第5章A 100億ドルの焚き火
第5章A
100億ドルの焚き火
その倉庫街は、海からの風をまともに受けた。
建物そのものはまだ立っている。屋根も壁もある。だが、使われなくなった搬入口のシャッターには錆が浮き、コンクリートの床には割れたパレットの木片が湿ったまま積まれていた。完全に捨てられたわけではない。捨てきれなかった、と言った方が近い。公式の配送網に乗らない品や、書類の上ではまだ動いていることになっている設備の部品や、どこから流れてきたのか分からない保存食が、こういう場所でときどき手を替えていた。
佐伯が来たのは、古い暖房機の点火制御部品を探すためだった。南町の学習室で使っている灯油ファンヒーターが、先週から三度に一度しか火を噛まなくなった。新品はもう入らない。互換品も、図面上は存在していても実物が届かない。だから動かなくなった倉庫や工場の部品を、現場どうしで融通し合うしかない。
結衣が午前を過ごす部屋だった。あの部屋の火が止まれば、子どもたちは上着を着たまま、かじかんだ指で鉛筆を握ることになる。
田辺に渡された紙片には、倉庫番号と、会う相手の名前が鉛筆で書かれていた。
第七埠頭跡 B-4
沼崎
午前のうち
午前のうち、という曖昧な約束が、いまではいちばん現実に即していた。時間ぴったりの到着を前提に組むより、午前のうち、灯りが落ちる前、風が強くなる前、といった幅のある言い方の方が、むしろ人を待たせない。
B-4の倉庫の半分開いたシャッターから、中の火が見えた。
暖を取るための火だった。燃料の臭いではなく、紙と油の混じった焦げた匂いが外まで流れてくる。
中には四人いた。
ひとりはドラム缶の火の前でしゃがみ、手をこすっている。ひとりは奥で発電機のカバーを開け、うなるエンジンの横で何かを叩いていた。もうひとりが、佐伯の入ってきた気配に顔を上げる。
「沼崎さん?」
そう訊くと、男は顎で奥を示した。
「今はあっち。あんた、田辺のとこか」
声を出した拍子に、火のそばの紙束が一枚、ふわりとめくれた。
佐伯は最初、それを伝票か何かだと思った。近づいて見ると、厚手の紙に顔写真が並んでいる。氏名。住所。生年月日。免許番号。拡大された証明写真の目だけが、火に照らされて一瞬ぬらりとした。
しゃがんでいた若い男は、それを二つに裂く前に、顔写真の面を内側へ折った。それからドラム缶へ放り込む。
癖なのか、何かの作法なのか、本人も考えたことのなさそうな手つきだった。
紙はすぐには燃えず、端から丸まって、写真の口元だけを残したまま黒く縮んだ。
「それ」
佐伯が思わず口にすると、男は肩をすくめた。
「湿ってると、火つき悪いんすよ。インクも変な匂いするし」
佐伯は返事をしなかった。
変な匂いがするのは、たぶんインクのせいだけではなかった。
倉庫の奥、積み上げたコンテナ脇の折り畳み椅子に、ひとりの男が座っていた。
痩せていた。年齢は四十を少し過ぎたくらいに見えるが、頬のこけ方のせいでもっと上にも見える。襟の高い黒い防寒着は、かつてはかなり高価だっただろうが、肘と袖口が白く擦れていた。首から細い紐で、小さな黒いデバイスをいくつも提げている。USBメモリにも見えるし、鍵にも見える。
「田辺の紹介なら、座ればいい」
男はそう言った。
声は静かで、倉庫のざらついた空気の中で、そこだけ浮いて聞こえた。
「沼崎さんですか」
「いや」
男は少しだけ笑った。
「そっちは名義だ。俺は九条」
その名前を、佐伯は知っていたわけではない。
ただ、周囲の空気がわずかに止まった。発電機をいじっていた男が一瞬だけ顔を上げ、すぐ戻した。その程度の、控えめな反応だった。だが知らない名前ではないのだと、それで十分に分かった。
九条は火の方を見た。
