第1章A 冷えた倉庫、鉛筆の在庫
五年後の冬、倉庫の朝は、暗いというより薄かった。
天井の半分だけ点いた通路灯が、床に長い灰色の帯を落としている。停電ではない。少なくとも、まだ完全には落ちていない。だが冷凍設備の主電源は夜明け前に一度切れ、そのまま復帰していなかった。制御盤のランプは点いているのに、肝心の圧縮機が黙っている。そんなことが、もう珍しくもない。
佐伯はシャッター脇に貼られた給電予報の紙を見上げた。今日の第三区画は午前九時から十一時まで「優先供給」となっている。優先供給、と紙にはある。だが昨日も同じ表示で、実際には四十分しか持たなかった。印刷された予定より、現場の耳の方がまだ当たる。佐伯は制御盤の方へ顔を向け、しばらく黙って立った。圧縮機は唸らない。灯りが一度、息をするように揺れた。今日は駄目だ、と思った。
庫内の奥では、青いポリ箱に詰めた氷の上へ粗塩が振られていた。応急保冷用。もう誰も笑わないやり方だ。設備が生きている日でも、最後は氷と塩を足しておく。動くかどうか分からない機械を信じ切るほど、皆もう若くはない。
佐伯は厚手の手袋を外し、クリップボードを開いた。
紙の在庫表。日付の欄には、田辺の角張った字で「十二月八日 午前便前」とある。罫線の上に鉛筆で商品名と数を書き込み、減れば一本線で消し、書き直す。インクは使わない。訂正がきかないからだ。訂正がききすぎる記録も危ないが、訂正できない記録はもっと危ない。今の仕事は、きれいに残すことより、誰が直したか分かる形で残すことの方が大切だった。
「冷蔵三列、二番と四番、ずれてます」
声のした方を見ると、田辺が白い息を吐きながら箱を抱えていた。六十を少し越えた男で、昔は倉庫システムの自動化に最後まで反対していたらしい。佐伯はその頃、古いやり方に固執する人間だと思っていた。今は、田辺の鉛筆の字の方を、どの画面より信用している。
「昨夜の入力と?」
「入力はもう見ない方が早いです。夜の間に三回、配送実績が上書きされてる。どれも便番号が半端に本物で、半端に違う」
佐伯は頷いた。
半端に本物で、半端に違う。最近のデータはたいていそうだった。閉域の業務網へ隔離しているつもりでも、どこかで混じる。運送会社の照合番号、病院の納品予定、自治体の緊急便。誰かが悪意で差し込んでいるのか、古い攻撃の残骸がまだ自動で増えているのか、今となっては判然としない。原因が何であれ、開けば汚れる。だから皆、最後には紙へ戻る。
倉庫の入口近くで、若い作業員が端末を片手に首をかしげていた。まだ二十代前半で、壊れる前の世界をほとんど覚えていない世代だ。彼は画面を見せながら言った。
「佐伯さん、これ、医薬便の着時刻がまた更新されてます。十時四十着って」
田辺が笑いもせず鼻を鳴らす。
「その画面の更新、朝だけで三回目だぞ」
「でも、会社のマーク入ってますよ」
「今どきマークなんか、雪より軽い」
若い作業員は気まずそうに端末を伏せた。佐伯はその画面を覗き込まなかった。見れば考える。考えれば、一度は可能性として数えたくなる。数えたくなる情報が多すぎると、人間は手元の箱を見なくなる。いま必要なのは、十時四十着という文字ではなく、ここにある在庫が午前中まで保つかどうかだった。
「医薬便は来る前提で組まないでくれ」
佐伯は在庫表をめくりながら言った。
「来たら組み替える。来なければ、それで回す」
若い作業員は「はい」と答えたが、納得した顔ではなかった。昔の感覚なら、それは非効率だったろう。届くはずの便は届くものとして段取りし、遅延が出ればシステムが知らせる。それが当たり前だった時代があった。佐伯自身、その当たり前の側で仕事をしていた。メールが来れば開き、表示された数字を追い、急ぎの案件はまず止めないことが有能さだと思っていた。
五年前のあの火曜日も、そうだった。急ぎのメールが来て、言われた通りに会議へ入り、言われた通りに承認した。会社はそれから半年もたなかった。あの朝の送金が原因のすべてだったとは、誰も言わなかった。言われないまま、佐伯は倉庫へ移った。
倉庫の奥から、溶けた氷の水を捨てる音がした。
細い金属のバケツに落ちる水音は、昔のサーバ室で聞いた冷却水の音に少し似ていた。
佐伯は膝を折り、一番下のパレットに手を入れた。段ボールの底はまだ冷たい。だが冷たい、というだけでは足りない。問題は、その冷たさが午後まで保つ種類のものかどうかだ。彼は箱を少し持ち上げ、底板の湿り具合を確かめ、在庫表の欄外に小さく丸印をつけた。丸印は田辺と決めた符牒で、「午前中は持つが、午後は読めない」の意味だった。誰に見せるためでもない、人間同士の記号だった。
