第7章A 合言葉のない家
第7章A
合言葉のない家
倉庫を出るころには、空がもう半分ほど夜になっていた。
坂の上の団地へ続く道は、昼よりも人が少ない。街路灯は一本おきに点いていて、点いているものもどこか頼りなく白い。結衣は文房具屋で買った赤鉛筆を、コートのポケットから何度も触って確かめながら歩いた。なくしていないことを、歩くたびに確かめているらしかった。
家へ着くと、佐伯は先にストーブをつけた。
点火まで少し間がある。小さく火が走り、それから遅れて金属が鳴る。結衣は手袋を外し、ランドセル代わりの布鞄を椅子へ置いて、そのまま台所の流しで手を洗った。蛇口から出る水は冷たく、しばらく流してようやく少しだけましになる。
「今日、地図ここに置いとくね」
結衣は居間の低い卓の上へ、折り畳んだ紙を置いた。
赤鉛筆の丸。星印。「月に/塩」と書いた小さな紙。
それらはどれも軽くて、子どもの手の大きさに合っていて、けれどいまのこの家では、湯飲みや箸と同じくらい実用のものとして置かれていた。
佐伯は上着を脱ぎ、ストーブの前にしゃがんだ。
火はまだ弱い。青と橙のあいだで、小さく揺れている。
「なくすなよ」
と言うと、
「二本あるから大丈夫」
と結衣はすぐ返した。
その答え方が、妙に頼もしかった。
一本なくすことまで込みで考える。大げさな決意ではなく、最初からそういうものとして準備しておく。子どものくせに、と佐伯は思い、すぐに、その「子どものくせに」という感想こそ自分の古い油断なのだと気づいた。
夕飯は簡単なものだった。
鍋に残っていた煮物を温め直し、干物を焼き、昨日の味噌汁へ豆腐を足す。結衣は食べながら、学習室で先生に言われたことや、帰り道で見た壊れた信号のことをぽつぽつ話した。話は短く、途切れ途切れだったが、その短さの中に一日の輪郭がちゃんと入っていた。
「先生ね、また言ってた。知らない声に返事しないでって」
「うん」
「でも、知ってる声なら返事しちゃうよね」
結衣は味噌汁の椀を両手で持ちながら言った。
昼に、似ている声なら振り向いちゃうと言っていたのと、同じことだった。家の中で聞くと、少し違う響きになる。外では注意事項だったものが、家ではそのまま誰かの顔を呼んでしまう。
「だから、月に塩でしょ」
「そうだな」
結衣は満足したように頷き、焼き魚の骨を器用によけた。
もうこの子の中では、今日決めたことは特別な取り決めではなく、明日も使う生活の道具になっているのだと佐伯は思った。鉛筆や湯たんぽや懐中電灯と同じように、要るからそこにあるものとして。
その自然さに、佐伯は少し救われた。
救われながら、同時に別の顔を思い出した。
母なら、こういう話をするとき、もっと長く言葉を足しただろう。
気をつけなさいよ、ほんとに。
変な電話、あるんだからね。
あんたはすぐ大丈夫だと思うから。
そう言って、こちらが切り上げようとしても、もう一つ、もう半分だけと話を伸ばしただろう。
結衣が食器を流しへ運んでいるあいだ、佐伯は無意識に壁際の棚へ目をやった。
そこには小さなメモ帳と、電話番号を書いた紙切れが輪ゴムでまとめて置いてある。配送先、診療所、学習室、田辺の倉庫、それから実家。母の番号は、固定回線が死んでから何度も書き直した。携帯。仮設局。近所の商店経由。週ごとに使えるものが変わるから、どれが今生きているのか分からなくなる。
「パパ、お茶いる?」
流しの方から結衣が訊く。
「いる」
「熱いの?」
「熱いのでいい」
「じゃあ、ちょっと待って」
そのやり取りのあいだに、母の顔がはっきりしてくる。
美津江は昔から電話が長かった。相談というほどでもない近所の話、天気の話、冷蔵庫の残り物の話、佐伯の声が疲れているだの咳をしているだの、そんな細かいことをいちいち拾って、切ったあとでこちらが少しだけ消耗する種類の会話だった。
若いころの佐伯は、それを面倒だと思っていた。
というより、面倒だと思う余裕がある社会だった。電車の時間がある。会議がある。メールが来る。今から資料を出す。そういう理由を並べれば、とりあえず「あとで」が通った。通ってしまった。母も「はいはい、忙しいんでしょ」と言って引いた。引きながら、本当はもう少し話したいのが分かる声を出した。佐伯はそれを聞き流すことに慣れていた。
いちばん重い「あとで」は、五年前の火曜日だった。留守電に母の声が残り、句読点のない短い文字が届き、自分は後で折り返すと決めた。会議に入り、承認が通り、昼が過ぎ、夕方には社内が妙に騒がしくなった。その日のうちには、結局折り返さなかった。翌日かけたとき、母はもう何も訊かなかった。
結衣が急須を運んできて、湯呑みに茶を注いだ。
湯気が上がる。薄いが、たしかに温かい匂いがある。
「どうしたの」
「何が」
「さっきから、おばあちゃんのこと考えてる顔」
佐伯は少し驚いて、娘を見た。
結衣は大したことではないような顔で、自分の湯呑みを持って座った。
「そんな顔してたか」
「してた」
子どもは、と佐伯は思う。
大人の言い訳も、話をそらす癖も、たぶんずっと前から見ている。
「電話、してみる?」
結衣が言った。
「今日」
佐伯は湯呑みに手を当てたまま、すぐには答えなかった。
今日。
その一語がひどく具体的に聞こえる。いつかではなく、あとででもなく、今日。
