第十話 狂熱②
第五騎士団の棟は、他の団とは趣が違っていた。
剣戟の響きがない。代わりに廊下に満ちているのは、乾いた紙とインクの匂い、得体の知れぬ薬草の香りだった。開け放たれた部屋の奥では、杖を手にした団員たちが、書物を広げ、床に描かれた術式らしき図の前で額を突き合わせている。レオノーラは、ちょうど廊下で書物を抱えて話し込んでいた、二人組の女性団員に声をかけた。
「少し尋ねたい。今、フォスカ団長はどこにいるか分かるか?」
声をかけられた二人は、振り向いて、それが誰であるかを認めた途端、はっと息を呑んだ。
「ヴィ、ヴィンターフェルト団長……! だ、フォスカ団長は、稽古場にいらっしゃいますっ」
「そうか。助かった、礼を言う」
二人の団員は、みるみるうちに顔を赤くした。互いの袖を掴み合い、声にならない悲鳴を噛み殺している。団員の様子にレオノーラは内心で首をかしげたが、深くは詮索しないことにした。この団の者たちが、どういうわけか自分に対して奇妙な熱を向けてくることには慣れている。
第五騎士団の稽古場は室内にあり、二階までを吹き抜けにした、天井の高い石造りの広間で、床には幾重にも術式の図が刻まれている。そして、広間の内側をぐるりと囲むように、結界が張られていた。その広間の入り口の柱に、探していた男は、だらしなく寄りかかっていた。
フォスカ・ヴェルレーヌ。第五騎士団長にして、西部を治める公爵である。片手に古びた魔法書を広げ、行儀悪く背を柱に預けたまま、ページに目を落としている。年齢はレオノーラと大きくは変わらないはずだが、掴みどころのない気だるげな態度のせいで、年齢はどうにも測りかねる。
「フォスカ」
名を呼ぶと、彼は魔法書から視線だけを上げ、レオノーラを認めて、大げさに目を見張ってみせた。
「これはこれは。ヴァルデマール皇帝陛下の覚えめでたい第一騎士団の団長様ではございませんか。雲上のお方が、かようなむさ苦しい杖屋の棟に、いったい何用でございましょう」
慇懃無礼な言葉とともに恭しく腰を折る仕草が、あからさまに芝居がかっているが、レオノーラは、フォスカのこういうところが、嫌いではなかった。腹の探り合いは苦手だが、フォスカの慇懃無礼は、隠す気のない挑発だから、いっそ清々しい。
「お前と手合わせがしたい」
「先触れもなしにお願いするだけの価値はあるかい?」
レオノーラは、傍らの床へ目をやり、静かに名を呼んだ。
「イグニル」
床の石の上に、ぽっと橙の火が灯る。
それは見る間にふくらんで、弾け、中から、赤毛の巻き毛の少年が転がり出た。イグニルはきょとんと周囲を見回し、目の前にいるフォスカの気配に気づくと、みるみる顔を強張らせて、レオノーラの後ろに隠れた。小さな両手が、ズボンを握りしめている。
「このひとへん。こわい……」
「ふはは、レオノーラの精霊に怖がられるとは」
言葉とは裏腹に、フォスカの目の色が変わっていた。柱から背を起こし、レオノーラの後ろで震える小さな火の精霊を食い入るように見ている。慇懃無礼の仮面の下から、研究者特有の剥き出しの好奇心が顔を出していた。
「相手をしてくれるか?」
「その子の相手なら、喜んでお相手しよう。久しぶりに心が躍るなあ」
あっさりと、フォスカは請け合った。フォスカを動かすのは、損得ではなく、己の好奇心だった。
話がまとまると、レオノーラは、稽古場の中央へ進み出る。ここでなら、多少派手にやっても、外の団員を巻き込む心配は少ない。
「イグレオス」
名を呼ぶと、炎が縦に大きく燃え上がり、精悍な青年の姿へと変化した。
燃えさかる赤髪を撫でつけ、鋭い瞳に好戦的な笑みを浮かべる。戦いを好む火の精霊イグレオスは拳を打ち鳴らして周囲を睥睨したが、そこが戦場ではなく、見慣れた術式の刻まれた稽古場だと気づくと、あからさまに顔をしかめた。
「なんだ、戦じゃねえのか。出てきて損した。帰る」
イグレオスの足に、小さな体が、がばりとしがみついた。
「かえらないで!」
必死の形相で足にしがみつくイグニルを、イグレオスは持て余したように見下ろし、レオノーラを睨んだ。
「……おい。なんとかしろ」
「お前たちと私でイグニルと遊ぶ約束なんだ。付き合ってくれ」
イグレオスは、露骨に舌打ちをした。イグニルとの約束を持ち出されては、イグレオスも無下にはできないらしい。渋々といった体で足のイグニルを引き剥がしつつ、ふと、対面のフォスカへ目をやり、げんなりと肩を落とした。
「あいつとやるのか?」
「我慢しろ。すぐ終わる」
「貸し一つだぜ」
吐き捨てるように言って、イグレオスは拳に炎を纏わせた。
(残るは——)
レオノーラは、右目を、そっと閉じた。この精霊を呼ぶときだけは、いつもと勝手が違う。
「イグナロス」
その名を口にした瞬間、レオノーラの右目が、かっと熱を持った。
閉じた瞼を押し上げると、右の瞳の色が翠色から、燃えるような金色へと変わっている。金と翠、二色の瞳でレオノーラは虚空を見据えた。
宙に金赤色に輝く巨大な光球が現れた。イグナロスは人型を取る気はないらしい。光球が放つ威圧は、イグニルやイグレオスとは比べ物にならなかった。息苦しい気配が広間の隅々にまで満ちていく。
(何用かと思えば)
イグナロスの声は、レオノーラ、イグニル、イグレオスにだけ聞こえる声だった。
(またあの卑しい研究者か。不愉快な)
イグナロスはフォスカの舐めるような視線を一瞥する。光球は不機嫌そうに明滅するが、イグニルの姿が目に入って、明滅が止まる。
(……よかろう。対価と引き換えに遊んでやる)
三体の火の精霊を同時に呼び出し、息一つ乱れていないレオノーラを見て、フォスカの目つきが、いよいよ蕩けた。とりわけ、金色に灼けたレオノーラの右の瞳へと注がれる視線は、もはや熱を持っていると言ってよかった。




