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第6章B 鷲尾の正しさ  幕間 III  8秒前

第6章B

鷲尾の正しさ


三浦が東ブロックへ消えてから二十分後、佐伯の卓上に控えめな通知が現れた。


佐伯様

本日11:20より、短時間の状況確認面談をお願いできますでしょうか。

ご負担の少ない形で進行いたします。

場所:西ブロック2F コンディション調整室B

担当:鷲尾


文面は丁寧だった。

拒否しにくいほど丁寧で、命令でないように見える種類の依頼だった。


佐伯は時刻を確認し、了承の表示に触れた。

触れた瞬間、卓上の薄い表示は静かに消え、会議予定の列に新しい一行だけが加わる。

そこに三浦の名はもうなかった。


近接席は四つある。呼ばれたのは自分ひとりだった。

その理由を、佐伯は訊かなくても知っていた。


西ブロックの二階は、執務フロアよりさらに静かだった。

廊下は白く、照明は均一で、壁面の素材は音を丸めるように作られている。途中に置かれた観葉植物でさえ、本物なのか精巧な代替物なのか一目では分からない。案内表示は必要なときだけ足元へ淡く出る。歩いている間ずっと、佐伯は自分の靴音が自分のものではないように感じた。


コンディション調整室Bの扉は、近づくと無音で開いた。


中は小さかった。

会議室というより、相談室に近い。丸みのある椅子が二脚。低いテーブル。壁面の一部に、柔らかい水色の明度差だけで構成された抽象画のようなものが表示されている。空調は暖かすぎず、冷たすぎず、のどに引っかからない。机も端末も見えない。記録装置があるとすれば、視界に入らない場所にあるのだろう。

ただ一か所、低いテーブルの側面に、指一本分ほどの細い蓋があった。周囲と同じ素材で塗り込められ、蝶番の線だけがかすかに見える。災害時の手動確認用の差し込み口だと、佐伯は知っていた。五年前の事故のあと、再発防止の検証会議に呼ばれ、配られた図面の隅で一度だけ見たことがある。使われているところを見た者はいない、とそのとき誰かが言っていた。


鷲尾は立って佐伯を迎えた。


「お時間をありがとうございます」


五十に届くか届かないかくらいの年齢に見えた。髪は短く整えられ、声はよく通るのに角がない。スーツは濃いグレーで、手首のリングは深めの緑を静かに保っている。いかにも信用されるために作られた外見、という感じではなかった。むしろ、長くこの環境にいることで自然にそうなった人間の均整だった。


「ご足労をおかけしました。お掛けください」


佐伯は座った。

椅子は身体を沈めすぎず、姿勢を正しすぎもしない微妙な角度で支えてくる。逃げにくい座り心地だ、と佐伯は思ったが、その感想さえここでは少し場違いに思えた。


鷲尾も向かいへ座る。

テーブルの中央に、透明なコップが二つ置かれ、水が半分ずつ入っていた。いつ用意されたのかは分からない。


「まず」

鷲尾は言った。

「今朝の件で、心理的なご負担をおかけしたと思います。三浦さんと距離の近い座席ですし、突然の挙動変化をご覧になったことで、驚かれたのではないでしょうか」


責める調子はまったくなかった。

本当に相手の心身状態を気遣っている声だった。


「……驚きは、しました」

佐伯はそう答えた。


鷲尾は小さく頷く。

「そうですよね。あの場面だけ切り取ると、冷たく見えることも理解しています」


冷たく見える。

その表現の控えめさに、佐伯は少しだけ息が詰まった。

冷たい、ではなく、冷たく見える。


「三浦さんは、親切で誠実な方です」

鷲尾は続けた。

「その点について、こちらもまったく異論はありません。実際、平時の対人評価でも非常に安定した数値が出ています」


安定した数値。

親切さが数値化されていることに驚くべきなのか、それを口にすることに驚くべきなのか、佐伯は一瞬判断できなかった。


鷲尾は、佐伯の沈黙を急かさなかった。

十分に間を置いてから、落ち着いた声で言う。


「ただ、攻撃AIはまさにその『善意の肩代わり』と寸分違わぬ挙動で侵入してきます」


言葉が、柔らかいまま骨だけ硬かった。


「体調の悪い同僚に代わって開く。急いでいる案件を先回りして処理する。権限を持つ本人の代わりに、信頼されている第三者が手を出す。人間同士の関係としては美しい動きです。ですが、侵入のパターンとして見たとき、それは最も成功率の高い経路でもあります」


