第十七話 名残①
羽ペンを握ったまま、レオノーラは呆けていた。ペン先からインクの雫が書きかけの書類の余白に落ちて、黒い星のように滲んでいくのにも気づかない。
――他の令嬢のように恋の駆け引きとやらをしてみたいの?
ユリアンはいつもレオノーラ自身すら気づいていない心の裏側を平然と暴いてみせる。
(あの言葉は、的を射ているのかもしれない)
騎士団の稽古場で木剣を打ち合う音が、規則正しく響いていた。いつもなら真っ先に耳を澄ませるその音も、今朝はずいぶん遠くに聞こえた。
「団長。新しい申請書です」
(だが、ユリアンの言葉が本当だとしても、素直に頷けるか)
窓辺の光の中を細かな埃がゆっくりと舞っているのをレオノーラはただ眺めていた。
「団長」
次の瞬間、机の上に書類の束がどさりと置かれ、腹の底に響く声が飛んだ。
「レオノーラ・アウフ・ヴィンターフェルト!」
椅子の脚が床を鋭く鳴らす。レオノーラは弾かれたように立ち上がった。
目の前には、呆れ顔のマルクスがいた。腕を組み、片眉を上げ、悪戯を見咎めた家庭教師のような顔で見下ろしている。レオノーラは、詰めていた息を吐き、椅子へ腰を落とした。
「なんだ、マルクスか……」
「なんだ、じゃありませんよ」
マルクスは、机の上の束を処理順に手早く揃えながら、溜め息交じりに言った。紙の擦れる小気味よい音が鳴る。
「先日までの頼もしい騎士団長は、どこへ行かれたのですか」
「……知らん」
レオノーラは、不貞腐れて頬杖をついた。
「本日は人とお会いする約束があると仰っていましたが、大丈夫なのですか?」
レオノーラの頭の中にエディアルドのことが浮かんだ。跪き、レオノーラをまっすぐ見て、愛していると告げた時の掠れた声が蘇った。レオノーラは頬杖をついたまま、机の一点を睨んで、小さく「……行ってくる」と呟く。
壁に立てかけた剣帯を掴んで、腰に巻きつけると、慣れた重みでいくらか背筋が伸びた。執務室の扉に手をかけたところで、マルクスの呆れを隠さない声が背中にぶつかる。
「いってらっしゃいませ」
第二騎士団の詰め所へ向かう渡り廊下は、秋の日差しで満ちていた。高い窓から斜めに差し込む陽が石の床に格子の影を落とし、歩けばその光と影が、足元で交互に流れていく。空気は涼やかで、遠くの空は青く澄んでいた。
すれ違う騎士たちが、レオノーラへ羨望とも妬みともつかぬ眼差しを向けてくる。中にはあからさまに肘で仲間を小突いて、顎で示す者もいた。レオノーラは、それらに気づかない顔で足を運び、あと少しで第二騎士団の詰め所が見えるというところで、行く手が塞がれていた。
第三騎士団長のドミニク・ジェルサンドが、数名の騎士を引き連れて、廊下の幅すべてを使い、レオノーラの方向へ向かってくる。ドミニクはレオノーラの姿を認めると、下卑た笑みを浮かべて、顎を反らした。
今は、ドミニクと言葉を交わす気力がない。引き返そうかと一瞬よぎったが、それはそれで面倒だったし、逃げたと取られるのも癪だった。レオノーラは、構わず足を進める。
両者が廊下の中で向かい合う。ドミニクの一団が廊下を独占しているせいで、行き交う騎士たちは廊下の脇へと寄り、壁に背を貼りつけて、嵐が過ぎるのを息を殺して待っている。
「やあ、ごきげんよう、ヴィンターフェルト騎士団長」
ドミニクが、大仰に胸へ手を当て、慇懃に頭を傾けてみせる。
ヴィンターフェルト家とジェルサンド家は、共に公爵の爵位を戴く家門だが、ヴィンターフェルト家の方が古く、家格は一段上にある。ここで先に返事を返せば、ヴィンターフェルトが格下に回り、ドミニクが仕掛けた、ささやかな嫌がらせに負けを認めたことになる。
レオノーラは、腹の内を表に出さず、にこやかに口の端を上げた。
「ごきげんよう、ジェルサンド団長。本日はよく晴れて、風もない。剣を交えるには良い日ですね」
「ほお、真っ先に剣の話題を出すか。流石、第一騎士団を統べるだけある。貴殿は騎士の鏡だ。そう思わないか、皆の者」
然り、然り、とドミニクの取り巻きは口を揃えて手を叩く。乾いた拍手が廊下に響くのに合わせ、レオノーラの顔も無表情になりそうだった。咳払いをして、拍手を止める。
「……ジェルサンド団長。私に何かご用意ですか」
「これから皆と、我らがアウレリア帝国の行く末について、語らおうと思っていてな。ヴィンターフェルト家の貴殿が加われば、場もいっそう華やぐというもの。どうだろう、ひとつお付き合い願えないか」
(どうせ、我らこそ選ばれし血統だのと、選民思想を煮詰めた話しか出ないだろうに)
内心で辟易しながら、たおやかに頭を下げた。
「身に余るお言葉、光栄の至りにございます。しかし、あいにく本日は予定が立て込んでおりまして……どうかご容赦を」
第二騎士団の詰め所へと足を踏み出す。だが、その行く手を、ドミニクの連れの騎士たちが、壁となって塞いだ。
「ずいぶんとつれないことを仰る」
ドミニクは、わざとらしく胸に手を当て、首を振ってみせる。
「聞き及ぶところによれば、第五騎士団長とは、たいそう仲が良いとか。このジェルサンドでは、貴殿のお眼鏡には叶わないということだろうか」
前髪をかき上げた時に、ドミニクが嵌めている指輪の宝石が光を弾く。
レオノーラはこめかみのあたりで、じわりと血の巡りが速まるのを感じた。以前であれば、上手くあしらって切り抜けているところだが、ユリアンの言葉と縁談のことで、いつもの余裕が削られていた。




