第五十四話「河畔にて」
十二月二十一日、午後一時半を過ぎた頃。
ヘーゼルたちは休憩を取った村から五kmほどの平原の中にいた。南にはファータス河がゆっくりと流れており、冷たい冬の風が彼らの間を吹き抜けていく。
獣人の剣術士ファンは何気なくファータス河の方を眺めていた。
そして、かなり遠くの空に、四羽の鳥のような姿を見つけた。
「何かいるぞ! ハーピーかもしれん!」
ファンの言葉にヘーゼルたちは一斉に馬を降り、各々武器を構えた。
二、三分でその鳥のような飛行物体の姿が明らかになった。その姿にルナは愕然としていた。
彼女が見た物のうち三体は、先日広場で見た翼魔にそっくりで、もう一体は鳥の翼を背負った人間のようだった。
ルナが弓を構えようとする前に、ファンが「翼魔三体に魔族だぞ! どうするんだ!」と叫んでいた。
ファンたち三人がヘーゼルを見るが、彼女の顔から表情が抜け落ち、ただ呆然と空を見上げていた。
ライアンはハルバートを構え、ルナの前に立った。
「馬で逃げても追いつかれる。やるしかねぇ!」
ライアンの叫びに、ルナは矢を番えて応えていた。
だが、彼女の心の中では、絶望に染まっていた。
(無理よ! 翼魔一体でも苦労するのに。三体もなんて……聖君、助けて……)
五十mほどに近づいたところで、ルナは矢を放った。
だが、翼魔たちは打ち上げてくる矢を易々と避け、更に接近してきた。
相手の顔が見える距離になると、魔族の女性ヴァルマ・ニスカが「武器を捨てなさい! あなたたちに勝ち目はないわ」と声を掛けてきた。
そして、ルナに向かって、「御子様。上空からの言上申し訳ございません」と言った後、
「私と共に来て頂けないでしょうか? 抵抗されなければ、そこにいる者たちに危害は加えません。私たちはあなたをお連れすることが目的。手荒な真似は本意ではないのです」
ルナはこの絶望的な状況で仲間を助けるには、自分が彼女について行くしかないと考え始めていた。そして、ルナがそれを了承しようとした時、ライアンの叫びが彼女の耳を打った。
「駄目だ! こいつらが約束を守るはずがねぇ! それに奴が、レイが来るかもしれないんだ! 希望を捨てるな!」
ルナはレイという名を聞き、開きかけた口を閉じた。
(聖君が来てくれれば、何とかなるかもしれない。でも、本当に来てくれるのかしら……)
ヴァルマは躊躇っているルナに対し、
「私と共に来ていただけないなら、仕方ありません。そこの三人を殺して、無理にでも来ていただきます!」
ルナは強い口調でそう言われ、周りを見た。
目の前にいるライアンの表情は判らないが、ハルバートを構えている腕が僅かに震えていた。その隣にいるファンも固い表情で空を見つめながら、剣を握っている。
自分の横に入るリーダーのヘーゼルはこの事態に呆然とし、力なく空を見つめているように見えた。
そして、後ろを振り向くが、街道には人の姿はなく、耳を済ませても馬蹄の響きは聞こえてこなかった。
(敵は全員魔法を使えるはず。この距離では私たちに勝ち目はないわ。助けが来る気配も無い……悔しいけど、あいつらの勝ちね……出発の時にもっと慎重になるべきだったわ。自分のことにかまけて、ヘーゼルさんたちにすべてを任せるんじゃなくて……ああ、どうしていつもこうなんだろう。私は後悔してばかりね……)
ルナは自嘲気味に微笑むと、空に向かって叫び始めた。
「判ったわ! 降伏する! でも約束して! この人たちに手は出さないって!」
彼女はそう言いながら、ライアンの前に出た。ライアンは彼女を庇うように前に出ようとするが、彼女はそれを笑顔で制した。
「ありがとう。でもいいの。私が行けば、みんなが助かるんだから」
ライアンは「駄目だ! 諦めるな!」と叫んだ後、「頼むから……」と力なく呟く。
「ごめん。ライアン。ファンさん、武器を置いてください」
彼女の言葉にファンが剣を投げた。そして、ライアンはもう一度ルナを見た後、同じようにハルバートを投げ捨てる。
