第三話 縁談③
レオノーラは、湯気の消えた茶器を前に座り込んだ。頭の中は妙に静かであったが、何ひとつまとまらない。愛している、と言われた。それは、生まれてこのかた、家族以外からは向けられたことのない言葉だった。令嬢たちに、黄色い声で騒がれることはあっても、それは憧れであって、恋ではない。まして、正面から結婚を申し込まれたことなど、一度もなかった。
卓に肘をつき、額を手で押さえた。考えれば考えるほど、頭の芯が重くなる。彼女は立ち上がり、客間を出て執務室へ戻った。机に向かい、羽ペンを取ると、リヒャルト宛に短い文をしたためる。書き終えると、廊下に出て、暇そうな騎士を捕まえ、これをヴィンターフェルト家の屋敷に届けるよう命じた。
再び執務室へ戻り、溜まっている書類を片付けようと羽ペンを持つが、決裁書に書いている文字が頭に入ってこない。同じ行を三度読んで、三度とも意味を取り損ねた。溜まった書類は、一向に減らなかった。それでも、時間をかけて、一山の半分をなんとか減らした頃、使いに出した騎士が執務室を訪れた。
「団長。リヒャルト様は、話し合いを承知されました」
「そうか……ご苦労」
騎士を下がらせると、山積みの書類を見る。どれも急ぎの案件だったが、羽ペンを走らせる気にはならない。頭の中は、エディアルドの告白が堂々巡りをしていた。
どれほど、そうしていたのか。執務室の扉が叩かれる。
「団長。よろしいですか」
穏やかな声とともに入ってきたのは、副団長のマルクス・ウァレリウスだった。伯爵家の次男で、レオノーラより二つ年下になる。物腰の柔らかな男だが、歯に衣着せぬ率直さを重宝していた。
「どうした」
「どうしたはこちらの台詞です」
マルクスは机の前まで来ると、書類の山を、一瞥する。
「サイン済みの書類が流れてこないので様子を見にきました。あなたのサインがなければ、処理を進められない案件がいくつもあるのはご存知ですよね?」
「……すまない」
マルクスは、素直に謝られるとは思わず、レオノーラの態度を訝しむ。いつもなら、一つ二つ文句を言って、渋々、書類に向き合う場面だからだ。マルクスは顎に手を当て、気まずそうにするレオノーラを見る。
「本日は書類と向き合うのは止めて、剣を握るのはいかがですか? 幸いにも、稽古場では部下達が、御前試合のメンバーに選ばれようと血気盛んに打ち合っています。団長がひとつ揉んでやれば、彼らも喜びますし、気分転換にもなるかと」
レオノーラが何かに悩んでいる時、マルクスはレオノーラの胸の内に踏み込まず、手立てだけを差し出してくる。その距離の取り方が、今の彼女には、ありがたかった。
「お前に見透かされると鳥肌が立つな」
レオノーラは苦笑した。
「当たっているから、癪に障る」
「それは何より」
レオノーラは、羽ペンを置いて、立ち上がる。書類はどうせ、今の状態では捌けない。ならば、マルクスの言う通りにするのが、賢明だと思った。
稽古場に出ると、騎士たちが木剣を激しく打ち合わせ、砂塵を舞わせていた。御前試合の選抜がかかっているだけあって、どの顔も真剣な顔つきをしている。しかし、レオノーラが姿を見せると、一斉に手が止まり、その場で休めの姿勢を取る。レオノーラは木剣を取り、部下達たちを見渡した。
「御前試合に出たい者は、まず私から一本取ってみせろ」
団長であるレオノーラが稽古に加わるのは、彼らにとって、願ってもない機会だった。
騎士たちは歓声を上げ、木剣を構える。早速、一人の騎士がレオノーラに向けて木剣を振り下ろすが、レオノーラは横に半歩ずれて、騎士の後ろに回り込み、背中を軽く木剣で打つ。
一人、また一人と脱落し、騎士たちの打ち込みを受け、いなし、返す。その間だけは、少なくとも、エディアルドのことを考えずに済んだ。汗が背を伝い、息が上がり、腕が痺れるほどに剣を振るう内に、頭の中を占めていた堂々巡りが、少しずつ薄れていった。
三十数名ほどの騎士たちを地に転がした頃には、頭の靄は晴れ、シャツは汗で重くなっていた。騎士たちも肩で息をし、そろそろ止め時かと木剣を下す。
稽古場の隅で、手拭いを持っているマルクスに歩み寄る。
「少しは気が晴れましたか?」
「お陰様でな」
レオノーラは手拭いを受け取り、汗を拭う。
「剣で追い出せるものなど、所詮その場しのぎに過ぎず、真に向き合うべき問題は、いずれ必ず腹を括って対峙する他ありません」
汗を拭う手を止めて、穏やかな顔をするマルクスの顔を見た。
「分かっている」
レオノーラは、短く答えた。
「分かっているさ」
窓の外で、午後の光が少しずつ、傾き始めていた。レオノーラは、汗の滲んだ手拭いを握りしめ、自分の胸の内を静かに見つめた。




