彼岸を見た者 異界3-3.痛みの疲労
ひろこは絨毯の上に佇んでいた。それはまったく踏み心地のいい絨毯で、でかいライオンの刺繍が施されていた。彼女はここで来賓客のエスコートをしていた。客人をそれぞれの客室へ連れていくのだが、どうやらそれも一段落したようだ。がらんとしたホールには彼女だけがいて、せわしく動く人影は一人もいない。
彼女はぐでっとして疲れていた。慣れない仕事というわけでもないのに、仕事以外の疲労が急にその体を襲ったようだった。仕事以外といっても、家族はいつも通り、自分を送り出していたし、食事もまあまあうまかったし、布団だってすっきりと寝やすかったし、思い当たる節がない。しかし襲いくる疲労は普段自分が動かしていない筋肉だったり脳の部位だったりを包み、酷使した覚えのない箇所ばかりを苛んだ。彼女は歯がゆさを感じた。なぜなら急に疲れ出したその部位はもっとうまく使えたのではないか、もっと上手に休ませることもできたのではないかと考えられたからだ。彼女は普段から仕事以外の時に、確かにそういった体の部分を鍛えていた。それこそ現実の彼女のように、夢の中ホテルマンとして働く時以外に。
彼女は(夢の中)、足元の絨毯の上に寝転んだ。そうして天井を見つめた。疲労は普段動かしていなかったはずの筋肉から、次第にその他の、普段使っている腕なり脚なりの部位に飛び火していった。彼女はこんなにも自分は疲れていたなんて初めて知った。それまでは疲れ知らずと思っていたのだ。風邪を引いても重くならず、一日明ければたちまちに治り、骨折も数週間とかからずに癒える。だから回復力は自分の体によく具わり、よっぽどのことがなければ大病も患わないだろうと思われた。しかしこの疲労は何だ。どうも立ち上がれない。
彼女は手足のあちこちが痛くなった。そして肉ばかりではなく骨も痛み出した。骨の痛みは神経に届いた。神経の痛みはどうしようもなかった。とても耐えようとして耐えられるものではなく、思わず呻き声が口から漏れた。彼女は今や大病を自分は患ってしまったのではないかと思った。未知の病。多分そうだろう。どこからかウイルスが侵入してきて、全身を冒さなければ、こんな十全な痛みを体に届けないだろうとまで思った。彼女は呻きながら助けを呼んだ。だが、がらんとしたホテルのホールに人影は一つもない。
彼女はついに這い出した。ホールの玄関に向かって、とにかく外に出ようと。彼女は扉の取っ手をつかみ、Lの字に上げて、ドアを押し開けた。するとその先は、海だった。広々とした海。かまうものかと彼女は青海原へ全身を突っ込ませた。ざぶんと飛沫が上がり、その体は水中に沈んでいった。痛みは和らいでいった。するとダイバーが彼女を発見し、水の上に引き上げようとした。だが彼女はそれを拒んだ。もっと深い所へ、水底の方へ、沈もうとした。水深が深まるにつれて疼痛はどんどん引いていった。我慢できなかった神経の疼きも水の中へ溶けるように治まってきた。だが息は続かなかった。彼女は意識を失った。痛みに追われ、それを失くそうと必死になるうちに、その命を知らぬ間に追いつめていった。
そのような夢を、ひろこは何回も見た。悉く法律書を読もうとした時に。彼女はこうしているうちにいつか自分が死んでしまうのではないかと思った。いつも、水底に体が沈んでいって、そこで目が覚めるが。開けっ放しにした、法律書の前に。
彼女はざわざわとしたものを自分に感じた。そうだ、私は離婚をしたのだと思った。なぜ離婚をしたのだろう。あの旦那のどこが気に入らなかったのだ。あの息子の何が自分を遠ざけさせたのか。彼女はまるで分からなかった。自分が原因とは一度も考えられなかった。
本当に彼女は死の危機に瀕した。それから何度目かの同じ夢を見た時だった。彼女は自分がいよいよと目覚めぬまま現実も意識を失くすと夢の中思った。決まりきった夢、それは一定のリズムで、全く調子を崩さぬ経緯で、彼女を同じ結末へと運んだ。同じ疲れ、同じ痛みを伴って。彼女は自分が死ななければならないもののように自分を感じていた。再生のない物語が、ただ再現されるばかりで、いつも、何かを分からない自分をばかり照明で明るく照らし、日常もまた繰り返されたからだった。
彼女は死んだ。それが、他の逆火山の下に集った大勢の人間たちとは異なった結末だった。そこは生きていながらも、死にながらも行ける場所だった。死んだひろこは、逆さに膨れ上がった火山の噴き出す火の粉を顔にかけていた。そして、あの例の手触りの抜群に良い玉を両手に抱えていた。




