第十六話 素顔②
「まんざらでもなさそうなのに、どうして断るつもりでいるの?」
レオノーラは絶句した。二人きりの食事について注意を受けるか、作法について返答が来るものとばかり思い込んでいたため、肝心の縁談そのものに踏み込まれるとは予想外だった。
「婚約を断る理由が分からない」
「……いまさら、家に入って女主人として振る舞うことなどできるものか」
「そうかな」
ユリアンは、杯を軽く揺らした。
「オストマルク家は家格も申し分ない。次期当主と言われているエディアルド殿は、人柄も剣の腕も非の打ちどころがない」
それに、とユリアンは続けた。
「年頃を少しばかり過ぎているとはいえ、君は公爵家の娘だ。しかるべき家に嫁いで子を残すのは、貴族の娘の務めだろう。まして、東部を治めるオストマルク家と北部を治めるヴィンターフェルト家が婚姻で結ばれれば、反皇帝派とヴァレンティア王国への牽制になる。北と東が手を組めば、あの国はうかつに動けなくなるからね。これ以上ない縁組みだ」
唇を噛み締めるレオノーラに構わず、ユリアンは話し続ける。
「結婚して公爵夫人となれば、その立場はレオノーラを守る盾になる」
レオノーラは、腹が立って家へ帰ろうと思ったが、幼馴染の言葉ひとつに気色ばんで席を立つのはプライドが許さなかった。彼女は、返すべき言葉を探しながら、テーブルの上の一点をじっと睨む。
ユリアンは、その様子を静かに眺めていた。
「他の令嬢のように恋の駆け引きをしてみたいの?」
「っ、」
レオノーラは口を開けたまま固まり、顔中が熱くなるのを感じた。
「違う!」
大きな声が出て、気づけば勢いよく立ち上がっていた。テーブルが揺れ、杯の中のワインが波打って、クロスに小さな染みを作る。
「そんなんじゃ、ない」
ユリアンは動じなかった。座ったまま、立ちすくむレオノーラを下から見上げて、質問を重ねた。
「なら、北の国境警備所へ行くのは、エディアルド殿から逃げるため?」
レオノーラは息を呑んだ。
「……どうして」
なぜそうなるのか自分でも分からず、喉の奥が詰まったまま、声を出す。
「どうして、そんなことを言うんだ……」
家族や騎士団の荒くれ者たちの前でも、レオノーラは常に気を張り、寸分の隙も見せはしない。侮られればそこで終わりであり、女だてらにと後ろ指をさされないために、常人の何倍も努力を重ね、己を律してきた。だが、ユリアンの前だけでは、幼いころの自分が顔を覗かせる。しかも、今夜は酒の回りがよく、いつもは頑丈な感情の堰が脆く崩れかけていた。
立ちすくむレオノーラを、ユリアンは見上げていた。背丈はレオノーラのほうが拳ひとつぶんばかり高い。その高い位置にある顔が、泣き出す寸前の子供のように、頼りなく歪んでいるのを、彼は静かに見ていた。戦場では鷹のように猛る女が、ユリアンの前でだけ見せる顔だった。
レオノーラは俯いて、崩れるようにソファに座り直した。
ユリアンは杯を置いて立ち上がり、向かいの席から回り込んで、レオノーラのすぐ隣に腰を下ろした。そして、乱れた赤い髪へと片手を伸ばす。大きな手が頭の上にゆっくりと乗り、妹の機嫌を取る兄のような手つきで、彼はレオノーラの頭を撫でた。剣だこのない、文机に向かっている者の柔らかい手だった。
「女だからと侮られないように、血の滲むような稽古を来る日も来る日も重ねて、第一騎士団の団長にまで上り詰めたこと。腹の探り合いが苦手なのに、歯を食いしばって宮廷の老獪と渡り合ってきたこと。全部知っている」
レオノーラは、俯いたまま動かなかった。撫でる手の温もりだけが、頭の上にあった。
