第2章B 緑のリング
同じ五年後の冬、オフィスの朝は、明るいというより均質だった。
光は天井から落ちているのではなく、空間そのものに薄く溶けているように見えた。影ができない。柱の根元にも、観葉植物の葉の裏にも、誰かの靴の先にも、暗がりらしい暗がりがない。温度は二十二度に保たれ、湿度も喉に引っかからない程度に整えられている。外ではたしかに冬のはずだったが、自動ドアをくぐった瞬間、その季節だけが置き去りにされる。
佐伯はコートを脱ぎながら、無意識に襟元へ触れた。乾燥も寒さも感じない空気は、それだけで少し落ち着かなかった。倉庫や配送センターへ顔を出していた頃の癖が、まだ身体のどこかに残っているのかもしれない。人のいる場所には、もう少し匂いがあっていいはずだ、と皮膚の方が思っている。
エントランスに、ゲートらしいゲートはない。
床の素材が数メートルだけ変わり、壁際のガラスに見えない線が何本か走っているだけだ。立ち止まる必要はない。社員証も要らない。佐伯はいつもの歩幅でそこを抜ける。
認証は、その数秒で終わる。
歩行リズム。重心移動。眼球運動。皮膚表面温度。心拍の揺れ。
それらは佐伯が意識するより先に読み取られ、本人性と平常性が同時に判定される。佐伯が何者であるかと、佐伯が今日も「いつもの佐伯」であるかは、今ではほとんど同じ意味だった。
左手首のリングが、淡い緑に光る。
通過許可。
平常。
低リスク。
文字はどこにも表示されない。そういう情報は、もう画面に出すまでもないとされていた。必要な処理は空間の側で終わる。人間はただ歩けばいい。歩き方さえ、いつも通りであれば。
佐伯が二歩進んだところで、リングの色が一瞬だけ揺れた。
緑が薄く黄へ傾き、すぐ戻る。
ほんの一拍。見落としてもおかしくない短さだった。
それでも、背中の内側へ細いものが差し込まれたように感じた。
足を止めるな、とまず思う。
振り返るな、と次に思う。
異常を意識したときの呼吸の浅さまで読まれる気がして、佐伯はできるだけ自然に肩の力を抜いた。
近くを歩いていた二人の社員のうち、一人がわずかに視線を動かした。リングを見たのだと佐伯には分かった。だがその男は何も言わず、目礼すらせず、そのまままっすぐ前を向いて通り過ぎる。もう一人は、最初から何も見ていなかったように歩幅を変えない。
誰も他人の異常に触れたがらない。
親切でも、好奇心でも、慰めでもない。
ただ、近づきたくないのだ。黄色は、まだ赤ではない。だが、赤へ続く可能性として十分だった。
エレベーターの前で、佐伯は自分の脈を数えないようにした。数えれば、その意識がまた揺れになる気がした。代わりに正面のガラスを見る。そこには自分の姿が、ごく普通の会社員として映っている。濃紺のスーツ、控えめなネクタイ、整えすぎない髪、寝不足にも見えない顔。少なくとも外見上は、何も乱れていない。
エレベーターの扉が開く。
中には三人いたが、誰も壁の表示を見ていなかった。表示そのものがない。乗員数も行先も、乗った瞬間に割り振られる。会議予定、職務権限、その朝の認知負荷、接触制限、すべてを含めて、最適化された移動経路が各人へ見えない形で配布される。人はただ、止まらずに乗り、黙って降りればいい。
佐伯はふと、五年前には毎朝のように誰かがボタンの前で譲り合っていたことを思い出した。開くを押す、先どうぞと言う、何階ですかと訊く。無駄な会話といえば、そうだったかもしれない。いま同じことをしても、過剰接触として記録されるわけではないだろう。そこまで露骨ではない。ただ、する理由が消えたのだ。する必要が、先に最適化されてしまった。
執務フロアは静かだった。
静かというより、音が角を丸められていた。靴音は吸われ、会話は低く均され、空調の気配すら背景へ溶けている。机は並んでいるが、紙は一枚も見当たらない。端末らしい端末も、昔のようには置かれていなかった。必要な資料は、着席した人間の視線移動と発話権限に応じて、卓上の透明面へ淡く立ち上がる。触れれば消え、離れれば痕跡を残さず引く。
ただし、痕跡が残っていないように見えるだけで、実際には何もかもが残っている。
佐伯が席に近づくと、机の縁が薄く発光した。
本人着席認識。
同時に、今日の体調傾向、予定会議の認知負荷、推奨カフェイン摂取量、昼休憩の最適時刻が、視線の片隅へ静かに滲む。読まなくても処理は進む。読んだかどうかも、たぶん記録されている。
彼は椅子に座り、左手首をさりげなく机の陰へ置いた。
リングは、いまは安定した緑だった。
それでも、さっきの黄が消えない。
睡眠が浅かったせいか。
今朝、登校前の結衣が端末を見つめながら言った「今週、共感パルスが0.2下がっちゃった。どうしよう」という、あの怯えた顔を思い出したせいか。
