第4章B 親切は権限逸脱として記録される 幕間 II 14秒前
第4章B
親切は権限逸脱として記録される
その日の午前、オフィスはいつもよりさらに静かだった。
静かというより、個々の音がよく管理されていた。椅子の移動音は床に吸われ、会話は一定以上の高さにならず、卓上の透明面に浮かぶ表示も必要最小限の明度に抑えられている。誰かが咳をしても、それが空間全体へ広がる前に、空調の流れがそっと持ち去っていくようだった。
佐伯は午前の確認項目をひとつずつ処理しながら、二つ隣の席を気にしていた。
若手の篠崎が、朝から明らかに遅かった。
表示を読む視線の動きが鈍い。指先が卓上の透明面へ届くまでに、一拍ぶん迷う。顔色も悪い。熱があるのかもしれないし、昨夜から睡眠が足りていないだけかもしれない。いずれにせよ、ここではそのどちらも「平常からの逸脱」として同じ場所へ記録される。
篠崎の左手首のリングは緑のままだった。
ただ、その緑がどこか頼りなく見えるのは、佐伯の気のせいではないだろう。
右隣の三浦も、それに気づいていたはずだった。
三浦は四十前後、声も動きも必要以上に大きくしない男で、こういう環境の中ではむしろ古風に見える種類の社員だった。忙しいときでも、人にものを頼む前に一度自分で手を動かす。困っている相手を見ると、考えるより先に「それ、やっとくよ」と言ってしまう。いまでは少し珍しい癖だった。
篠崎の透明面に、未処理の通知が三つ並んだ。
ひとつ消え、またひとつ増える。
三浦がそちらを見て、小さく息を吐いた。
「篠崎くん」
声は抑えていたが、オフィスの静けさの中では十分に届いた。
篠崎が顔を上げる。
「その二件、まだ?」
「あ、はい……すみません。照合が、ちょっと」
篠崎は言いながら、自分の言葉が言い訳に聞こえることを気にしている顔をした。
三浦は苦笑に近い、やわらかい表情をつくった。
「いいよ。関連の方、俺が先に開いとく」
それ自体は、ほんの些細な申し出だった。
五年前なら、いや、もっと最近の感覚でさえ、何の問題もないやりとりに聞こえたはずだ。体調の悪い部下や後輩を見て、横の席の先輩が少し手を貸す。職場の助け合いとしては、ごく自然な部類だった。
三浦は自席の透明面を呼び出し、篠崎案件に紐づく共有フォルダへアクセスしようとした。
その瞬間、何かが起きたことに、音は使われなかった。
三浦のリングが、緑から赤へ変わる。
変化は静かで、あまりにも速かった。
最初からそういう色だったかのように見えるほど、滑らかだった。
透明面の中央に、白地の穏やかな表示が浮かぶ。
安全確保のため、現在の操作を一時保留しました。
職務権限外の関連領域への接続が検出されています。
お客様および従業員の安全を守るため、本日のアクセス権限を一時的に保護いたします。
産業医・セキュリティ相談窓口へお進みください。
文面には、責める響きがどこにもなかった。
違反、処分、排除。そうした言葉は一つもない。あるのは、安全、保護、相談。
それでも、その場にいた全員が、いま三浦の業務上の存在が切り離されたのだと理解した。
篠崎が真っ青になった。
「すみません」と、彼は反射的に言った。誰に向かってなのか、自分でも分かっていない声音だった。
三浦は一拍遅れて、自分の手首を見た。
それから、小さく眉を上げる。怒りではなく、恥じるような表情だった。
「あ、悪い」
彼は声を低くして言った。
「ちょっと焦って、余計なことしたね」
余計なこと。
佐伯の胸の奥で、その言い方が小さく引っかかった。
三浦がやろうとしたのは、余計なことだったのか。たしかに規程上はそうかもしれない。本人の権限外、本人の業務プロファイル外、平時の行動履歴外。言い換えれば、異常だった。
だが、それを異常と呼び切ってしまえば、人間が人間に手を貸す動きは、どこに残るのだろう。
誰も何も言わなかった。
責める声も、庇う声も、慰める声も上がらない。
フロアの空調音だけが、さっきと同じ強さで流れていた。
三浦の透明面から、開いていた業務表示がひとつずつ消えた。
会議予定。照合一覧。回覧中の文書。
それらは、水面から文字が沈んでいくように、静かに引いていった。
通路の先にある壁面表示へ、控えめな案内が出る。
三浦様、相談窓口は東ブロック3です。
足元にご注意のうえ、お進みください。
親切だった。
あまりに親切で、何も言えなくなる種類の表示だった。
三浦は立ち上がった。
椅子を引く音さえ、今日の空調はきれいに吸ってしまう。
