幕間 I 21秒前 第3章A 紙の地図、子どもの合言葉
幕間 I
21秒前
10:14:39
右下の時計だけが、誰の都合も待たずに削れていく。
同じ文を、どこかで一度読んだ気がした。
読んだのではない。通った、の方が近い。一度歩いた廊下を、灯りの具合だけ違えて、もう一度歩かされているような感じだった。だがそれを確かめる暇は、二十一秒の中にはない。
まだ来ていないものが、もう背中の側に並んでいる。その気配だけがあった。
机の左端で、私用スマホがまだ震えている。
母。
佐伯は手を伸ばしかけ、やめた。やめる理由は、もう指の方が知っていた。
着信が留守番電話に切り替わる。
「――あんた、今、出られないの」
一拍の無音。
「事故に遭ったって、本当なの」
画面の中央には、役員名義のメールが開いたままだった。
【至急】送金処理の最終確認。
まず会議に入り、その場で指示します。
見覚えのある文面だった。
急ぎの案件。まず入れ。細かい確認はあとだ。説明は走りながら足せばいい。
真鍋の声は、実際に聞こえたのではなかった。思い出すのに音量を必要としない種類の言葉がある。
――止めるな。
――確認はあとで足せる。
――間に合わせろ。
入社してから何年もかけて、それは外から浴びる指示ではなく、自分の中で先に鳴る反射になっていた。急ぎのものを前にすると、身体の方が先に従順になる。
10:14:43
社内チャットが光る。
真鍋:先方待たせてる。今すぐ。
画面の脇に、内線電話の受話器があった。
灰色の、古い型だ。社内IP電話が不調のときのために残してある。受話器を上げて、真鍋の席へ直接かける。それだけで済むかもしれない話だった。
佐伯の視線は一度そこへ落ちて、戻った。
手間。
確認の手間。説明の手間。何でもなかった場合の、気まずい手間。急いでいる相手を止める手間。
人は大きな悪より先に、たいてい小さな手間を避ける。
10:14:45
まだ何も起きていない。
起きていないものを止めるには、止める理由を自分で作らなければならない。
第3章A
紙の地図、子どもの合言葉
倉庫を出る前に、佐伯は三度、壁の時計を見た。
一度目は、午前便の伝票を田辺へ渡したあと。
二度目は、氷の残りを確認して、午後の保冷順を簡単に書きつけたあと。
三度目は、自分でももう見たところで時刻が変わるだけだと分かっていながら、それでも目を上げてしまったときだった。
十一時六分。
まだ少し早い。
早いが、早いからこそ出る意味があった。途中で信号が落ちるかもしれないし、交差点で配送車が立ち往生しているかもしれない。今日の南町の学習室は十一時三十分まで。結衣には、終わったら建物の裏手ではなく表通りの掲示板の脇で待つよう、今朝の電話で学習室へ伝えてある。結衣本人にまで伝わったかどうかは分からない。だから昨日のうちに、紙の地図にも赤鉛筆で丸をつけて渡しておいた。
「もう行くんですか」
若い作業員が、半分驚いたような声で言った。
その口ぶりに責める色はなかった。以前なら、ここで先に出ていくのは自分ではなく、仕事の方だった。
「行く」
佐伯はクリップボードを田辺へ渡した。
「二列目の薬品原料、温度だけ一時間ごとに見てくれ。落ちたらすぐ切り替える。午後は結衣も連れてくる」
田辺は受け取って、佐伯の顔と時計を見比べもせずに頷いた。
「結衣ちゃんか」
「うん」
「じゃあ、行った方がいい。机、空けとく」
それだけだった。余計なことは言わない。その短さが、佐伯にはありがたかった。倉庫では誰もが、いま何を優先すべきかを、いちいち言葉にしなくなって久しい。電気が保つか、品物が保つか、道が保つか、人の約束が保つか。どれもいつ崩れるか分からない世界では、守れるものから守るしかない。
外へ出ると、冬の空気は倉庫の薄い冷え方よりずっと正直だった。
頬に当たる風は乾いていて、鼻の奥が少し痛い。路肩には灰色がかった雪の名残が寄せられ、排水溝のそばだけが黒く濡れている。
佐伯は胸ポケットから折り畳んだ紙を出した。