考えた瞬間、その思考がまた身体へ跳ね返りそうで、佐伯はそこで思索を切った。
正面の透明面に、ごく控えめな通知が一行だけ現れる。
おはようございます、佐伯様。
本日の状態は概ね安定しています。
起点時刻に一過性のストレス変動を検知しました。業務開始後3分間、呼吸補助ガイドを推奨します。
文面はどこまでも丁寧だった。
命令ではない。注意でもない。推奨。補助。安定。
そういう言葉だけで、ここまで人を従わせられるのだと、佐伯はときどき感心しそうになる。感心したあとで、その感心自体にうっすら寒気が差す。
右隣の席の女が、無言で着席した。
香水はつけていないはずなのに、清潔な布だけが持つ匂いが一瞬だけした。彼女は佐伯を見なかった。佐伯も見ない。朝の挨拶は不要ではないが、必須でもない。不要と必須のあいだにあるものは、たいてい各人の最適化判断へ委ねられる。そして誰も、その委ねられた自由を、自分から広くは使わない。
少し離れた席で、誰かのリングが淡く明滅した。
緑ではない。黄色でもない。通知だけを受け取るときの白い点滅だった。
その人物は一瞬だけ背筋を正し、次の瞬間には何事もなかったように視線を前へ戻す。
フロアの空気は乱れない。
誰もそちらを見ない。
見たことが、見たという事実として残るのを恐れているというより、むしろ、他人の閾値へ自分の感情を近づけること自体を避けているように見えた。
佐伯はようやく、自分の呼吸が浅くなっているのに気づいた。
透明面の隅で、青い円が静かに膨らみ、縮んでいる。
吸ってください。
吐いてください。
文字はない。ただ円だけが、親切に速度を決める。
彼はその指示に従った。
三回目の呼吸で、リングの緑が少し深くなる。
その変化を、真正面のガラスに映った自分だけが見ていた。
いや、と佐伯は思い直す。
見ていたのは自分だけではない。ここでは、見ているものの数え方そのものが、もう人間の側にはない。
フロアの奥で、柔らかなアナウンスが流れた。
「本日も安全で安定した業務環境の維持にご協力ありがとうございます」
女の声でも男の声でもない、中庸に調整された声音だった。
聞き流せるように、完璧に作られている。
その完璧さが、佐伯に、自分の母の声にあったかすかな掠れを思い出させかけた。
思い出す前に、消す。
消せるうちに、消しておく。
この場所では、その方が今日一日を無事に終えやすい。
佐伯は机の縁に指を置いた。
指先の体温は、適切だった。
姿勢も、脈も、視線の速度も、おそらく許容範囲へ戻っている。
それでも彼は、さっき一瞬だけ黄色になった自分の手首を、しばらく机の下から出せなかった。
幕間 I
21秒前
10:14:39
右下の時計だけが、誰の都合も待たずに削れていく。
同じ文を、どこかで一度読んだ気がした。
読んだのではない。通った、の方が近い。一度歩いた廊下を、灯りの具合だけ違えて、もう一度歩かされているような感じだった。だがそれを確かめる暇は、二十一秒の中にはない。
まだ来ていないものが、もう背中の側に並んでいる。その気配だけがあった。
机の左端で、私用スマホがまだ震えている。
母。
佐伯は手を伸ばしかけ、やめた。やめる理由は、もう指の方が知っていた。
着信が留守番電話に切り替わる。
「――あんた、今、出られないの」
一拍の無音。
「事故に遭ったって、本当なの」
画面の中央には、役員名義のメールが開いたままだった。
【至急】送金処理の最終確認。
まず会議に入り、その場で指示します。
見覚えのある文面だった。
急ぎの案件。まず入れ。細かい確認はあとだ。説明は走りながら足せばいい。
真鍋の声は、実際に聞こえたのではなかった。思い出すのに音量を必要としない種類の言葉がある。
――止めるな。
――確認はあとで足せる。
――間に合わせろ。
入社してから何年もかけて、それは外から浴びる指示ではなく、自分の中で先に鳴る反射になっていた。急ぎのものを前にすると、身体の方が先に従順になる。
10:14:43
社内チャットが光る。
真鍋:先方待たせてる。今すぐ。
画面の脇に、内線電話の受話器があった。
灰色の、古い型だ。社内IP電話が不調のときのために残してある。受話器を上げて、真鍋の席へ直接かける。それだけで済むかもしれない話だった。
佐伯の視線は一度そこへ落ちて、戻った。
手間。
確認の手間。説明の手間。何でもなかった場合の、気まずい手間。急いでいる相手を止める手間。
人は大きな悪より先に、たいてい小さな手間を避ける。
10:14:45
まだ何も起きていない。
起きていないものを止めるには、止める理由を自分で作らなければならない。