若い男が、今度は紙の束をまとめて抱え、縁を叩いて揃えている。まるで古新聞でも処分するような手つきだった。
「寒いだろ」
九条が言った。
「そこらの板切れより、紙の方がまだよく燃える。密度があるからな」
「紙っていうより」
佐伯はドラム缶の中を見た。
「データだろ、それ」
九条は肩を引いた。
「印刷した時点で、もうただの紙だ」
その言い方には、投げやりさと、妙に正確な響きが同時にあった。
佐伯は折り畳み椅子を引かず、そのまま立っていた。
「暖房機の点火制御を探してる。旧型だ。学習室で使ってる。田辺から話は行ってるはずだ」
「行ってる」
九条は頷いた。
「あるにはある。だが今は順番待ちだ。発電が安定してるうちに、こっちも在庫の照合をしたい」
在庫、という言葉に、佐伯は小さく苦笑しかけた。
この倉庫のどこに、まともな在庫管理があるというのか。だが九条の前にあるのはノートPCではなく、小型の端末と紙束だった。端末の横には手書きの表があり、部品番号らしい数字が鉛筆で並んでいる。こんな男ですら、最後は紙を使うのか、と佐伯は思った。
九条はその視線に気づいたようだった。
「笑いたいなら笑えばいい」
彼は首から下げた黒いデバイスの一つを指で弾いた。
「ここに、百億ドル以上ある」
佐伯は眉を上げた。
「何が」
「残高だよ」
九条はあっさり言った。
「ビットコイン。モネロ。いくつかは自分で掘った分じゃない。預かりも、巻き上げた分もある」
若い男が、火に手をかざしたまま笑った。
「でもパン一個にもなんない」
九条はそちらを見もしなかった。
「パン一個にもならない。缶詰一つにも、軽油一リットルにもな」
倉庫の天井で風が鳴った。
シャッターの隙間から入る光が、九条の頬の影を少しだけ動かす。
「残高が消えたわけじゃない」
九条は続けた。
「秘密鍵もある。台帳もどこかでは生きてる。計算の上ではな。だが、計算を社会へ戻す網が死んでる。照合する相手がいない。決済先もいない。受け取って意味があると思う人間がいない。つまり、価値の方が先に逃げた」
佐伯は火の中の紙を見た。
証明写真の額が黒く焦げ、氏名欄が縮れ、住所の一部だけが赤く縁取られて消えていく。
「それも、昔は金になったのか」
「昔?」
九条は薄く笑った。
「五年前を昔って呼ぶならな」
「今は燃やしてる」
「今は暖を取ってる」
九条は言い直した。
「正確には、暖を取るしか使い道がない」
若い男がまた紙束をちぎる。
今度は金融機関の照合票のようだった。口座番号、名寄せ情報、住所変更履歴。人ひとりを追い詰めるには十分だった種類の情報が、火の前では乾きにくい紙という以上の意味を持っていなかった。
九条はドラム缶の火を見つめたまま、低く言った。
「寄生虫が宿主を食い殺せば、一緒に死ぬのは当たり前だ」
倉庫の中で、発電機だけがうなり続けていた。
誰もすぐには返事をしない。
「世界が正常に回ってること」
九条は黒いデバイスを指先で回した。
「それ自体が、泥棒の商売の前提だった。銀行がある。配送網がある。本人確認が通る。奪った数字を換える市場がある。脅した相手が、明日も会社として存在してる。全部、宿主の血だ」
「で、お前はそれを食い潰した」
九条はそこで初めて、佐伯の顔を正面から見た。
目だけが妙に若かった。疲れてはいても、鈍ってはいない目だった。
「俺だけじゃない」
彼は言った。
「だが、俺もその一人だ」
その認め方は潔いようでいて、謝罪には遠かった。
自分の理屈をまだ捨てていない人間の認め方だった。
「後悔してるのか」
佐伯は訊いた。
なぜそんなことを訊いたのか、自分でもよく分からなかった。
九条は少し黙った。
火が紙を食う音がした。ぱち、と小さく鳴る。
