第8章B 模範市民の子
第8章B
模範市民の子
夜の部屋は、帰宅前からちょうどよく整っていた。
玄関を開けると、照明は自動で一段だけ明るくなり、室温は外気との差が身体に負担をかけない範囲へ静かに調整される。空気には匂いがない。キッチンには湯気もなく、鍋の蓋が鳴る音もしない。必要な栄養は、冷蔵ユニットの中で世帯人数とその日の活動量に合わせて組まれている。足りなければ提案が出るし、多ければ最初から届かない。
居間では、結衣が低い姿勢で端末に向かっていた。
学校支給の学習パネルを卓上に立て、耳の横にだけ小さく光る補助イヤーをつけている。左手首には、子ども用の認証ブレスレット。白い樹脂の帯に細い発光部が埋め込まれ、いまは淡い緑だった。
佐伯が入ってきた気配に、結衣は顔を上げる。
「おかえり」
言ってから、すぐ端末の隅を見た。
「帰宅ログ、反映された。今日は少し遅かったね」
責める調子はない。
記録を読んで、その事実をそのまま言っただけの声だった。
「面談があった」
佐伯は上着を脱ぎながら答える。
「コンディション面談?」
結衣は自然に訊いた。
「それなら先に水飲んだ方がいいよ。緊張のあとって、判断精度落ちるって学校でやった」
佐伯は思わず娘を見た。
六年生の冬を迎えた結衣は、言っていることの意味をすべて噛みしめているというより、正しい順番として覚えているように見えた。だが、その覚え方が曖昧ではない。生活の中へすでに馴染んでいる。
卓の上には、夕食代わりの栄養パックが二つ置かれていた。
ひとつはすでに開封され、もうひとつには「保温推奨 2分」の表示が小さく出ている。佐伯が手を伸ばす前に、結衣が言った。
「先に手首、読ませて」
「うん?」
「今日、外部接触あったでしょ」
結衣は悪びれずに言う。
「学校でも言われてる。帰宅直後は、家の中の共有面に触る前に一回だけ衛生認証した方がいいって」
佐伯は無言のまま、壁際のパネルへブレスレットではない自分の手首を近づけた。
淡い音もなく、表示が緑へ変わる。
結衣は安心したように頷いた。
「大丈夫」
大丈夫。
その一言は娘の口から出たのに、どこかシステムの応答のようにも聞こえた。
「学校、何やってたんだ今日は」
佐伯は椅子へ座った。
「生活安全」
結衣は即答する。
「知らないリンクとか未認証の声とか、困ってる人からの直依頼とか。やさしくても危ないことあるから」
佐伯は栄養パックの封を切った。中身は温かく、味は薄く整っている。まずくはない。だが、うまいとも言いにくい。生活のための正しさだけが残った味がした。
「困ってる人、って?」
「たとえばね」
結衣は端末を閉じて、授業の復習でもするみたいに指を折る。
「道で転んでる人がいても、まず自分で触らない。未認証だと誘導型の可能性あるから。近くの認証柱か、見守り窓口に通知する。知らない人が“ママが呼んでるよ”って言ってもついていかない。知ってる人の声でも、認証が通ってなかったら距離を取る」
「距離を取る」
「うん。安全距離。二メートル」
結衣はためらいなく言った。
「助ける前に、まず自分が巻き込まれないことがルール」
そのルールに、佐伯は反論しづらかった。
内容はどれももっともだった。五年前の世界でさえ、大人が子どもへ言っていた注意に近い。ただ違うのは、そのすべてがここでは例外なく適用される前提で教え込まれていることだった。
卓上の共有面が淡く点灯した。
新規到着。
文字だけの通知が隅に浮かぶ。
外部配送経由の紙媒体 1件
送付元認証:未確認
開封保留を推奨します
結衣が先にそれを見つけた。
「あ、それ」
彼女は身を乗り出す。
「開けちゃだめなやつかも」
佐伯は通知を開いた。
配送ロッカー経由で届いた薄い封筒らしい。差出情報は不鮮明。認証スタンプなし。宛名だけが世帯名義で登録されている。
「学校でも言われた」
結衣は真面目な顔で言う。
「紙って、認証抜けやすいから。昔の人、手書き好きだったから、逆に危ないんだって」
昔の人。
その言い方に悪意はない。世代分類として、そう学んでいるだけだ。
佐伯は一度、喉の奥で息を止めた。
封筒の差出欄に、かすれた字で見覚えのある地名が映る。母の住む地区だった。
「それ、おばあちゃんかもしれない」
思わず口にすると、
結衣は少しだけ首を傾げた。
「でも認証マークついてないよ」
「うん」
「だったら、まず保留箱だよ」
彼女は当然の手順を言う。
「開ける前に照合。おばあちゃん本人でも、経路が汚染されてたら危ないし」
危ない。
おばあちゃん本人でも。
結衣は立ち上がり、玄関脇の回収スロットの方へ視線を向けた。
「わたし入れてくるよ。未認証なら四十八時間隔離でしょ」
その無邪気な手際の良さに、佐伯は一瞬、声を失った。
紙を捨てようとしているのではない。守ろうとしているのだ。家を。父を。自分を。そのうえで祖母さえも。
だから、止める言葉が見つからない。
「待て」
ようやく言うと、結衣は足を止めた。
「なに?」
「……まだ、そこまではしなくていい」
「でもルールはそうだよ」
結衣は困ったように言う。
