彼岸を見た者 異界3-4.ひとまとまりの存在
目の前に傷だらけの人形がいる。青い目をむき出しにして、手足、額、頬や胸にもぐさぐさとナイフの切り傷がある。よしこはそれを手に取った。優しく撫でてみると、それはしゃべり出した。
「おい、お前!どんなとこを触ってんだお前は」
よしこはびくっとしたが、焦らず、ひどく驚かず、大事に大事にその人形の痛々しい箇所を触った。するとそのひずみから、傷跡から、人形の血がにじみ出してきた。
「おい、お前」
再び人形が口をきく。
「さっきから何てとこ触ってんだよ。聞いてんのか、おいお前!」
彼女はそれでも触り続けた。無数の切り傷の開いたそれに、彼女は強く魅せられていた。輝かしい宝石のように、それは見えた。どこにもない宝物のように、それは映った。
「おい、お前!」
よしこはその人形の声が、たくさんに聴こえた。一つだけではない。音程も、調子も、抑揚も様々に。彼女は言った。
「もうたくさんだ」
もう一つ。
「いい加減にしてほしい」
人形は黙った。そしてその手足を動かした。彼女に触られてない方の腕と脚を。ぴくっぴくっと最初はぎこちないその動きは、だんだんと滑らかになっていく。
「お前は」
また、それが口を開くと、今まで大した驚きも見せなかったよしこは突然にどきどきした。人形は、それまで人形然としたものが、生き生きと、生命力のあるものに見え出したからだった。
「おれの代わりにそうなったのに、何てとこ触りやがるんだって」
よしこは自分の体が、その夢の中でどうなっているのか知らなかった。夢の中で、気づくこともなかった。その両手両足、顔も、体も、どの部位も、つながっていなかった。指の関節一つ一つが、ばらばらにほどけ、目も、鼻も、唇も、舌も、それぞれが独立し宙に浮いていた。
つながりのない、それぞれの部位。そして彼女は、傷だらけとはいえつながった人形の手足を撫でている。
「おれの代わりにそうなってしまって、一体、お前は何だ?」
たくさんの人間の声。それが、ばらばらになった彼女の体の一つ一つの部位に話しかける。彼女に声をかけたのではない。彼女とも認識されない指や鼻にそれは訊いていた。
ただの集合の彼女はそれに答えようとした。だが、そんな言葉は出てこない。そんな言葉は未知だった。不安とおののきとが同時に彼女を襲った。それは生きている上で同時に襲ってくることのないものだった。彼女は自分が逃げられないという環境に怯えを覚えたが、それは思い込みの方の感情で実際はそうではなかった。
彼女は自分が一つのばらばらの存在であることに初めて思いが至った。目も、耳も、別々に活動することに初めて気がついた。手も、足も、両方逆に動いてもよかったのである。それを統合する自分という存在は、今の今まで、自分自身に宿ったためしがないことを彼女は思い至った。自分を制御する自分などどこにもいないのだ。
だが、初めて気がついたのはそれだけではなかった。自分は、生まれ立ての赤子をあやし、その胸に抱いたことを思い出した。それはまるでばらばらの自分が、否応なく集合し、そして合体し、赤子の前に、存在せねばならなかったことだった。自分が、その子の母親になることを、随分と幸せに思わなければならないことだった。それは二つのものが一つにならなければ起きないことなのだ。彼女は、旦那も愛していることに気がついた。それもまさしく初めて抱く、嘘偽りのない本当の感情だった。
彼女は気がついた。自分が、ばらばらの存在ではなく、ひとまとまりの、優れて人間といえることに。それは、今までずっと感じてこれなかったもの、人間が、おそらくそのような感覚を誰もが知り持つことであることの、裏返しだった。
彼女は墓場にいた。気がついたらそこにいた。そこは人形の墓石が並ぶ場所だった。墓石の一つ一つが、傷だらけの人形に彫られているのだ。小さな花が飾られていた。一つ一つのお墓の、二つごとの受け皿に。それぞれの花は、違っていた。大なり小なり、何本かまとめられ、異なる花が束ねられているが、どの花束にある花もそれぞれ違っていた。こんなに花に種類があるだろうか。よしこは興味深くそれぞれの墓石の前に並ぶ花を見比べた。
すると、巨大な火山が突然目の前に現れた。火山は、天井から逆さになり、火を吸い上げている。彼女はこの火山もばらばらに見えた。今しがた、自分がそうだったと気づいたように。仰ぎ見る火の山は火口も山裾も別々で、峰も、夥しい岩も、砂も、土も、全て別々の存在に映った。
そしてそれは炎を吸い込んでいるが、その吸い込む炎のために、山はかろうじて姿を留めていた。ばらばらでありながら、そうだと分かる、合体したものに見えた。よしこは山に向かってこう叫んだ。
「もうたくさんだ!いい加減にしてほしい!」
すると山は、たくさんの子供たちをその下に並べた。子供たちは、各々、両手に玉を持っていた。
よしこは自分も両手に玉を持っていることに気づいた。それは、温かく、手触りのよく、見事な凹凸の並びをその表面に持っていた。彼女は玉を撫で回した。ところが玉は、彼女の手の中で大きく膨らみ出した。
いけない。彼女は必死になってその玉を腕に抱えようとした。重さこそそんなに変わらないものの、どんどん膨張していくその玉はとても両腕に抱え切れなくなった。彼女は自分がばらばらの存在であることを思い出した。彼女は自分の身体を分解し、膨らんだ玉も持てるように、集合の網をつくった。
そしてがたん、がたんと眼下の子供たちが玉を落とし始めた時、彼女の目の前にはもう一人の女性がふと現れた。女性は、よしこを背にして、玉を、その両手に持っていた。ふと仰ぐと遠くに見えた火山がすぐそばに近づいていた。彼女は、死んだひろこの霊の背中で、その火山の降り注ぐ火の粉を髪に浴びた。