「後悔って言葉は、まだ自分に選びようがあった時に使う」
彼は言った。
「俺たちはたぶん、選んだというより、加速しただけだ。穴があるから通った。通れるから広げた。楽な方へ行った。人間はそうする」
持論というより、もう信仰に近い響きだった。
「昔、セキュリティの自動化モデルを組んでた頃から分かってたことだ。攻撃側も防御側も関係ない。人間を信用して作ったプロトコルから順に穴が開く。だから全部、機械に任せて人間を判断から外そうとした。……そしたら、このざまだ。人間は、必ず楽な方へ間違える」
佐伯は、その言葉を否定しきれなかった。
自分の胸のどこかに、それを知っている部分がある。急ぎの案件。あとで確認するつもり。流れを止めないための省略。そういう小さな楽の積み重ねで、自分もここまで来たのではなかったか。
だが、それと目の前の男を同じ場所へ置きたくはなかった。
「だからって、全部壊していい理由にはならないだろ」
九条は笑わなかった。
「誰も“全部壊す”つもりで始めたわけじゃない」
彼は首元のデバイスをまとめて握った。
「自分の取り分を増やす。相手の確認を遅らせる。責任を先送りさせる。そういう小さな成功が積み上がって、最後に土台の方がもたなくなる」
奥から、さっきの若い男が声を張った。
「九条さん、紙切れそうっす。次どうします?」
九条は目を動かさずに言った。
「帳票類の束、まだあっただろ。顔写真つきのやつは後回しにしろ。インクが臭う」
若い男は「はい」と答えて、別の段ボールを引きずってきた。
側面には何かの会社名が印字されていたが、上から黒く塗りつぶされている。箱の中には、印刷された会員データや、照合作業用の出力紙がぎっしり詰まっていた。
それを見て、佐伯は急に寒くなった。
外気のせいではない。こんなものが、ついこのあいだまで世界の裏側で金と脅しの種になっていたのだと思うと、その軽さが恐ろしかった。
九条はようやく立ち上がった。
痩せた体なのに、立つと背が高く見える。
「部品は出す」
彼は言った。
「ただし現金は要らない。もう意味が薄い」
「何がいる」
「塩」
九条は即答した。
「できれば精製度の高いのを二袋。あと乾電池。単三ならなおいい」
倉庫の塩は、今朝の時点で二袋半だった。二袋渡せば、氷に振る分は半袋しか残らない。
学習室の火か、倉庫の冷えか。
佐伯は一瞬、結衣の書いた言葉を思い出しかけて、すぐ胸の奥へ押し戻した。
こんな場所でつながってほしい言葉ではなかった。
「用意できるかは分からない」
「分からなくていい」
九条はまた椅子へ座った。
「いま残ってる商売は、だいたい“分からない”でできてる」
交渉はそれで終わりに近かった。
実際の受け渡しは沼崎という名義の男が引き取るらしく、紙に書いた部品番号と交換条件を佐伯へ渡した。鉛筆の字は読みやすかった。最後に九条は、それを見て小さく言った。
「結局、紙がいちばん強いんだよ」
「燃えるのにか」
「燃えるからだ」
九条はドラム缶を見た。
「消える時も、自分の目で見える」
佐伯はその言葉に返事をしなかった。
倉庫を出ると、海風がさっきより強くなっていた。
背後ではまだ発電機が唸り、シャッターの隙間からドラム缶の火がちらついている。あの中では、誰かの住所や顔や口座の履歴が、いまも灰に変わっているのだろう。そして九条の首から下がる黒い小さな鍵の中には、使い道を失った巨額の数字が、冷たいまま眠っている。
歩きながら、佐伯は胸ポケットの中の紙片を確かめた。
制御部品の番号。交換条件。手で書かれた、まだ使える情報。
風は冷たかった。
それでも彼は、さっきドラム缶で燃えていた紙の束より、自分のポケットの中の薄い紙の方がずっと重い気がした。