コピー用紙を四つ折りにしただけの簡単な地図だった。南町学習室から、今日の待ち合わせ場所まで。途中の角に、赤鉛筆で丸が三つ。ひとつは「この信号が死んでいたら右へ」、ひとつは「店が閉まっていたら掲示板前へ」、もうひとつが最終地点。結衣の字で、小さく「パパはここ」と書き足されている。
佐伯は親指でその文字を一度なぞってから、紙をしまった。
表通りの人の流れは、昔のような足早さではなかった。急いでも、急げば届くとは限らないことを、皆もう知っている。信号機は生きているものと死んでいるものが交互に混ざっていて、点いている交差点でも、人はまず左右を見てから渡る。
駅前の大型掲示板には、自治体の回覧、配給時刻、診療所の臨時休診、迷い人の特徴、落とし物、それから「音声による呼び出しに注意」という赤字の張り紙が並んでいた。拡声器で名前を呼ばれても、すぐについて行かないこと。必ず建物の中の職員か、紙の確認札で照合すること。子どもを迎える保護者は、なるべく同じ場所、同じ時刻、同じ声かけを使うこと。
どれも当たり前のようでいて、五年前には考えもしなかった注意書きばかりだった。
商店街では、魚屋の前で手回しの砕氷機が鳴っていた。パン屋のシャッターは半分だけ上がり、奥で店主が発電機を蹴っている。世界は終わっていない。だが、何ひとつ決められた通りには動かない。
南町学習室は、もともと公民館だった建物を使っている。玄関のガラス戸は片側しか開かず、もう片方には「押すな」の紙が二枚、上下に貼ってある。入口脇の黒板には、その日の終了時刻と担当者名、それに「保護者確認済」の欄がチョークで書かれていた。結衣の名前の横にはまだ印がない。
佐伯が着いたのは十一時二十二分だった。
早い、と彼は思った。
そして、その「早い」が自分に向けられていることに、少し戸惑った。
昔なら、まだ会議を切り上げられず、あるいはメールを一本返し、あるいは上司の机の前で「すみません、五分だけ」と言い、十一時三十五分を過ぎたあたりで息を切らしていたはずだ。結衣は待っていた。待ちながら、顔には出さないようにしていた。佐伯が来たとき、「べつに」と言う練習だけがうまくなっていった。
ガラス戸の向こうから、子どもたちがぞろぞろ出てきた。厚手の上着、色の違う手袋、手作りの名札、首から下げた連絡札。昔の学校帰りと違うのは、誰もすぐには散らないことだった。迎えに来た大人の顔を探し、先生の持つ紙束に名前を照らし合わせる。親子であっても、会えればそれで終わりというわけではない。
結衣は最後から三番目くらいに出てきた。
紺色のコートの上からマフラーを二重に巻き、赤い手袋を片方だけ外して、何かを胸の前で持っている。佐伯を見つけると、ぱっと走り寄るほど幼くはなく、それでも足取りが少しだけ速くなった。
「早かったね」
言葉の形は軽かった。だが、佐伯にはその一言が思ったより深く入った。
早かったね。
ちゃんと来たね、ではなく。遅れなかったね、でもなく。責めず、驚きだけを小さく置く言い方だった。
「今日はこっちが早く終わった」
佐伯はそう答えてから、それが少し違うと自分で分かった。
「……いや、違うな。早めに出た」
結衣は一瞬だけ父の顔を見て、それから小さく頷いた。
「うん」
その「うん」の中に、子ども特有の見逃しと記憶の両方があるのを、佐伯は知っている。全部を追及はしない。だが、忘れてもいない。
「待ったか」
「まだ。三分くらい」
結衣は胸の前の紙を見せた。
「先生に、先に外出ないでって言われてたから」
紙は今日の帰宅確認票だった。氏名欄の横に、迎え予定者、時刻、変更時の待機場所が書いてある。右上に、結衣が赤鉛筆で自分なりの印をつけていた。丸ではなく、少し歪んだ星印だった。
「その印、何」
「丸だと他の人と同じになるから」
結衣は当然のように言った。
「わたしのだって分かるように」
佐伯は苦笑しかけて、やめた。
学習室の職員が出てきて、佐伯に会釈した。三十代くらいの女性で、今朝電話に出た声の人だった。
「佐伯さん、今日は早めで助かりました」
彼女は名簿に鉛筆で印をつけながら言った。
