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悪者にならなかった日


ジェーンの件以来、使用人たちの間の空気は一変したと、ロイドから聞いた。


彼らが心の中で何を考えているのかまでは分からない。

けれど、少なくとも表立って私を恨んだり、エドガーを頼ったりする声はなくなった。


これまでエドガーに従っていた使用人たちは、周囲の様子をうかがいながら、静かに過ごしているらしい。


予想どおりの変化だった。


そしてしばらくして、先日カイスが言っていたとおり、財務局から「改めてお越しいただきたい」という連絡が届いた。


やはり、補足書類の提出を求められるのだろうか。


ふと、最初に財務局を訪れた時、エドガーが言っていた言葉を思い出した。


『人のやることなんだから、不備があれば何か言われるだろう? そのときに言われたとおり直せばいいじゃないか。大丈夫、大丈夫』


エドガーのあの言葉が、まるで呪いにでもなったのだろうか。

懸命に準備した書類だったのに。


少し苦い気持ちを抱えながら、私はエドガーには予定を知らせず、一人で財務局を訪れた。


そして再び文官に案内され、カイスと対面した。


再び会ったカイスは、私を見るなり、柔らかく微笑んだ。


「クラディエ公爵令嬢、ようこそお越しくださいました」

「ご連絡をいただき、参りました。アデル様」

「先日は、無事にお帰りになれましたか?」


そう尋ねるカイスの様子は、前回財務局で会った時とは、どこか雰囲気が違っていた。


隙がなく、徹底した財務局の高官というより、どこか少しだけ態度が柔らかくなったように思えた。


「はい。お気遣いいただき、ありがとうございます」

「こちらへお掛けください」


カイスは私を、日の差し込まない席へと案内してくれた。

私が席に着くと、紅茶とともにクッキーが用意された。

どうやら今日は、話が長くなるらしい。


「お口に合うかは分かりませんが、どうぞ」

「ありがとうございます」


彼に勧められるまま、温かな紅茶を一口飲み、クッキーもひとつ手に取って小さくかじった。

紅茶によく合う、柔らかく甘い食感が口の中いっぱいに広がる。


「とても美味しいです」


私は心からの感想を口にした。


「それは何よりです」


カイスが静かに笑った。


しばらくしてから、彼はゆっくりと話を切り出した。


「まず申し上げますと、クラディエ公爵令嬢にご提出いただいた書類は完璧です」


私を安心させるようにそう切り出してから、彼は言葉を続けた。


「特に、クラディエ港を非常時に王室物資の中継拠点として運用する場合の計画書は、非常によく作成されていました」

「そのように評価していただき、ありがとうございます」


私は紅茶を飲みながら、彼の次の言葉を待った。


カイスは落ち着いた、けれど急がない口調で話を続けた。


「その上で、ひとつ追加でご提出をお願いしたいのが、実際の非常時における運用計画です。王室からの命令が下されてから七十二時間以内の港の運用計画書を、お願いできますでしょうか」