「悪い、すぐ戻ると思うから」
と、彼は篠崎へ向けて言った。
それは慰める側の台詞のままなのに、もう本人には何も処理権限が残っていない。
篠崎は立ち上がりかけて、やめた。
「自分でやります」と言おうとしたのかもしれない。だがその言葉を差し出せば、自分まで事態に結びつけられる気がしたのだろう。彼は唇を閉じ、視線を自分の透明面へ落とした。
佐伯の足も、一歩だけ出かかった。
三浦さん。
その一言くらい、かけてよかったはずだった。
相談窓口まで一緒に行く必要はない。ただ声をかけるだけなら、まだ逸脱ではないかもしれない。少なくとも、そう信じることはできた。
だがその瞬間、机の縁に置いた自分の左手が目に入る。
リングは緑だった。
朝の一瞬の黄色を、佐伯はまだ忘れていない。
ここで関わることは、どう見えるだろう。
連鎖的逸脱。情動介入。業務外接触。
そうした語が、実際に表示される前から頭の中へ流れ込む。
三浦はもう歩き出していた。
背中はまっすぐで、速すぎず遅すぎず、案内に従う模範的な速度だった。
その歩き方が、佐伯の足を止めた。
抵抗していない背中に、かける言葉は見つからなかった。
結局、佐伯は何も言わなかった。
三浦が東ブロックへ曲がるところで、フロアの誰かが一瞬だけ顔を上げ、すぐに戻した。
それだけだった。
出来事は、出来事として共有される前に、各人の作業ノイズの中へ薄められていく。
数秒後、篠崎の透明面へ新しい補助表示が現れた。
現在の業務負荷を再配分しています。
無理のない範囲で、順にご対応ください。
篠崎はその文面を見て、小さく頷いた。
頷くしかない、というより、それに従う以外の感情表現をもう持たされていないような頷き方だった。
佐伯は視線を前へ戻した。
卓上には何も置かれていない。
紙も、鉛筆も、赤い印もない。
あるのは透明な面と、整えられた光と、記録される前提で抑えられた呼吸だけだった。
右隣の三浦の席は、すでにひどく片づいて見えた。
実際には何も変わっていない。椅子も机も、そのままそこにある。
ただ、さっきまで人の気配を支えていた情報だけが引き上げられたせいで、席そのものが薄くなったように見える。
佐伯はその空白を見た。
見ながら、見ている自分まで記録されている気がした。
だから結局、その視線も長くは置けなかった。
彼は卓上の通知をひとつ開いた。
透明面に、今日の進捗確認が淡く浮かぶ。
その下で、リングは変わらず緑のままだった。
それが、いまの自分の正しさを証明しているようには、どうしても思えなかった。
幕間 II
14秒前
10:14:46
会議招待のプレビューに、役員の顔写真が小さく出ている。
カーソルを寄せると、埋め込みの音声がわずかに漏れた。
「佐伯さん、急いでください。時間がありません」
言葉と言葉のあいだが、均一すぎる。急いで録った音声ならこういうものかもしれない、と片づけられる程度の違和感だった。
佐伯はスマホを持ち上げた。
留守電通知の下に、メッセージが一件。
あんたじゃないって言って
句読点がない。母にしては短すぎる。
あんたじゃない。なら、誰が。
言って。誰に。
10:14:48
確認する。止める。別の線で確かめる。
正しいかもしれない。だが、余計な動きにも見える。
余計なこと。
その言葉が、ふいに、知らない場所から返ってきた。
――あ、悪い。ちょっと焦って、余計なことしたね。
男の声だった。怒っていない、恥じるような声。
誰の声なのか、佐伯には分からなかった。分からないのに、その声のあとで椅子が静かに引かれ、ひとつの席がゆっくり薄くなっていく感じだけが、胸の奥に残っている。聞いた覚えはない。覚えはないのに、忘れられない種類の音だった。
佐伯は一度、まばたきをした。
オフィスの白い光は変わらない。複合機の音も、遠くの笑い声も、さっきと同じ場所にある。
10:14:50
声は、もう一つあった。
こちらは知っている声だった。少しだけ大人びた、けれど間違えようのない娘の声。
――ほんとの声でも、こわいときあるよね。
――声だけじゃなくて、もう一個あった方がいい。
結衣は、まだそんな話し方をしない。昨夜の結衣は、付箋を貼って得意そうに笑っていただけだ。それなのにその声は、何年ぶんかの背丈を持って、耳のすぐ横にいた。
10:14:51
ほんの一拍だけ、佐伯は会議招待からカーソルを外した。
それはまだ決断ではなかった。
流れに身を渡しきる前に、人が無意識にする最後のためらいに近かった。