「このあと、南側の通りの給電が少し怪しいって連絡が入ってます。横断歩道の音声、また止まるかもしれないので」
「分かりました」
「あと」
彼女は声を少し落とした。
「昨日、うちの子で一人、あったんです。迎えに来たっていう声で、外まで出ちゃった子が」
佐伯は結衣の肩へ、反射的に視線を落とした。結衣はもうその話を知っている顔だった。知っているどころか、その子の顔まで知っている顔だった。
「本当に連れて行かれたわけじゃないんですけどね。掲示板の前で気づいた人がいて」
職員は紙をめくりながら続けた。
「でも、かなり似てたって。お父さんの声に」
声に。
その二文字が、冬の空気より冷たく胸へ入った。
「録音だったんですか」
佐伯は訊いた。
「そこまでは分からないです。ただ、遠くから名前を呼ばれて、振り向いてしまったって」
彼女は疲れた顔で微笑むような表情をした。
「それで今日から、お迎えの方の顔を確かめるまで、子どもは中で待たせてるんです。外の掲示板で待ち合わせのご家庭には、申し訳ないんですけど。あと最近、子どもたちに合図を決めといてねって言ってるんです。紙でも、言葉でも」
結衣がすぐ横で言った。
「ね」
佐伯は娘を見た。
「何が」
「だから、うちもちゃんと決めようって言ってたじゃん」
言われていた。三日前の夜にも。
あとでな、と答えたのは自分だった。
職員は二人のあいだを見て、少しだけ笑った。
「難しいのじゃなくていいんですよ。子どもが覚えられて、ふつうの呼びかけに混ざらないやつなら」
学習室を出ると、結衣は父の歩幅に合わせて歩いた。小さい頃みたいに手はつながない。だが、歩道の端がぬかるんでいるときだけ、靴先で父の足跡を踏むようについてくる。そういう癖は、まだ残っていた。
南町の掲示板を過ぎたところで、信号が一度消え、車の列がゆっくり止まった。誰も苛立ったクラクションを鳴らさない。代わりに近くの駐在所から、蓄電の残っているスピーカーで「左右を確認して横断してください」という案内が流れる。声は人間のものらしかったが、いまではそれだけでは足りない。案内板の下に同じ文面が紙で貼られていて、そこでようやく人は少し安心する。
「みっちゃんね」
結衣が前を向いたまま言った。
「パパの声だと思ったんだって。ほんとのパパの声と、どこもちがわなかったって」
佐伯は娘の横顔を見た。
マフラーに顎を埋めて、結衣はしばらく黙って歩いた。
「ほんとの声でも、こわいときあるよね」
佐伯はすぐには答えられなかった。
結衣の言葉は、たいていいちど小さく、あとから広がる。
「だって、似てる声だったら、本物でも偽物でも、振り向いちゃうじゃん」
結衣は手袋を外した右手で、マフラーの端を直した。
「だから、声だけじゃなくて、もう一個あった方がいい」
もう一個。
紙でも、言葉でも。
「何にする」
自分の口からその言葉が出たことに、佐伯は少し驚いた。
結衣も驚いた顔をした。父がいつものように「あとでな」と流さなかったからだろう。けれど次の瞬間には、目が少しだけ明るくなる。
「決めていいの」
「いい」
「ほんとに?」
「ほんとに」
結衣はしばらく歩きながら考えるふりをした。考えるふり、というのは、たぶん答えをもう持っているときにする歩き方だ。少し顎を引いて、でも足は止めない。
「“月に塩”」
彼女は言った。
「前の、あれ」
佐伯は思わず息で笑った。
「まだそれなのか」
「だって変だから、忘れないし」
結衣は真面目な顔で言う。
「知らない人は言わないし、ふつうの話の中には出てこないし。あと、書いても短い」
最後の理由が妙に実用的で、佐伯はまた笑いそうになった。
笑いかけて、止まった。
五年前の青い付箋。こまったら つきに しお。
あの朝、画面の縁に貼ったまま、剥がさなかった。夕方には社内が騒がしくなり、翌週には机ごと片づけられた。付箋がどこへ行ったのか、佐伯は知らない。
「よく覚えてたな」
「だって、書いたのわたしだもん」
結衣はそれだけ言って、前を向いた。