「七十二時間以内の計画書、ですか」

「はい。実際の非常時に、遅滞なく運用可能な物資処理量、必要人員、予算、指揮系統に関する部分です」

「それでしたら、難しくありません。すぐに算出して提出いたします」


港の運用に関する試算なら、おおよその数字はすでに出してある。


追加で求められた書類が、思っていたよりも難しいものではなかったため、私は明るい顔で答えた。


「それで足りますでしょうか。他にも必要な部分があれば、いくらでもお申し付けください」

「それだけでも十分すぎるほどです。実のところ、今回の追加書類も必須ではありません。ただ、できるだけ早く確実なお返事をしたくて、無理をお願いしてしまいました」

「無理だなんて、とんでもありません。お力添えいただけるだけで、本当にありがたいです」

「この件は、むしろ王室のほうが感謝すべきことですよ」


カイスは紅茶を飲みながら微笑んだ。


私もまた微笑み返し、残っていた紅茶をもう少し口にした。


先ほどとても美味しかったクッキーをもうひとつ食べようとして、私はふと手を止めた。

カイスの前で、食べ物を欲しがっているような姿を見せるのは、少し恥ずかしかった。


その時、カイスがそっとクッキーののった皿を私の前へ押し出して言った。


「これは先日、財務局に贈られたクッキーなのですが、なかなか美味しいのです。クラディエ公爵令嬢にも、ぜひもう少し召し上がっていただきたくて」

「……では、ひとつだけ、いただきます」


私はそっとクッキーをひとつ手に取った。


……美味しい。


ほのかで優しいチーズの風味がするクッキーは、やはりとても美味しかった。


知らず知らずのうちに、私の口元には満足げな笑みが浮かんでいた。


そんな私を見つめていたカイスの目元が、わずかに和らいだ。

その笑みが、なぜだか温かく感じられた。



執務室の外へ出たところで、中年の男性が私に声をかけてきた。


「クラディエ公爵令嬢でいらっしゃいますね?」 


男はキロン伯爵で、私は彼とあまり話をしたことがなかった。


「少しだけ、お願いを聞いていただけませんでしょうか」


私は嫌な予感を覚えながら、彼に問い返した。


「何でしょうか」

「実は、我が家の補助金審査が長く滞っておりまして」

「そうなのですか」

「もしよろしければ、公爵家からひと言、推薦をいただけませんでしょうか。貧民街の救済事業に関することなのです」


伯爵のどこか切羽詰まった口調はひどく一方的で、私は圧迫されているような気分になった。

それとは別に、彼が望んでいることは、私にどうにかできるものでもなかった。


「申し訳ありませんが、私にそのような権限はありません」

「貧民街を助けるための大切な事業なのです。クラディエ公爵家からひと言いただければ、話が進みやすくなるはずでして」


彼の話を聞きながら、ふとエドガーのことを思い出した。


可哀想な人たち。

善良な目的。

助けを必要としている人々。


エドガーなら、その言葉に反応して、私にキロン伯爵を助けるべきだと迫っただろう。

切実だと言っているのだから、推薦のひとつくらいしてあげられるじゃないか、と言ったに違いない。


見なくても、目に浮かぶようだった。


私は小さく息を吐き、改めて伯爵に断りの言葉を告げた。


「その件は、財務局が審査すべきものです。私が財務局の権限を越えて、私的に口を出せることではありません」


少しだけ強い口調でそう告げた時だった。


「クラディエ公爵令嬢のご判断は正しいものです」


いつの間にか外へ出てきていたカイスが、私と伯爵のほうを見ていた。


「その件をクラディエ公爵令嬢に私的に口添えしてもらおうとし、彼女を困らせるのは不適切です」

「わ、私はそういうつもりでは……」


カイスの登場に、伯爵が困ったようにたじろいだ。


「それに、その件が保留になっているのは、提出された見積書に不自然な点があるためです」

「……」

「正確な数字をそろえたうえで、改めて正式な手続きをお取りください」

「……はい」


伯爵は諦めたような顔で引き下がった。


カイスは伯爵を厳しく見据えていた視線を外し、私へと移した。


「クラディエ公爵令嬢、本日はお連れの方がいらっしゃらないようですので、私が馬車までお送りいたします」


その申し出に、私は反射的に断りの言葉を口にしかけて、飲み込んだ。


代わりに、私は言った。


「お願いいたします」


私はカイスとともに外へ向かいながら、慣れない感情に包まれていた。


誰かの頼みを断った今日、私は悪い人にはならなかった。

可哀想な人々を見捨てた冷たい令嬢になることもなく、正当な判断をした人間になった。


当たり前のことのはずなのに。

それが、普通のことのはずなのに。


慣れない不思議な感覚が、いつまでも胸の奥をくすぐるように残っていた。


お読みいただきありがとうございます。

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毎日楽しみにしております。 不安定な天気が続いておりますから 作者様体調崩さないように気を付けて下さいませ。 いつも楽しいお話をありがとうございます。
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