ヴァルマはその光景を見て、満足そうに頷き、一体の翼魔を上空に残したまま、自らは二体の翼魔と共に彼らの前に舞い降りた。
そして、ルナの前に片膝を突き、「それでは御子様。暫しご不自由をお掛けいたしますが」と言って、革で作った椅子のようなものとロープを取り出した。
「翼魔二体でお運びいたします。多少揺れますが、私ともう一体がサポートいたしますので、ご安心下さい」
ヴァルマは笑顔でそう言って、ルナの腰にその道具とロープを巻きつけるため、ゆっくりと立ち上がり、ルナの後ろに回った。
その時、ヴァルマに隙ができたと、ライアンが動いた。
彼はその巨体を生かし、ヴァルマを拘束しようと飛び掛ったのだ。彼の動きを見たファンもすぐに反応し、剣に飛びつき、翼魔に切りかかった。
だが、ヴァルマに襲い掛かる前に、跪いていた翼魔が闇の矢を放っていた。
ライアンは魔法を放たれるとは予想しておらず、その矢をもろに胸に受けた。
至近距離から放たれた魔法の矢は、彼の胸甲を突き破り、胸に深く突き刺さった。彼は数歩惰性で歩いた後、口からは血を吐きだして棒のように倒れていった。同じようにファンにも闇の矢が飛んでおり、彼の太ももに矢が突き刺さると、彼は剣を杖にして、その場に片膝を突いてしまった。
ルナは「ライアン! ファンさん!」と叫ぶが、ヴァルマに押さえ込まれて近寄ることが許されなかった。
「手を出さないって言ったじゃない! どうして……」
ルナの叫びに、ヴァルマは「先に手を出してきたのはあの者たちです。私どもは止む無く攻撃しただけでございます」と平然と言い放った。
そんな状況でもヘーゼルは動かなかった。ルナは彼女の目を見て、驚愕する。その目には何の感情も浮かんでおらず、大切な仲間が殺されようとしているのに、助けようとしなかったからだ。
ここに至ってルナもヘーゼルがおかしいと気付いた。
「ヘーゼルさん……もしかして、私たちを裏切ったの? いえ、傀儡にされたのね!」
ルナはそう言ってヴァルマを睨みつける。
ヴァルマは「既に用はありませんので、解放いたしましょうか?」と言って、ヘーゼルに近づいていった。
ヴァルマはヘーゼルに装備を外すよう命じ、背中を露にさせると、傀儡の魔法を解除した。
ヘーゼルはその場に崩れ落ち、それを見たルナの「ヘーゼルさん!」という悲鳴が木霊する。
「すぐに目覚めるでしょう。御子様、私は約束を守りました。御子様も私との約束をお守り下さい」
ルナは苦しむファンと意識の無いライアンとヘーゼルを見ながら、自分がどうすべきか悩んでいた。だが、ヴァルマが「御子様」ともう一度言うと、
「せめてライアンとファンさんの治療をお願いします」
ルナはヴァルマに頭を下げるが、ヴァルマは「治癒魔法はあまり得意ではありませんので」と言って、ヘーゼルの頬を叩き始めた。
ヘーゼルはすぐに目覚めたが、なぜ自分がここにいるのか、全く理解できない。そして、目の前に翼を持った魔族の姿を認め、「あの時の魔族が……」と項垂れた。
ルナはそんなヘーゼルに対し、
「ライアンとファンさんがケガをしています。治癒魔法を」
ヘーゼルは血を吐きながら、倒れているライアンに気付き、慌てて駆け寄っていった。
それを見たヴァルマは、「それでは御子様。出発いたします」と言って翼魔に目で合図を送った。
ルナは抵抗することなく、その言葉を受け入れ、静かに出発するのを待っていた。
その時、ヴァルマの表情が一瞬曇った。だが、彼女は何も言わず、翼魔に飛ぶよう命じていた。
ルナを持ち上げる翼魔たちは、タイミングを合わせて上空にゆっくりと舞い上がっていく。ロープが伸びていき、ブランコのような状態になると、今度はルナの体がゆっくりと持ち上がっていった。
ヘーゼルはライアンに治癒魔法を掛けながら、その光景を見つめるしかなかった。
ヴァルマはルナが思っているほど余裕があるわけではなかった。