責める調子はどこにもなかった。なくした方と、覚えていた方がいる。それだけのことだった。
「じゃあ、どう使うんだ」
佐伯は訊いた。
「たとえば、迎えに来た人がいても?」
結衣はすぐ答えた。
「わたしが先に言うの。“月に”って。そしたら、ほんとの人は“塩”って言う」
少し間を置いて、付け足す。
「逆でもいいけど」
「逆でもいいのかよ」
「そこは紙に書いとけばいいでしょ」
結衣は父を見る。
「パパ、そういうの、すぐ適当にするから」
佐伯は返事に詰まった。
すぐ適当にする。
責める調子ではなかった。事実として置かれただけだった。だから余計に痛かった。
「……しないようにする」
ようやく言うと、結衣は「うん」とだけ答えた。
その「うん」は、信用しきってはいないが、もう一度預けてみてもいい、という程度の重さに聞こえた。
二人は小さな文房具屋の前で立ち止まった。店先に、赤鉛筆が数本、輪ゴムで束ねてぶら下がっている。シャッターは半分下りていたが、店主は中にいて、今日はあと三十分なら開けるよと奥から声をかけてきた。結衣が振り向く。
「買う?」
「あるだろ、家に」
「でも短くなってた」
結衣は少し迷ってから、
「地図に丸つけるの、赤の方が分かりやすいし」
佐伯は店の奥を見た。薄暗い棚、ガラスケース、手書きの値札。昔より品数は減ったのに、昔より必要なものがはっきりしているように見えた。
「一本だけにしろ」
「二本」
「なんで」
「一本なくすから」
それはあまりにもっともで、佐伯は反論できなかった。
結衣が選んだのは、少し軸の太い赤鉛筆だった。レジの横で、店主が短く削ってくれる。木の匂いがした。結衣は受け取ると、すぐに胸ポケットから小さな紙片を出し、その場で何か書き込んだ。
「何書いた」
「内緒」
と言ってから、少しだけ得意そうに見せる。
そこには、手袋を外したばかりの、かじかんだ字でこうあった。
月に/塩
その下に、赤い星印がひとつ。
「忘れたら困るから」
結衣は紙を半分に折った。
「わたしの分と、パパの分」
佐伯はその小さな紙を受け取った。
紙は体温をすぐに持っていく。たったそれだけの薄さなのに、受け取ったという感じが、画面の文字よりよほど残る。彼は胸ポケットにしまいかけて、やめた。財布の内側へ入れる。落とさない場所に。
「そんな大事な顔しなくていいよ」
結衣が言った。
「合図だよ、ただの」
ただの合図。
ただの、という言い方の中に、子どもらしい軽さと、大人が取り落としがちな重さが一緒にあった。
倉庫へ戻る道の手前で、また信号が落ちた。
車も人も自然に止まり、誰かが先に左右を見て、渡っていいと小さく声をかける。見知らぬ人の声だ。だがすぐ隣で、結衣が自分の袖を軽く引く感触の方を、佐伯は先に信じた。
「パパ」
「ん」
「明日も、今日と同じ場所でいい?」
「いい」
「じゃあ、地図、今日のうちに書いといて」
「分かった」
「あと、迎えの時間も」
「分かった」
二度目の返事で、結衣は少しだけ目を細めた。
その顔は笑いかけにも見えたし、まだ様子を見ているようにも見えた。
通りの先から、午後の風が吹いてくる。
壊れかけた街路灯の柱に、紙の掲示が何枚も揺れていた。給電予定。診療時間。落とし物。臨時休校。どれも人の字で直され、貼り足され、重ねられている。その町の頼りなさと、同時に、その頼りなさを引き受けている手の数が見える。
佐伯は胸の内側で、財布の角と、折った紙の感触をたしかめた。
倉庫の門が見えるころ、結衣がふと思い出したように言った。
「ねえ、もしわたしが先に“塩”って言ったら、パパは?」
佐伯は少し考えてから答えた。
「月だろ」
結衣は満足したように頷いた。
「よし。じゃあ、それでいい」
その「よし」が、父の返事に対してなのか、世界の頼りなさに対してなのか、佐伯には分からなかった。分からないまま、二人は倉庫の門をくぐった。午後は事務机の隅で、田辺の在庫表の余白に、結衣が赤い星をいくつも描くことになる。冬の光は薄く、風は冷たかったが、結衣の赤鉛筆だけが、コートのポケットから小さく鮮やかにはみ出していた。




