大丈夫では済まない
その夜。
「ジェーン、今日はありがとう」
部屋に戻ってきたサラが招待状の件で礼を言った瞬間、ジェーンは思わず肩をびくりと揺らした。
だが、すぐに表情を整え、笑みを浮かべた。
「いいのよ。大したことじゃないもの」
サラは椅子に腰を下ろし、結い上げていた髪をほどくと、櫛を手に取って大きくため息をついた。
そして、愚痴をこぼし始めた。
「聞いてよ、ジェーン。今日、侍女頭にひどく怒られたの」
「どうして?」
「それが、本当に大したことじゃないのよ。お嬢様は冷たい水がお嫌いでしょう? それなのに、食事の席で出した水が少し冷たかったって、侍女頭に怒られたの。そんなに怒るほどのことかしら?」
「違うわよ。水が少し冷たかったくらいで、お嬢様に何かあるわけでもないのに」
「それなのに侍女頭ったら、私に使用人用の厠掃除を三日間も命じたのよ」
「本当にひどいわ。サラ、侍女頭は厳しすぎるのよ」
ジェーンはサラの前に腰を下ろし、彼女の手を取った。
ふと、エドガーの優しい顔が頭に浮かぶ。
「エドガー様なら、優しく笑って許してくださったのに」
ジェーンの言葉に、サラがうなずいた。
「そうよ。エドガー様なら、侍女頭がひどいことを言うたびに、きっと止めてくださるわ」
「早くエドガー様にお仕えしたいわ。エドガー様がこのお屋敷にいらっしゃるのは、もう決まったようなものじゃない?」
「ええ。詳しいことは知らないけど、家同士の事情もあるから、簡単にはなくならない婚約だって聞いたわ」
「貴族の方々には、そういうものがあるのよね」
「きっと今より、ずっと楽に働けるようになるわ。それまで、もう少しだけ我慢しましょう、ジェーン」
「ええ、サラ」
二人は互いの手を握ったまま、顔を見合わせて微笑んだ。
◇
アデル公爵夫人のサロンに出席してから、数日が過ぎたころだった。
私は一通の手紙を受け取った。
ラヴィス侯爵令嬢から届いたその手紙には、思いがけないことが記されていた。
誕生日の夜会の時刻が、サロンで聞いたものと招待状に記されたものとで違っている。どちらの時刻が正しいのか確認したい――という内容だった。
私はすぐに侍女頭を呼んだ。
「お呼びでしょうか、お嬢様」
「ラヴィス侯爵令嬢からの手紙です。届いた招待状には、夜会の開始時刻が午後八時と記されていたそうです」
侍女頭の顔色が変わった。
「そんな……ありえません」
そして、しばらく考え込んでいた侍女頭が、はっと目を見開いた。
「あ……」
「何か思い当たることがありますか?」
「はい。実は、招待状の作成中に、時刻の誤記が見つかったことがございました」
「……続けてください」
「招待状に、夜会の開始時刻が午後八時と記されていたのです。幸い、封蝋を押している途中で気づきましたので、その場で作業していた招待状はすべて新しいものに差し替えました」
「招待状を新しいものに差し替えたのに、差し替え前の招待状が送られたということですか」
「……そのようなことは、ありえないはずです。確かに、一通残らず差し替えました」
私は深く息を吐いた。
もしラヴィス侯爵令嬢がサロンで私から夜会の時刻を聞いていなければ、ラヴィス侯爵家は二時間も遅れて夜会に参加することになっていたかもしれない。
すぐにラヴィス侯爵家へ手紙を送り、丁重に詫び、この件が故意ではないことを説明しなければならなかった。
頭が痛くなり、私は額に指を添えた。
そして、今回の件の原因を一つずつ確認していくうちに、ジェーンが関わっていることが分かった。
正式な招待状が封筒ごと折れ曲がってしまったことを報告せず、処分予定だった招待状とすり替えたというのだ。
またしても彼女の手で不手際が起きたことに、呆れるしかなかった。
いや、もはや不手際と呼べる段階ではない。
呼び出されたジェーンは、最初のうち、自分は何も知らない、招待状を使いの者に渡しただけだと言い張った。
だが、問い詰められるうちに、ついに自分がしたことを認めた。
「招待状を折ってしまったことを報告すれば、叱られると思ったのです。だから……差し替えました」
胸の前で組んだ手を落ち着きなく動かしながら、彼女は消え入りそうな声で言った。
それを聞いて、私は言葉を失いそうになった。
折ってしまった時点で報告していれば、ここまで大きな問題にはならなかった。
それなのに、彼女は故意に招待状をすり替えたのだ。
その事実に、胸の奥が冷えていくのを感じた。
「ジェーン。あなたは、自分がどれほど重大なことをしたのか分かっていますか?」
私は重い声で尋ねた。
すると、彼女は口ごもりながらも、言葉を絞り出した。
「私が悪かったのは分かっています。ですが……そこまで大きなことではないのではありませんか? 小さな誤字がある程度でしょうし……」
「ジェーン……お願いだから、もう黙ってちょうだい」
侍女頭が苦しそうな顔で、ジェーンに向かって首を横に振った。
彼女もまた、今回の件に責任を感じているのだろう。
私の隣に控えていたロイドも、沈痛な面持ちで目を伏せた。
けれど、ジェーンだけはなおも口を開き、はっきりとした声で私に言った。
「間違って送られたのなら、今から訂正すれば済むのではありませんか? まだお誕生日の夜会の前ですし……」
その考え方に、胸の奥が重くなる。
「訂正すれば、なかったことになるわけではありません。招待状には公爵家の封蝋が押されています。その重みを、あなたは分かっていますか?」
「……」
「その招待状は、当家の威信に関わるものなのです」
「それが……そんなに大切なことなのですか?」
彼女は最後まで理解していなかった。
自分のしたことの重さも、正しく分かっていないようだった。
重い沈黙が落ちる中、私は静かに口を開いた。
「ジェーン。あなたは今日限りで解雇します」
ジェーンはすでに覚悟していたのか、唇を引き結び、力なくうつむいた。
そして、私は続けた。
「ですが、解雇だけでは済ませられません。ロイド、警備の者を」
「かしこまりました」
扉の外に控えていた警備兵が二人、部屋へ入ってきた。
私は命じた。
「ジェーンを王都衛兵隊に引き渡しなさい」
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