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第五話 思惑②

 レオノーラは、黒パンを一片ちぎって汁に沈めながら、このところ耳に入ってくる小麦の話を、ぼんやりと思い返した。

 長く続いたセラフィナ王国との戦の間、各地の畑では、麦の実りが年ごとに細っていた。畑を焼かれ、男たちは剣を執って村を離れる。残された女子供の手だけでは、畑はどうしても痩せていった。

 それでも、戦がようやく終わり、男たちが村へ戻ってくると、荒れていた畑にも再び鋤が入り、蒔かれる種の量は目に見えて戻っていった。誰もが、久しぶりの豊かな実りを心待ちにしていた。


 ところが、穂首が黄金に色づき、あとは刈り入れを待つばかりという頃合いになって、東部と南部の穀倉を長雨が襲った。降りやまない雨に打たれた麦は、その実を毒々しい赤に染めていった。赤らんだ麦を口にすれば、嘔吐し、腹を下して臥せると、言い伝えられている。ゆえに村人たちは、小麦を泣く泣く廃棄し、雨を免れたわずかな小麦だけを、かき集めるように刈り取った。


 帝国の胃の腑とまで呼ばれる東部の畑が痛んだことは、市場に流れる麦の量を目に見えて細らせた。中央の都市で麦の値がじわりと吊り上がりはじめている、という話を詰め所で幾度か耳にしている。

 幸いにも北の本領では、雨の害を受けることなく、麦を収めることができた。もっとも、平時に比べれば収穫は少ない。戦の傷は、雨を免れた土地とて、無縁ではいられなかった。リヒャルトは、戦の間、領民に課す税金を一時軽くしていたが、各地方の話を聞き、そのまま据え置くことに決めたらしい。加えて、北の本邸とこの中央の別宅の双方に、家政婦長を通じて、当面は食事を質素にせよとの命を出した。


 向かいでは、テオドルが、固いパンに少しばかり難儀しながらも、楽しそうにその日の仕事のことを語り続けている。リヒャルトとレオノーラは相槌を打ち、目尻に皺を寄せて笑う。このテーブルの上でだけは、何事もない親子の団欒がそこにあった。テオドルの明るさが、二人の間に横たわる冷えた沈黙を、上手に覆い隠していた。

 やがて皿が下げられ、食後の頃合いになると、テオドルが椅子を引いて立ち上がったが、リヒャルトとレオノーラが席を立たないことに気づき、首を傾げる。


「父上と姉上は、まだ残られるのですか?」

「父上と話し合わねばならないことがあってな。そうですよね、父上」

 レオノーラが水を向けると、リヒャルトの肩が、目に見えて強張った。

「あ、ああ。私たちは食堂に残る。おやすみ、テオドル」

「分かりました。おやすみなさい、父上、姉上」

 わずかな怪訝さを残しつつも、それ以上は問わず、テオドルは一礼して食堂を出ていった。扉が閉まる音を待って、レオノーラは、控えていたエレナの名を呼んだ。


「エレナ」

 エレナは、心得た様子で、傍らに立つ執事のルドルフへ、ワインのピッチャーを手渡した。ルドルフは、それを受け取り、リヒャルトの前にある金属の杯に静かに注ぐ。とろりとした液が、灯りを受けて宝石のように光った。続けてルドルフは、レオノーラの杯にも同じ酒を満たしていく。


「ユリアンから貰ったものの、飲む機会を逃していまして。とても良いワインらしく、ぜひ父上にも味わっていただきたく」

「そ、そうか」

 リヒャルトは、差し出された杯の縁に鼻を寄せ、香りを嗅いでから、口に含む。

「……ほお、確かにこのワインはとても美味しいな」

 レオノーラも、杯を傾けて一口を含んだ。渋みだの甘みだのという話なのだろうが、酒には興味がなく、喉を通ったものが良いものなのかどうか分からなかった。剣の間合いは指の幅ほどの狂いも見分けるのにだ。何食わぬ顔で、杯を卓に戻す。


「ルドルフ、エレナ。父上と二人だけで話したい。退出してくれ」

 二人の使用人は、音もなく礼をし、食堂を退出した。最後にルドルフが扉を引き、扉板の合わさる低い音が、部屋に落ちる。

 レオノーラは、意図して顔つきを鋭くした。戦場で敵将と相対する時の研ぎ澄まされた面構えである。向かいのリヒャルトの額には、うっすらと汗が滲みはじめていた。


「さて、父上」

 レオノーラは、杯を指先で軽く回しながら、低く切り出した。

「エディアルド殿と組んで仕組まれた縁談の件について、お話しいただけますか」

「……レオノーラ。それ以上、怒らずに聞いてくれるか?」

「内容によります」


 レオノーラの眼は冷たく、真っ直ぐに父を射ていた。リヒャルトは、その視線から逃れるように、僅かに顔を背ける。かつてアウレリア帝国の第一騎士団を率い、戦神と呼ばれた男が娘の眼差しの前では、ただの父親だった。レオノーラは、その様子を静かに見据えたまま、言葉を待った。

 やがて、リヒャルトは、ぽつりぽつりと語りはじめた。

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