第十五話 素顔①
一日の勤めを終えたレオノーラは、幼馴染のユリアン・レーゲンドルフの屋敷へ向かった。ブラーサに跨がって城下の坂をゆっくりと下っていくと、石畳を蹄が打つ乾いた音が、街の空気を打つ。
灯りのともりはじめた窓辺を横目に、門番に名を告げると、待つほどもなく通される。駆け寄ってきた馬丁の若者が一瞬、手を引っ込めた。ブラーサが栗毛の耳を伏せて、差し出された手を鼻先で押しのけたからだ。皇帝から下賜されたこの馬は、主人には容易に懐かない。気位が高く、知らない者の手を嫌う質だった。レオノーラは、馬の首筋を軽く叩き、耳元で低く宥めるように囁いてから、あらためて手綱を若者に渡した。
「悪いな。気位の高いやつなんだ。少し待ってやってくれ」
若者はほっとしたように頬をゆるめて、大人しくなったブラーサを引いていった。その後ろ姿を見送って、レオノーラは屋敷の玄関へと足を向ける。
メイドに導かれ、客間に通される。室内は過美な装飾こそないものの隅々まで手入れが行き届いており、壁際の暖炉ではすでに薪が赤々と心地よい熱を熾している。レオノーラは身につけていた剣帯を解くと、ソファーの脇に立てかけ、深く腰を下ろす。
控えていたメイドに、ユリアンの到着が少々遅れると告げられ、一杯のワインを勧められた。無碍に断るのも憚られ、勧められるままにグラスを受け取る。ワインの良し悪しについては分からないが、それはレオノーラの好みの香りで、口の中に残るワインを楽しんだ。
暖炉の中で乾燥した薪がパチリと小さく弾け、鮮やかな火の粉が舞い上がった瞬間、客間の扉が開かれた。
「待たせてごめん」
入ってきたユリアンの短いくせ毛が、いつもより乱れている。向かいのソファーに腰を下ろした彼の顔を灯りの下で見て、レオノーラは、おやと思った。目の下にうっすらと翳りがある。
「こちらこそ時間を作ってくれ、て……クマができているぞ」
ユリアンは指先で軽く目の下に触れる。
「最近、眠る時間が少なくて」
ユリアンは、メイドに注いでもらったワインを飲み、宰相府の内情を溢しはじめた。
法令の起案、登録簿の照合、地方から日ごとに上がってくる請願書の処理。ひとつ捌けばふたつ増えるのだと言った。また、翌春の端境期への不安が宮廷で囁かれはじめてから、財務府から嫌がらせをされるようになり、その対応に追われているのだと言う。
「対策案を出した腹いせか?」
「そういうこと。流通の監査を厳しくするのと、サラームからの穀物輸入関税免除の案を出したら、ね」
レオノーラは、思わず眉根を寄せた。精霊を消耗品のごとく使い潰すサラーム国。北の国境で睨み合ってきたヴァレンティア王国とはまた違う。軽蔑する相手に食い扶持を頼るというのは、どうにも据わりが悪い。
「反感もあるよ」
レオノーラの表情を読んだのだろう、ユリアンは苦く笑った。
「麦の値を吊り上げてこないとも限らないし、売ること自体を止めてくるかもしれない」
彼は一度言葉を切り、それでも、と続けた。
「それでも、餓えている者の前で、どこの国の麦かは関係がないだろう」
しばらくは、互いの勤めの話をした。レオノーラは農地分配に関わる書類の受理の遅さを、ユリアンは融通のきかない財務府のことを語り、どちらの話も突き詰めれば人手と時間が足りないという点に落ちつくのが分かり笑った。立場は違えど、上に立つ者の抱える難儀は、どこか似通っている。
心地よい酔いが回るにつれて、張り詰めていた気がすっかり抜けていく。ユリアンは色白の顔を赤らめながら、レオノーラの杯へとワインを注ぎ足した。 レオノーラは礼を言って、杯を傾ける。
「僕ばかり話していてごめん。そういえば、手紙に書いていた『話したいこと』ってなに? 」
「ああ、話が楽しくてすっかり忘れていた。実は、騎士団長を退任し、北の国境警備所へ行くことになったんだ」
ユリアンの手が、杯の手前で止まる。彼はしばし、レオノーラの顔をじっと見つめ、それから、重苦しい手つきでゆっくりと杯を卓に戻した。
「……ずいぶん、急な話だね」
「そうだな」
「もしかして、先日の第五騎士団の一件と関係があるの?」
「何の話だ?」
「第一騎士団長と第五騎士団長が友人になったという話が、宰相府まで届いているんだよ」
レオノーラは、「あの時の言葉か」と頭を抱えた。
「……迷惑をかけたか?」
「僕のことは気にしなくていいと言っているだろう」
ユリアンの目は、暖炉の火を映して、ほんのりと橙に染まっている。その声には、慰めにありがちな、湿り気がなかった。
口先だけの慰めを言わないので、飾り気の無い言葉は、まっすぐに胸に落ちた。
レオノーラは、肩の力を抜いて「ありがとう」と言った。それから、杯の縁を指でなぞりながら、「それと」と続ける。
「エディアルド殿から、婚約を申し込まれた」
レオノーラの頬は、かっと熱くなった。
「へえ、ついにか」
ユリアンの声には、格別の驚きの色はなかった。とうに知れていたことが、ようやく出来事になった、とでもいうような響きだった。
「それで、一つ聞きたいことがある」
レオノーラは、顔を上げた。ユリアンの目が、静かにこちらへ向けられる。
「婚約を申し込んできた相手ーー断るつもりでいるんだが、その相手と二人きりで食事をしてもいいものなのか、知りたい」
レオノーラは我ながら間抜け問いだと思った。
貴族の令嬢の作法やしきたりを、これまで気にかけて生きてきたことなど、ほとんどなかった。剣を振り、命のやりとりをしてきた身には必要がなかったからだ。戦場には、右か左か、生か死か、それより細かい機微など存在しない。だが、こと縁談となると、勝手が違う。まるで読めなかった。
ユリアンは驚き、それからレオノーラの顔をじっと見る。梟のような、静かで底の知れない目だった。