上空にいる翼魔から、二騎の騎馬が急速に接近してくるという連絡があったからだ。
(あの魔術師のようね。御子様と一緒にいるから、闇雲に攻撃されることはないだろうけど、早く河を越えた方がいいわ。それにしてもギリギリのタイミングだったわ……)
翼魔たちが三十mほど上がった時、「ルナ!」という叫びと馬の駆ける音が聞こえてきた。
ルナは「聖君!」と叫び、手を伸ばそうとするが、バランスの悪い状態であることに気付き、慌ててロープを掴んでいた。
ヴァルマは一体の翼魔に後ろを警戒させ、ファータス河に向かって移動を開始した。
レイは中間地点の村を抜け、更に馬を駆けさせていた。
彼の愛馬もさすがに息が上がり、苦しそうに目を剥いているが、彼は「もう少しだ。頑張って」と言って愛馬を励ます。それに愛馬も応え、速度を緩めることはなかった。
彼を追うステラは、替え馬に乗り換えたにも関わらず、徐々に引き離されていった。
彼女が「レイ様! 一人で先行しては危険です!」と叫ぶが、レイにその声は届いていなかった。
午後一時半過ぎ、レイは上空に一体の翼魔が浮かんでいることに気付いた。
(あそこで飛んでいるってことは、あの下にルナが、月宮さんがいる。急げばまだ間に合う!)
彼は更に速度を上げた。
ステラにも翼魔の姿は見えていた。そして、レイが速度を上げたことで、あの下にルナがいることを確信した。彼女は馬を潰す勢いで、鞭を振るっていた。
翼魔に吊り上げられた人の姿が見え始めた。それはゆっくりと上昇していった。レイは馬を操りながら、絶望が心の中を黒く侵食していくのを感じていた。
(あと二十秒、いや、十秒早ければ……空に上がられてしまえば、撃ち落せない……くそっ! 何か手はないのか!)
彼がヘーゼルたちの所にたどり着いた時、ヴァルマとルナを運ぶ翼魔はファータス河に掛かろうとしていた。ヴァルマたちは射程内いたが、ルナを運ぶ翼魔を撃ち落すわけにも行かず、迷っていた。レイは歯噛みしながらヴァルマらを睨み、更に馬を前に進めて、彼女に向けて光の矢を放とうとした。
後方で警戒していた翼魔は、それに気付き、闇の矢の魔法を放って牽制する。
レイは闇の矢を見て、慌てて愛馬の手綱を引き、それを避けた。そして、その間にルナたちはファータス河の川面の上空に達し、彼女を追うことが不可能になっていた。
彼は自分の追跡を邪魔した翼魔に憎しみを込めて、光の連弩の魔法を撃ち返した。
彼の放った五本の光の矢を見た翼魔は、慌てて反転し、更に高度を利用して加速する。
レイは怒りで集中力を切らしそうになるが、何とか五本の矢を誘導し、最短距離で翼魔を追わせた。
翼魔は急旋回と急降下を使って、迫り来る光の矢を三本までかわした。だが、残りの二本はかわしきれず、背中の中央に二本同時に突き刺さり、悲鳴のような声を上げた後、失速して、ファータス河の手前に墜落した。
ヴァルマは翼魔を失ったことを知り、
(これで御子様を運ぶ手が二体だけになってしまったわ。これでは迅速に移動できない……でも、間一髪だった。あと一分飛ぶのが遅かったら、御子様を奪い返されるところだった……本当にあの男は私にとって天敵……)
それでも彼女は上機嫌だった。
(でも、これで御子様を確保できたわ。あとは“ソキウス”に戻るだけ)
ソキウスとはアクィラ山脈の東にある魔族の国のことである。西側の人々はかの土地をクウァエダムテネブレ=永遠の闇と呼ぶが、住んでいる魔族たちは自分たちの土地をソキウス=同士たちの土地と呼んでいる。
ヴァルマは翼魔を失いながらも、ファータス河を越えた。そして、ポルタ山地の麓に広がる深い森の中に消えていった。
レイは撃ち落した翼魔には見向きもせず、連れ去られるルナの姿を見つめていた。
ようやく追いついたステラが見た彼の顔は、怒りと絶望がない交ぜになった顔だった。
ステラは彼に言葉を掛けることができず、彼が撃ち落した翼魔に止めを刺しにいくことしかできなかった。




