、彼女は婚約者との関係を自ら断ち切った。
多くの貴族の子女は、親の決めた縁に従い、そのまま結婚する。
けれど、彼女はそうしなかった。
その決断力に、カイスは心の中で感心していた。
同時に、その決断が一朝一夕のものではないことも分かった。
彼女がそれまで一人でどれほど苦しみ、どれほど多くのことに耐えてきたのか。
それを思うと、胸の奥が重くなった。
「少し寝不足だったので、顔に出てしまっているのかもしれません」
少し心配そうに言う彼女に、カイスはすぐに答えた。
「ご心配には及びません。今夜のあなたは、十分すぎるほどお美しいです」
「……ありがとうございます」
カイスは、自分でも思いがけず口にしてしまった、まるで世辞のような言葉に驚いた。
けれど、決して世辞ではなかった。
作った言葉ではなく、自然と出た本心だった。
ルアを見ると、彼女の頬はいつの間にか赤く染まっていた。
今の言葉のせいだろうか。
いつも落ち着いていて、完璧に見える彼女が見せる意外な反応が、不思議だった。
西部港湾計画について、ひとつの隙もなく堂々と説明していた姿。
そして、婚約者を前に、冷静に必要な言葉だけを告げていた姿。
そのどちらとも違う姿だった。
彼女のそうした意外な一面は、以前にも見たことがある。
二度目に財務局で会った時のことだ。
仕事について語る彼女は、誰よりも真剣で、誠実だった。
けれど、出されたクッキーを食べて嬉しそうにしていた彼女は、まるで子どものように無邪気に見えた。
正直に言えば……可愛らしかった。
そんな意外な一面を、また見てみたいと思ってしまった。
エドガーは、これで退場というわけではありません。