「僕は君が心配なんだ」
撫でる手が、ふと止まった。
「『レオノーラ・アウフ・ヴィンターフェルトはかくあれかし』なんて理想の像を自分に課して、それに縛られて北へ行くというなら、いつか自分で自分を壊す」
レオノーラは、唇を噛んだ。噛みしめた奥歯が、かすかに鳴る。しばらく、部屋には暖炉の薪がぱちぱちと爆ぜる音だけがあり、橙の火影が二人の影を壁の上でゆらゆらと揺らしていた。
「……私は」
やがて、堰の隙間から絞り出すように、小さな声が漏れた。
「私は男ではない。仕方がないだろう」
――男であればよかったのに。
幼い頃から、数えきれないほど浴びせられてきた言葉だった。レオノーラは、物心のつく前から魔法の扱いに長けていて、火の精霊は彼女によく懐いていた。剣を持たせれば、同じ年頃の子供の誰よりも強かった。だからこそ周りの大人たちは口々に言った、「男の子に生まれていれば」と。
弟のテオドルが生まれ、ヴィンターフェルト家の跡取りが定まるまでは、親類も、リヒャルトの部下達も、みな同じことを言った。褒め言葉の顔をして、その実、レオノーラという存在そのものをどこか惜しみ、憐れむ言葉だった。幼いレオノーラには、何故そんなふうに惜しまれねばならないのかわからず、その言葉を聞くたびに胸の奥が痛んだ。
そして一度だけ、リヒャルトもそれを口にしたことがある。幼いレオノーラを見下ろすリヒャルトの、困り果てたようなあの横顔だけは、なぜか瞼の裏に焼きついて離れない。リヒャルトはそれを言ってしまってから、すぐに、しまった、という顔をした。戦場では敵に恐れられたリヒャルトが、幼い娘の前で、狼狽え、言葉を探していた。リヒャルトが心からレオノーラを慈しんでいることは誰よりレオノーラ自身が知っているが、あの一言だけは、抜けない棘のように幼い胸のいちばん深いところに突き刺さって、そのまま残っている。
大人になり、騎士としての実績を積み、団長にまで上り詰めて、もはや、面と向かってそう言う者はいなくなった。だが、レオノーラの胸の底には、あの幼い日の棘がいまも抜けずに埋まっている。自分の性別は、どれほど手柄を重ねても、引け目として、そこにあり続けた。どれほど剣を磨いても、どれほど戦で名を上げても、この身が女であるというただその一点だけは、どんな努力を積んでも変えることができなかった。
「仕方がない、か……」
ユリアンは、レオノーラの言葉を噛みしめるように繰り返すと、そっとレオノーラの頭を撫でた。
「僕が言ったことは頭の片隅に入れておいて」
レオノーラはこくり、と頷いた。
それきり、二人はしばらく黙っていた。気まずい沈黙ではなく、物心ついた頃から幾度となく分かち合ってきた、気心の知れた静けさだった。ユリアンは名残惜しそうに腰を上げる。
「夜も更けたし、今から帰るには遅すぎる時間だ。泊まっていきなよ」
「……帰る。ブラーサを待たせているから」
レオノーラは愛用の剣帯をしっかりと巻きつける。
「そう」
ユリアンはそれ以上、無理に引き止めようとはしなかった。
玄関まで見送りに出てくれたユリアンに、レオノーラは短く礼を言って、ブラーサに跨がると、夜の坂道を下っていった。
冷えはじめた夜気に白い息をひとつ吐いて、ユリアンは思う。北へ行くと決めたのなら、もう、誰にも止められはしまい。それがあの幼馴染の選んだ道なら、背中を押してやりたかった。ただ、あの強情な幼馴染が遠い北の果てでたった一人、また重い鎧を着込んで気を張り続けるのだろうと思うと、胸の奥がかすかに痛んだ。