鷲尾の手首のリングは変わらず緑だった。

その安定が、話している内容の安定まで保証しているように見える。


「システムに感情の区別はつきません」

鷲尾は静かに言った。

「善意か、悪意か。疲労から来た親切か、計画された踏み台化か。そこに例外を認めると、例外の形をした攻撃が必ず入り込みます」


佐伯は水に手を伸ばしかけ、やめた。

喉は乾いていたが、いまコップを持つと手元が少しでも揺れそうな気がした。


「今回、三浦さんがされたことは」

佐伯はようやく口を開いた。

「そこまで重い逸脱だったんでしょうか」


鷲尾はその問いを歓迎するように、ごくわずかに表情を和らげた。


「重い、という言い方は、私はあまりしません」

彼は言った。

「行動には重さより、波及性があります。今回の挙動自体は小さい。しかし、小さいからこそ、検出が遅れると広がる。ですから私たちは、意図を裁くより先に、パターンを止めます」


意図を裁くより先に、パターンを止める。

それはたしかに合理的だった。

合理的すぎるほどに。


鷲尾は壁面の一部へ視線を向ける。表示は佐伯の側からは見えない。だが、次に発せられた数字は、準備されたものだった。


「この運用に移行してから、当社のランサム被害は五年間ゼロです。誤送金ゼロ。内部権限のなりすまし侵入ゼロ。対人誘導を伴う認証突破も、記録上はゼロを維持しています」


彼は誇るようには言わなかった。

医師が検査結果を読み上げるような、静かな事実提示だった。


「佐伯さんは、この運用の出発点をよくご存じの方ですから、この数字の重さも分かっていただけると思います」

悪意はどこにもなかった。事実を、敬意をこめて述べただけの声だった。


「他社では、ここまでできていません。ご存じのとおり、被害が一度でも起きると、それは金額の問題だけでは済みません。情報漏えい、供給停止、信頼の毀損、連鎖的な模倣犯の誘発。被害者が一社で終わらないのです」


否定できなかった。出発点、と鷲尾は言った。その出発点の一つが、自分の人差し指だった。

五年前、自分が受け取ったたった一通の急ぎメール。確認を一手間省くこと。今だけは例外にすること。善意でも悪意でもなく、ただ効率を優先しただけの一歩が、どれほど大きな穴になるかを、佐伯はもう知っている。


鷲尾は続ける。


「人間の『今回だけは特別』という情動こそが、最大の脆弱性です」


その一文だけが、少しも装飾されずに部屋の中央へ置かれた。

柔らかい空調も、水色の壁面も、その言葉の角を丸めきれなかった。


「急いでいたから」

鷲尾は指を一本、静かに折る。

「困っていたから」


もう一本、折る。


「顔なじみだから」

もう一本。


「この人なら大丈夫だから」


そこで彼は指を止めた。


「私たちが防がなければならないのは、まさにその連鎖です。悪意のある人間は、最初から規則を破ろうとします。ですが多くの侵入は、善意の側から開きます。助けたい、間に合わせたい、今回だけは通したい。そこに攻撃は最も滑らかに入ってくる」


佐伯の胸に、真鍋の短いチャットと、母からの短い文字が同時によみがえりかけた。

入った?

あんたじゃないって言って。

だがここでその記憶を掴めば、自分の顔に何かが出る気がして、彼は意識の奥へ押し戻した。


「三浦さんご本人も」

鷲尾は言った。

「すぐに状況をご理解くださいました。非常に協力的でした」


「相談窓口に行ったあと、どうなるんですか」

佐伯は訊いた。


「まずは生理指標と認知負荷の確認です」

鷲尾はすぐ答えた。

「過緊張や責任感の偏りがないか、支援の必要がないかを見ます。そのうえで、一定時間、権限を保留します。多くの場合は同日中に復帰可能です」


多くの場合。

その曖昧さだけが、正確だった。


「処分、ではないんですね」


「処分ではありません」

鷲尾は穏やかに言う。

「保護です。ご本人と、組織の両方を守るための一時停止です」


佐伯は視線を落とした。

自分の左手首のリングが、膝の上で静かに緑を保っている。

朝の一瞬の黄色を思い出す。三浦の赤を思い出す。そして、いまこうして鷲尾の前で黙っている自分の緑が、何を意味するのか分からなくなる。


「……でも」

と言いかけて、佐伯は止まった。


鷲尾は待った。

遮らない。促さない。

その待ち方さえ、相手に“言わなくていい”という安全を与えるように設計されている気がした。


「何でしょう」


声はあくまで柔らかい。


佐伯はうまく続けられなかった。

でも、の先にあるのは怒りではない。反論でもない。ただ、何かが少しずつ削られていく感じへの説明のつかなさだった。だが説明のつかない感覚は、この部屋では事実になりにくい。事実になるのは指標で、ログで、再現可能な挙動だけだ。