「回線、つながるか分からないしな」
「でも、やってみないと分かんないでしょ」
まっすぐな理屈だった。
まっすぐすぎて、返しにくい。
「……そうだな」
そう言いながら、佐伯の頭には別の夜が浮かんでいた。
五年前。まだ街が今ほど壊れてはいなくて、それでも変なニュースばかり増えていたころだ。
食後のテレビで、音声合成を使った詐欺の特集をやっていた。画面の中で、キャスターが有名人の声と偽物の声を聞き比べさせていた。美津江は台所から顔を出して、「やだねえ、こんなの年寄りじゃ分かんないよ」と言った。半分は呆れ、半分は本当に不安そうだった。
そのとき母は、冗談めかして笑いながら言ったのだ。
「うちも何か決めとく? 合言葉みたいなの。あんたかどうか分かるやつ」
佐伯はそのとき、確かソファに座ってスマホを見ていた。仕事の通知だったか、株価だったか、どうでもいい数字だったかもしれない。とにかく、そちらから目を上げずに笑った。
「そんな大げさなこと起きるわけないだろ」
美津江も笑った。
「ああ、そうだよね」
その返しは軽かった。
軽かったが、いま思い返すと、母はそこで一度だけ言葉を差し出し、息子に笑われたので、自分から引っ込めたのだと分かる。もう一度は言わなかった。合言葉の話は、そのまま流れた。流したのは佐伯だった。
母はそのあと、台所の電話の横に何か書いた紙を貼ろうとして、やめたらしい。次の正月に帰ったとき、壁には画鋲の穴だけが一つ残っていた。
結衣が、卓の上の小さな紙を持ち上げた。
「これ、おばあちゃんにも教えたらいいのかな」
佐伯はその紙を見た。
月に/塩。
赤い星印。
今日、文房具屋の前で書き直したばかりの、五年ぶりに戻ってきた家族の言葉。
「……どうかな」
それしか言えなかった。
いまから母に伝えたところで、遅くないのか。遅いのか。そもそも伝わるのか。伝わったとして、次に本当に必要になったとき、母は覚えていられるのか。こちらが先に忘れないのか。そういう現実的な不安がいくつも浮かぶ。だが、そのどれも、結局はもっと早く決めておけばよかった、という一点に戻ってくる。
窓の外で、風が何かを鳴らした。
団地の手すりか、誰かの物干し金具か、乾いた金属音が一度だけした。
結衣は紙をまた卓へ戻し、赤鉛筆でその下に小さく丸を書き足した。
「おばあちゃんの分、ってしるし」
佐伯は娘の指先を見た。
子どもの筆圧はまっすぐだ。迷いがそのまま線に出ない。自分の遅さだけが、その横で際立つ。
「おばあちゃん、電話長いからね」
結衣は少し笑った。
「月に、って言う前にいっぱい話しそう」
佐伯も、息だけで少し笑った。
笑いながら、その情景があまりにありありと見えて、胸の奥がきしんだ。
美津江はきっと、まず天気を言う。寒いねえ、そっちはどう、結衣ちゃん元気、あんたちゃんと食べてる、最近顔見てないねえ、と一息に言う。その途中で回線が乱れたら、どこまでが本物でどこからが違うのか、たぶん佐伯には分からない。
そして何より恐ろしいのは、もし電話口の相手が母に似ていたとしたら、母の方もまた、佐伯の声らしいものに簡単に心を開いてしまうかもしれないということだった。
長年の家族ほど、確認の手順を省いてしまう。
分かっているはずだと思っている。
いちいち確かめなくていい関係だと信じている。
その甘さが、いまの世界ではいちばん危うい。
「パパ?」
「ん」
「今度、行こうね」
結衣は湯呑みを両手で包んだまま言った。
「おばあちゃんち」
今度。
その言葉は、以前ならいくらでも先へ逃がせた。
だが今は、明日も回線が生きている保証がない。道が通れる保証もない。誰かが元気で待っている保証もない。
「……ああ」
返事はした。
けれど自分のその声が、約束になったのかどうか、佐伯には分からなかった。
食後、結衣が先に風呂へ入っているあいだ、佐伯は棚の前に立った。
輪ゴムでまとめた番号の束をほどく。紙は端が柔らかくなっている。何度も指で持たれた紙の弱り方だった。美津江の名前の横に、消して書き直した数字が並んでいる。どれが今夜つながるのか分からない。どれも、つながった先が本当に母へ届くのか分からない。
居間の卓には、結衣の書いた紙がまだあった。
月に/塩。
その横に、おばあちゃんの分、と書き足した小さな丸。
佐伯はその紙を見て、それから番号の束を見た。
結衣とは、合図を結び直せた。五年前に笑って取り合わなかった言葉を、今日、娘の方から差し出されて。
だが母のいる家には、まだ何もない。
本物を確かめる短い言葉も、疑っていいという取り決めも、聞き返していいという約束もない。
あるのは、長年の気安さだけだった。
そして、そういうものほど、似せられたときに脆い。
風呂場の方から、結衣が何か歌う声がかすかに聞こえた。
聞き慣れた、まだ変わりようのない声だった。
そのことに安堵しながら、佐伯はふと考える。
もし今、母から電話が鳴ったら。
あるいは自分がかけて、向こうで「佐伯かい」と呼ぶ声がしたら。
自分たちは、その声を、何で本物だと信じるのだろう。
答えはなかった。
ストーブの火が小さく鳴った。
居間は暖かいはずなのに、佐伯は輪ゴムの外れた紙の束を持つ指先だけが、妙に冷えていくのを感じていた。




