第九話 狂熱①
オストマルク家からの使者が婚約の打診状を携えて、ヴィンターフェルト家の別宅を訪れたのは、エディアルドに求婚された翌日のことだった。あいにくレオノーラは、詰め所に詰めていて留守にしていた為、打診状はリヒャルトが代わりに受け取った。
その晩、詰め所から戻ったレオノーラは、リヒャルトから、昼のうちに打診状が届いたことを知らされた。
「私が預かっておくか?」
どこか遠慮がちな物言いだった。
娘が縁談を素直に承諾しなかったこと、そもそもの縁談を無断で仕組んだ気まずさが、リヒャルトの声の端に、まだ拭いきれずに残っている。打診状を娘の目に触れさせるのが、良いことなのか、リヒャルトには測りかねているらしかった。
「いえ、私が持っておきます」
差し出された封書を受け取ると、蝋で封じられた印には、オストマルク家の紋章が押されていた。
その夜、あとは床に就くばかりという頃になって、レオノーラは、ようやく打診状の封を切った。
初めて目にする婚約の打診状というものは、想像していたような、情のこもった書きぶりとはまるで違っていた。
そこに連ねられていたのは、オストマルク家の血統の正統性であり、東部公爵家が有する財産の目録であり、この婚姻が双方の家にもたらすであろう政治的な利益の数々だった。恋文の対極にある、冷徹なまでに実利を並べ立てた文面である。
貴族の家に生まれた以上、婚姻とは家と家との契約であって、そこに個人の情愛が入り込む余地は本来ない。頭では分かっていたつもりだったが、こうして紙の上に整然と並べられた文字を眺めていると、妙なところで感心してしまった。
感心はしたが、胸は少しも動かなかった。
その温度のない紙面を眺めていると、否応なく、昨日のことが思い出された。
片膝を折り、掠れた声で、愛しています、と告げてきたエディアルド。あの不器用な熱の塊のような告白と、型どおりに整えたであろう事務的な文書の温度差に傷ついたわけではなく、昨日のあの告白を、自分は思いのほか好ましく感じていたのだと、こうして温度のない紙面と引き比べて、初めて気づかされた。
剣を交えた同輩としてしか見ていなかったエディアルドのあんなにも実直な熱を、正面から向けられて、悪い気はしていなかったのだ。
ただ、好ましいと思ったのは事実だが、素直に受け止められない箇所があった。いつからだと問うたレオノーラに、五歳の頃からだと答えた。
互いにまだ剣も知らない幼子だった時分から、二十年近い歳月を想い続けていたのだと聞かされた時は、正直なところ面食らった。人ひとりをそこまで長く想い続けられる想いが、レオノーラには、底知れなく感じられたのである。
レオノーラは、打診状を封筒に入れて、抽斗の中にしまった。
打診状が届いてから、数日が過ぎた。
その日、レオノーラが執務室で書類の山と格闘していると、扉が叩かれ、リヒャルトの使者が姿を見せた。先日、エディアルドとの昼食の席に言伝を運んできた年若い従僕である。
「件の茶会は、三日後に決まりました」
「分かった。別宅から、父上と共に伺うと伝えてくれ」
「かしこまりました」
使者は礼をして、退出していった。
その足音が廊下の向こうへ遠ざかるのを待って、レオノーラは、羽ペンを置き、手元の書類を抽斗にしまった。
(早いに越したことはないが、思っていたよりも早く決まったな)
この数日、レオノーラは、リヒャルトと話した翌日から、平時の倍の速さで書類仕事を片づけていた。茶会までに身辺を整えておきたかったのと、余計なことを考えずに済むよう、手を動かし続けていたかった。おかげで、うず高く積み上がっていた書類の山は、跡形もなく消え、机の上には、平時と変わらぬ量の書類が残るだけになっていた。あまりの働きぶりに、副団長のマルクスが、本気で心配したほどである。
「団長、あなたまさか、何かの奇病にでもかかったんじゃないでしょうね。急にそんなに根を詰めて……どこか具合でも悪いなら言ってください」
「失礼なやつだ。私が真面目に働くと、病気扱いか」
「いや、団長が真面目なのは知ってますよ。知ってますけど、団長は書類を前にすると、露骨に死んだ魚の目をするじゃないですか」
言い返せなかった。事実だったからだ。
マルクスとのやり取りを思い出しながら、レオノーラは壁際に立てかけていた剣を取ると、腰の剣帯に鞘を通した。向かうは第五騎士団の詰め所である。 後ろ盾が必要だと、ここ数日、書類を片付けながら幾度も反芻していた。
御前試合を終えれば、騎士団長の役職を返上する予定であり、騎士団長という立場を脱した時、皇帝から賜った一代限りの公爵位が身を守る盾として残るが、それだけでは心許ない。
皇帝派も、反皇帝派も、後ろ盾を失った元団長の女をそれぞれの盤上の駒として欲しがる可能性が高い。狙われやすくなるのは、火を見るより明らかだった。
そして、後ろ盾を頼むなら、あの男しかいないと、レオノーラは決めていた。どの派閥にも属さず、面倒事を何より嫌い、ただ己の研究のためだけに生きている風変わりな第五騎士団長のフォスカ・ヴェルレーヌ。
(いきなり後ろ盾になってくれと切り出したところで、フォスカが首を縦に振るとも思えない。餌を撒き、研究狂いの興味を引いてやる必要があるな)
ちょうど、うってつけの口実もあった。イグニルとの約束である。北の国境警備所から帰ってきたら遊んでやると約束した。精霊を存分に呼び出せる場所といえば、精霊使役に特化した第五騎士団の稽古場をおいて他にない。精霊を遊ばせがてら、フォスカに手合わせでも持ちかければ、話を切り出す糸口は開けるはずだと考えた。