「未確認のものって、やさしい感じで来ること多いんだって。安心させて開けさせるから」
その説明も、授業で習った通りなのだろう。よくできていた。
佐伯は封筒の表示を閉じた。
だが見なかったことにはできない。差出地区の古い町名が、目の裏に残っている。
結衣は父の顔を見て、少し声をやわらげた。
「おばあちゃんだったら、あとで確認したらいいよ」
それは気遣いの言葉だった。
「認証つくまで待てば、安全だし」
安全。
安全であることと、間に合うことが、ここでは同じではないかもしれない。
その感覚だけが、佐伯の胸で小さく軋んだ。
「今日、学校でね」
結衣はまた椅子に座り直した。
「先生が言ってた。ほんものっぽいものほど、ちゃんと疑える人がえらいんだって」
「……そうか」
「うん。やさしい人は、だまされる係になっちゃうんだって」
その一文は、あまりに鷲尾の世界の正論に似ていた。
だが、目の前でそれを言っているのは、セキュリティ統括ではなく、自分の娘だった。
結衣は少し考えてから、ふと訊いた。
「ねえ、パパ」
「ん」
「もしね」
彼女は自分のブレスレットを指で軽く触った。緑の光が一瞬だけ脈を打つ。
「パパの声でも、システムが別人かもって言ったら、結衣はどっち信じるべき?」
月に、と佐伯は言いかけた。
唇の形だけが先に動き、声はそこで止まった。
この子は、その続きを知らない。
五年前、画面の縁に貼られていた青い付箋は、あの朝の騒ぎのあと、片づけられた机と一緒にどこかへ消えた。剥がした覚えも、持ち帰った覚えもない。結衣の方でも、六つの頃に書いた言葉など、もう覚えていないだろう。ここでは、覚えておく必要がなかった。合図の代わりに、手首のブレスレットがある。
佐伯は口を閉じた。
結衣は父を責めているわけではない。
純粋に、正解を知りたい子どもの顔をしていた。学校で出された応用問題の続きを、家で訊いているだけにも見える。だがその問いは、佐伯の胸の真ん中に、細いまま深く入った。
もし父の声がしても。
もし祖母の手紙が届いても。
もし懐かしい字や、聞き慣れた間や、少し咳き込む癖まで揃っていても。
最後に判断するのは、もう人ではなく外部の認証であるべきなのか。
「……難しいな」
佐伯はようやく言った。
「難しいのは分かる」
結衣は頷いた。
「でも、まちがえない方が大事だよね」
まちがえない方が大事。
それもまた、正しかった。
正しいからこそ、冷えた。
共有面の隅で、封筒の保留通知がまだ淡く点いている。
未確認。
開封非推奨。
安全のため保留。
画面は静かで、部屋も静かで、結衣のブレスレットも緑のままだった。
守られている。
この子はきっと、道で知らない人についていかない。未認証の声に振り向かない。困っている他人に安易に手を貸さない。祖母からの手紙でさえ、正しい手順に乗せようとする。犯罪には巻き込まれにくいだろう。損も、傷も、少なく生きていけるかもしれない。
それでも佐伯は、その安全の形の中で、何かひどく小さくて、しかし人間にとって大きかったはずの余白が、きれいに切り取られているのを見た気がした。
「パパ?」
結衣がまた呼ぶ。
「いや」
佐伯は首を振った。
「なんでもない」
結衣はそれ以上追及しなかった。
追及しないのもまた、学校で学んだ適切な距離の一部なのかもしれなかった。
しばらくして、結衣の就寝時刻が近づくと、室内灯は自動で色温度を落とし始めた。共有面には、明日の持ち物確認と、睡眠推奨時刻までの残り時間が整った数字で並ぶ。結衣はそれを見て、「今日は早め」と呟き、自分の学習パネルを閉じた。
立ち上がる拍子に、ブレスレットの緑がまた小さく光る。
その光を見て、佐伯は、この家の卓に鉛筆が一本も転がっていないことに気づいた。
丸印も、誰かの分と書き足された印もない。あるのは最初から規格化された安心だけだった。
「おやすみ、パパ」
結衣は言う。
「未確認の封筒、忘れず保留してね」
佐伯は「分かった」と答えた。
その返事が父としてのものなのか、システムに従う利用者としてのものなのか、自分でも少し分からなかった。
結衣が寝室へ入ったあと、部屋はさらに静かになった。
佐伯は一人で共有面の前に立つ。未確認封筒の通知はまだ消えていない。開封、保留、照合依頼。選択肢は整っている。どれも正しい順路だ。どれも安全だ。
その整い方が、恐ろしかった。
もしこの封筒が本当に美津江のものなら。
もし中に入っているのが、ただの近況や、古い字で書かれた「元気かい」だけなら。
それでもこの家では、まず疑うことから始めなければならない。
佐伯は表示された選択肢に触れず、しばらく立ち尽くした。
無音の部屋の奥で、結衣の寝返りを打つかすかな気配がする。その気配すら、生活音というより正常稼働の微かな確認音のように聞こえた。
卓上にも、棚にも、赤鉛筆はない。
代わりに壁際で待機しているのは、充電台に置かれた認証ブレスレットの予備機と、明日の更新を待つ無傷の表示だけだった。
佐伯はようやく、封筒の通知を保留箱へ送った。
緑の確認マークが一つ、静かに灯る。
部屋はそれで、また少しだけ安全になった。
そして同時に、少しだけ寒くなった。




