第八話 思惑⑤
「皇帝派か、反皇帝派か。そのどちらかの工作という筋も捨てきれません。ならば、この機を逃さず、リオネル皇子殿下との噂を潰しておくのがいいでしょう。そのために必要なことをお話しします」
「私の手助けは要るか?」
「いえ」
レオノーラは、ほんの少しだけ、口元を緩めた。
「お隣に座っていてくださるだけで、結構です」
「分かった。日取りが決まり次第、使いを出す」
「承知しました」
レオノーラは、静かに席を立ち、父の前へと歩み出た。そして、主君に対してするような、折り目正しい礼をとる。
「本日は、お時間を取っていただき、ありがとうございました。おやすみなさいませ、父上」
その改まった仕草に、リヒャルトは面映ゆそうに、うむ、と頷いた。
扉の外に控えていたルドルフとエレナが、頃合いを計ったように扉を開ける。レオノーラは食堂を出て、ルドルフが深く腰を折って見送るのを、視界の端に収めながら、エレナを従えて、私室への廊下を歩いていく。背後でルドルフが食堂へ入っていく微かな足音が聞こえた。
私室の扉をエレナが開けて、燭台の火をオイルランプへ移している間に、レオノーラは自分でベストのボタンを外した。エレナが肩の後ろへ回って布を引き取り、袖から腕を抜くのを助ける。汗を吸った布が肩から滑り落ちると、体が少しばかり軽くなった。
「ご入浴は、いかがなさいますか?」
「体を拭く湯を用意してくれ。風呂は、明日の朝食前に入りたい」
「かしこまりました」
エレナは、一礼し、湯の支度のために部屋を出ていった。
一人になると、レオノーラは、こらえきれずに欠伸をこぼし、机の前の椅子に腰を下ろす。抽斗から小さな羊皮紙を一枚取り出して、羽ペンの先をインクに浸した。オイルランプの下で、五行に満たない文を書く。書き終えると、中の文字が誰の目にも触れないように幾重にも小さく折り畳んだ。
そして、誰もいない部屋の暗がりの一角へ向けて呼びかけた。
「イグニル」
名を呼ぶと、闇の中にぽっと橙の火の玉が灯った。
それは、宙を揺蕩いながら次第に大きさを増し、やがて人ほどの丈になると、内側から膨らむようにして小さく爆ぜた。弾けた火の中から現れたのは、十歳ほどの小柄な少年だった。橙がかった赤毛は、癖のある巻き毛で、右へ左へと跳ねている。
頬には、そばかすが散っていて、大きな目には、うっすらと涙の膜が張っていた。少年は床を蹴ってレオノーラの膝に飛びつき、両腕を回して顔を押しつけてくる。レオノーラは、表情を緩めると、小さな体を膝の上に抱き上げ、そばかすの散った頬に口づけを落とした。
「イグニル。この手紙を、今夜のうちに、北の国境警備所にいるクィントゥスおじ上のもとまで届けてほしい」
レオノーラがそう言うと、少年は、みるみるうちに顔を曇らせ、瞳を潤ませた。
「こんなまっくらのなかをはしるのはいや」
消え入りそうな声で訴える。橙の髪の間から覗く火の粉が、心細げに、ちりちりと爆ぜた。レオノーラは、宥めるように巻き毛を撫でた。
「大丈夫。お前の足ならどんな魔物も手出しできないさ」
イグニルは、頭を振り、体を小刻みに震わせている。
「帰ってきたら、久しぶりに遊ぼう」
その一言に、震えがぴたりと止まった。少年は、潤んだ目を見開いて、上目遣いにレオノーラを見上げる。
「イグレオスとイグナロスもいっしょ?」
「彼らがいいと言ったならな」
イグニルは、レオノーラの膝から下りると、差し出された手紙を両手で受け取り、飲み込んだ。
小さな外套を頭から被ると、少年の姿は輪郭が崩れて火の玉に戻った。火の玉は、宙で一度大きく脈打つと、軽い音を立てて弾け、あとには、闇だけが残った。レオノーラはそっと目を閉じると、瞼の裏に名残りの光の玉が一つ、ゆらゆらと揺れながら、遠ざかっていくのが見えた。
ほどなくして、扉が叩かれた。
「入れ」
エレナが、湯を張った桶と手拭いを載せたワゴンを押して、部屋に入ってくる。湯気が、灯りの中をゆるやかに立ちのぼる。
「ありがとう。今日はもう下がっていい。遅くまで付き合わせて悪かった」
エレナは、丁寧に一礼し、静かに扉の前まで下がった。そして、扉に手をかけたその姿勢のまま、こちらに背を向けたきり、ふと、独りごちるように言った。
「悪巧みもほどほどになさいませ、お嬢様」
言い置いて、エレナは返事を待たずに部屋を出ていった。
一人残されたレオノーラは、しばし呆気にとられた後、声を立てずに笑った。