「……いえ」


佐伯は首を横に振った。

「分かります」


その言葉を口にした瞬間、自分が何に同意したのか、佐伯は少し分からなくなった。理屈か。統計か。鷲尾個人の誠実さか。それとも、ここで分からないと言うことの危うさからか。


鷲尾は小さく頷いた。


「ありがとうございます。佐伯さんのように、丁寧に考えてくださる方がいて助かります」


労いの言葉だった。

丁寧に考える人間なら、ここで制度の必要性を理解するはずだ、と静かに位置づけられた気がした。


鷲尾は最後に、事務的というより配慮の延長のような口調で言った。


「なお、本日の一件を受けて、近接席の皆様には軽度の心理負荷が記録される可能性があります。必要に応じて、昼休憩のタイミングを平準化します。もし動悸や集中困難があれば、自己判断なさらず、すぐに補助導線をお使いください」


補助導線。

ここでは助けを求める経路にさえ、感情の匂いがない。


面談はそれで終わった。

鷲尾は立ち上がり、扉のところまで佐伯を送った。


「三浦さんの件は、必要な支援の範囲で共有されます。ご本人の尊厳に関わる情報は保護されますので、ご安心ください」


その一言まで、どこまでも正しかった。


廊下へ出ると、白い光は来たときと同じ均一さで床に落ちていた。

空調も、観葉植物も、足元の案内も変わらない。何ひとつ崩れていない。何ひとつ荒れていない。


それでも佐伯は、肺のどこか浅いところでしか息ができない感じが残っているのに気づいた。


執務フロアへ戻る途中、壁面のガラスに自分の姿が映った。

姿勢は乱れていない。顔色も平常に見える。リングも緑だった。

システムから見れば、おそらく安定しているのだろう。


だが佐伯には、その緑が、正しさの証明というより、まだ削られていないことの印に見えた。


席へ戻ると、右隣は相変わらず薄かった。

三浦の椅子も机もある。だが、その席に結びついていた情報の層だけが引き上げられているせいで、そこだけ空気の密度が違う。座っている人間が一人減ったというより、社会の側がその場所をいったん忘れたように見える。


卓上の透明面に、新しい通知が一行だけ浮かんだ。


午後の業務効率維持のため、呼吸安定ガイドを30秒推奨します。


佐伯はその青い円を見た。

吸ってください。

吐いてください。

文字は出ない。ただ、従いやすい速度で円が膨らみ、縮む。


彼は一度だけ目を閉じ、指示どおりに息を整えた。

整えば整うほど、自分の中の何が整えられているのか分からなくなる。


目を開けると、リングは変わらず緑のままだった。


それが正しいことを、鷲尾は証明した。

それでも佐伯は、その正しさの中で人がどこまで薄くなっていけるのか、まだ想像しきれなかった。



幕間 III

8秒前


10:14:52


開始まで 00:08


ポップアップが画面の中央へせり上がる。

同時に、チャット。


真鍋:入った?


返事をしていない。


10:14:53


真鍋:役員待ってる。すぐ入って。承認はそこで。


文が増えた。

句点はない。余白もない。

入った? の二文字が「まだか」に聞こえる耳が、佐伯の中にはもう出来上がっている。その耳の方が、画面より先に急いでいる。


右から、煤けた火の匂いのする声。

――人間は、必ず楽な方へ間違える。

左から、空調のように穏やかな声。

――人間の「今回だけは特別」という情動こそが、最大の脆弱性です。

どちらの男も、佐伯は知らない。知らないまま、二人とも正しかった。

押せば、楽な方へ。

確かめれば、今回だけの方へ。


10:14:55


真鍋:はやく


漢字すら落ちた。


人差し指が、左ボタンの上で重みを持つ。

指は、沈まなかった。

止めたのではない。止める理由は、まだどこにもない。ただ、重みだけがそこで行き場を失った。


10:14:56


右手が、マウスから半寸だけ浮いた。


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