四人の高校生の場合 異界1-2.的と集中
自分の顔をつかんでいる。その手は、お母さんだった。自分のお母さん。
お母さんは、懸命に自分に呼びかけている。大丈夫?大丈夫?と。そして肩をつかみ、袖をつかみ、激しく揺すぶった。自分は集中しなければ、と思った。集中しなければ、あの的を射抜くことはできない。何も考えず、ただ集中して、的とそれを射抜く矢を射るこの手と指に気を入れて、待たなければ。矢を解き放つ時を待たなければ。
水野まちこは道場にいた。綺麗に拭われた板敷きの間、つやつやで人の影を反射する蜜柑色の床を、踏み締めている。手は、いつもどおり弓を持っていて、矢羽をつがえていた。だが自分の母親がその正面に立ち、大丈夫?大丈夫?と言ってくる。まるで現実と同じだ。と、彼女は思った。現実と同じと。確かに彼女の母親は彼女が手を怪我した時、自分の事のように大騒ぎした。そしてただ手の医者に診せるのではなく、心療内科にも訪れさせた。そこまでの配慮は娘にとってとても迷惑だったが、結果、ランドセルをつかんだ指が脱臼してまたそこのお世話になった。
現実と同じ。まちこはそんな母親もろとも、向こう側の的を射抜こうとしていた。母親は今や道場の床板ぎりぎりに、下がっている。そしておろおろとした恰好のまま、とてもいい的になっている。彼女は一旦その後ろ側にある弓当ての的を忘れた。母親を撃ち抜こうと思ったのである。そうすれば。そうすれば、きっと素敵な明日が広がるに違いないから。
でもやめた。彼女は弓を下ろした。途端にありえないほど指が痛くなった。中指の第一関節と第二関節が、そして親指の付け根が、ずきずきと痛む。その他の指までも。この痛みはかつての痛みだ。怪我したすぐ後の。彼女はこの痛みを撃ち抜きたく思った。自分の指目掛けて、彼女はもう一本の腕をつくり出し、矢をつがえて、今度は思い切りその的を目掛けて斜めに引き絞り、放った。
矢は当たった。激痛が走った。その指は自分の指だった。彼女は自分は一体何をしているのだろうと思った。お父さんがやって来た。もうやめなさいと言った。お母さんはただ泣いていた。
そして、黒い闇にずぶずぶと呑まれた後、まちこは上手な絵の描かれたカンヴァスの真正面にいた。低い雲が空にたなびき、遠く海を望める丘に彼女はいた。その傍で、丸椅子に座っていた絵描きが筆を下ろした。絵描きは筆を持っていたが、その筆には矢が突き刺さっていた。非常に細い、おもちゃといってもいいような矢が。
絵描きはイーゼルから絵を取り外し、それを丘の下に放り投げた。この丘から見える風景画が、絵の表を裏にしたまま、ひらひらと地面に落っこっていった。そしてその辺りの草に潜んでいた鳥を羽ばたかせ、その翼の風圧で、ふわりと宙に浮いた。絵は別の物に変わった。それはただ巨大な弓の的になった。どう射てもはずせない、ここに射ろというばかりの、同心円の並んだ、とても弓を引く気になれない的になった。そう、たとえ射抜いても、射抜かなくても、どちらでもいいような的に。
彼女はその的に背を向けた。彼女はちょっとくしゃみをした。すると的は、彼女の背後で小さくなった。まちこはそれに気づかない。的はもっともっと小さくなった。やがて本来の大きさよりも、もっと縮まって、見えないくらいに縮小した。彼女は振り返った。あの大き過ぎる的は見なくてもいいように。すると、限りなく小さくなったはずの的が、点にしか見えないはずのそれが、少し離れたところのそこにあると、くっきりとはっきりと見えた。彼女は「撃つよ」と言った。極小たる的は、そのまま大きさを変えず、位置も変えず、彼女の射る矢を待つ者になった。
次の瞬間、彼女は道場に戻っていた。母親が、また彼女の頭をつかんで、わめき散らした。彼女は笑って、安心して、お母さん、と言った。ようやく母親は気を落ち着かせ、まちこは普段どおりの所作をした。落ち着いて、弓を取り、鏃を浮かせ、指の先に乗せ、矢羽をつまみ、肩口に引かす。そしてその矢が離れるのを待つ。ただただ、放たれた矢が向こう側の的に届くのを待つ。そしてその時がやって来た。
気づいたらまちこは逆巻く噴煙の手前、天井から火山が吊り下がった、地底世界のどこかにいた。