「佐伯さん」
田辺が、今度は声を落として呼んだ。
「昨日の午後、三号倉の帳面、なくなりかけたんです」
「なくなりかけた?」
「コピーを取りに行った若いのが、ついでに照合のために網へ上げたらしいんです。すぐ気づいて引っ込めましたけど」
佐伯は顔を上げた。怒鳴る気にはならなかった。もう誰でも、一度はやる。便利だった頃の癖が、まだ指に残っている。紙を撮れば共有できる、照合できる、離れた場所でも確認できる。その発想自体が間違っているわけではない。間違っているのは、向こう側がもう人間の確認を助ける場所ではないのに、かつての便利さだけを手が覚えていることだった。
「漏れたか」
「分かりません。分からないから、あの帳面は捨てました」
田辺は言い終えてから、少しだけ眉をしかめた。
紙を捨てる痛みを知っている顔だった。
佐伯は頷いた。
捨てるしかない。真偽の分からない複製が一度でも外へ出た記録は、戻ってきてももう使えない。書き直せば済むようで、書き直しには時間がかかる。その時間が、以前は無駄に思えた。今はむしろ、時間のかかる手順だけが、誰かの責任を受け止められる気がしていた。
通路の向こうで照明が一瞬だけ落ち、すぐ戻った。
若い作業員が身をすくめる。田辺は見向きもしない。
「あと二十分でまた揺れますよ」
田辺が制御盤の方を顎で示した。
「今日は十一時までもたない」
「塩、どれだけ残ってる」
「二袋半」
「午前便は冷えの落ちる順で先に出す。乳製品より薬品原料優先。送り先には電話入れて、受け取り側にも温度見てもらえ」
「網じゃなくて、電話ですか」
若い作業員が訊いた。
佐伯は在庫表を閉じた。
「電話。つながれば、相手の返事の間が聞ける」
自分で言ってから、その言葉がどこから出てきたのか、佐伯は一瞬だけ考えた。返事の間。昔、そんなことを言う人がいた気がした。考えかけて、やめる。いまはまだ、思い出を辿るより先に、午前便を出さなければならない。
入口脇の事務机へ戻ると、古いブラウザ端末が壁際で薄く光っていた。電源は入っている。回線も死んではいない。だが朝から誰も触っていない。配送網の公開ポータルは偽の更新通知で埋まり、企業ページは真偽不明の訂正文を吐き続け、掲示板は在庫情報を装った誘導で腐っている。開けることはできる。だが、もう皆、開かない。海があるのに、毒が濃すぎて水を汲めないのと同じだった。
その横に、公衆回線用の灰色の電話機が置いてある。受話器のコードは二度、被覆を巻き直してあった。佐伯はそこへ手を伸ばしかけ、ふと、固定回線が死んでから使えなくなった実家の市外局番が指先をかすめて、すぐに引っ込めた。いま掛けるべきなのは、そこではない。先に便の手配だ。結衣の迎え先へ入れる確認は昼前でも間に合う。
いや、と彼は思い直す。
間に合う、という言葉ほど当てにならないものはない。
胸ポケットから小さな紙片を取り出す。学校ではなく、今は地区ごとの学習室になった場所の連絡票だ。今週は停電の都合で終了時刻が前倒しになる、と昨夜の回覧にあった。結衣には、変更がある日は必ず掲示板ではなく紙を見ろ、と何度も言ってある。それでも、念のため一度は確かめておきたかった。
佐伯は電話を取り、番号を押した。
呼び出し音が、思っていたより素直に繋がる。
「南町三学習室です」
若い女の声だった。少し鼻にかかった、疲れているが急がせない声。佐伯は名乗り、今日の終了時刻を確認した。相手は紙をめくる音をさせてから、十一時三十分です、と答えた。背後で子どもたちのざわめきがする。誰かが笑い、椅子が鳴り、すぐに別の誰かが静かに、と言う。そのささやかな雑音を聞いただけで、佐伯は胸の奥のどこかがわずかに緩むのを感じた。
「佐伯さんのところの結衣ちゃん、今日は付箋持ってきてましたよ」
電話口の女が、事務的な調子のまま少しだけ柔らかく言った。
「また机にいっぱい貼ってます。合図の紙だって」
佐伯は思わず笑いかけ、うまく笑えずに「すみません」とだけ返した。
受話器を置くと、倉庫の奥で田辺が声を張った。
「二列目、出しますよ。伝票、手で回して」
佐伯はクリップボードを持ち直した。
弱い灯りの下で、鉛筆の先が少しだけ光る。
凍るほどではない寒さの中で、それでも人は、手で書いたものを手で渡しながら午前を越えていくしかなかった。
彼は在庫表の余白に、結衣の迎え時刻を小さく書き足した。
その字が、自分でも驚くほど丁寧だった。




