第四話 思惑①
日が傾き、空が茜に染まりはじめる頃、レオノーラは第一騎士団の詰め所を出て、中央の別宅へ愛馬のブラーサと共に歩を進めた。ブラーサはレオノーラが騎士団長の時に皇帝から下賜された馬で、いくつもの戦場を駆け抜けた相棒だった。
城を戴くこの一帯には、現役の騎士団長たちの別宅が肩を寄せるように建っていて、有事にすぐ動けるようにという理由で、ヴィンターフェルト家もここに一軒を構えている。門が見えてくると、手綱を緩めた。
「今、帰った」
門番のギレムが閂を外し、重い扉を押し開ける。馬丁のジョアンが小走りに駆け寄ってきて、手綱を受け取る。ブラーサの体は、まだ夕闇の熱を宿していて、鼻先を軽くレオノーラの肩に押しつけてくる。これは気位の高いブラーサが主人にだけ許した甘えだった。レオノーラはブラーサの首筋を優しく掻いてやる。
「お帰りなさいませ、レオノーラ様」
ギレムとジョアンが、揃って頭を下げる。
「ただいま、ギレム、ジョアン。ブラーサを頼む」
ジョアンが馬を厩へ引いていくのを見送って、レオノーラは玄関へ歩を進めた。近づくにつれ、内側から扉が開く。館の中の空気が、外の湿った風を押し返すように流れ出てきた。従僕のトマスと、侍女のエレナが、両の側に控えている。
「お帰りなさいませ、レオノーラ様」
「ただいま、エレナ、トマス」
屋敷の中は、廊下の隅々にまで橙の灯りが点され、外の冷えとは切り離された、乾いた暖かさに満ちていた。外套を脱いでエレナに渡す。レオノーラは、私室に向かって歩きながら、半歩後ろについて歩くエレナに、さりげなく問いかける。
「父上は」
「旦那様は食堂で、ユリアン様とお話をなさっておいでです」
喉のすぐ下まで来ていたものを、レオノーラは飲み下した。父と弟が何を話していようと、それは平穏で幸せな光景であるが、今日ばかりは、素直に喜べなかった。
私室に着くと、レオノーラは、腰の剣帯を外し、鞘ごとエレナに預けた。エレナは、それを両手で受け取り、壁際の架へと掛ける。騎士団長の制服を脱ぎ、飾りけのない室内で着る男物の装いに着替えた。飾緒も徽章もないシャツに袖を通すと、肩に張り詰めていたものが、わずかに解けていく心地がする。
エレナは騎士団長の制服を、皺一つ寄らぬよう丁寧に畳んでいった。その手つきを眺めながら、昼のことを思い返していたが、考えるほどに、眉間に皺が寄っていく。
畳み終えた制服を抱えたエレナが、そんな主人の横顔をちらりと見て、静かに言った。
「本日はお部屋でお召し上がりになりますか」
「いや、食堂で食べる。それと、以前ユリアンから貰ったワインがあっただろう。あれを出しておいてくれ」
「かしこまりました」
レオノーラは、幼馴染のユリアンの顔を思い浮かべた。
あのワインを寄越した時、ユリアンは、銀色の睫毛の下の眼を少し細めて、こう言ったのだった。
——良い酒というのは、味わうためだけのものじゃない。時には交渉にも使えるものなんだよ。レオノーラは上手く使いこなせるかな。
皮肉とも助言ともつかぬ物言いを、あの時は聞き流していたが、今その言葉が、妙に腑に落ちる。
窓の外では、茜がいよいよ濃くなり、やがて藍へと沈もうとしていた。
食堂の扉を押すと、長テーブルの向こうで、リヒャルトが、レオノーラの弟、テオドルと語らっているのが目に入った。父の口元には、くつろいだ笑みが浮かんでいる。その顔を、レオノーラは一瞬、酷く冷えた眼で見た。娘を謀った当人が、こうも安らかに笑っていられるものか、と。
だが、その視線に気づく前に、テオドルが顔を上げた。
「姉上。お帰りなさい」
茶色みを帯びた赤毛を揺らして、屈託なく笑う弟に向けて、冷えた眼差しを瞬く間に和らげた。
「ただいま、テオドル」
「お帰り、レオノーラ」
父の声には、隠しきれない硬さが滲んでいた。娘の眼の底に宿った冷たさを、リヒャルトは確かに見て取り、そして、見て見ぬふりをした。レオノーラもまた、それを承知の上で、慇懃に頭を下げる。
「ただいま帰りました、父上」
ほどなくして、夕食が運ばれてきた。
テーブルに並んだのは、黒パンと、豆と根菜を煮込んだスープだった。パンは、指で押してもへこまないほど固く締まっていて、汁に浸してふやかさないと食べにくい。公爵家の食事にしては、質素なものであったが、それも仕方のないことだった。




