彼岸を見た者 3-3.西口ひろこと、法律書
西口ひろこはまじめだった。几帳面な性格をしていたが、大好きなトランポリンで遊んでいた。トランポリンも会社の事務作業もおんなじだった。一定のリズムで、跳び上がり、キーを押し、空中で姿勢を正し、資料を読み、また跳び上がるからだ。彼女は仕事と趣味のつながりをとても大事にした。旅行へ行く時も何よりタイミングを重要視した。列車に乗るタイミング、キヨスクで弁当を買うタイミング、旅館にチェックインするタイミング、散策、入浴するタイミングは、どのツアーに行っても一定だった。そうすれば身体のどの部分が活発化していて、日頃使っていない筋肉が(頭の中の部位も含めて)ほぐされるか確かめられやすいからだ。彼女はまじめだった。つまり、一定のリズムを崩したくなかった。
どうしてもそれが崩れてしまうのは旦那と結婚してから、子供が生まれてからもしばらくだった。しかし、今となっては職場復帰もして子供も保育所に預け、悠々と自分の時間を都合できた。彼女はよく働き、よく動いた。そして勉強もした。将来の会社興しのために、法律をかじり出した。
その時彼女は、ある法律に目が留まり動かなくなった。経営に関する法律だが労働者の規定労働時間について定められたものだった。つまり、時間外労働に言及した箇所に。彼女はこれは意味の無いものに思えたのだ。彼女が勤めている会社にはタイムカードがあり、それを差し込むことで勤務時間が機械に登録されるが、それは会社にいるいないの時間の幅で、では実際の労務はどうなのかと彼女は考えた。一般的な社会人なら、プライベートと労務は切り離して過ごすべきだろう。だが法定時間などどこにその根拠があろうか。人によっても考え方によっても働ける時間はまちまちなのになぜ時間外労働などという言葉が当然の如く翻るのか。彼女はこうした法律によって守られている社会環境には思いが行かず、どうしても個々人の裁量によって決められるべきリズムというものに考えが至った。
彼女は病んだ人間をあまり見たことがなかった。それは街中に溢れているが、自分で自分のリズムを決められない人間などごまんといた。彼女は珍しいのだ。ひろこは自分の速度で行動も思考も進めていたが、それゆえにその速度の根拠は省みられなかった。彼女は何も煩いたくないためにそうした行動規範を遵守していたのだが、それによって人の持つ煩わしい思いというものに目が届かなくなった。彼女は自分の速度を保つために、人のリズムに合わせることを全く考えない人間だったのだ。それは傲慢な生き方であり、いつでも社会に爪弾きされてもおかしくない立場だった。
彼女は自分が危機的立場にあることを知らなかった。唐突に旦那から離婚状を突きつけられても何のことか分からなかった。子供も彼女に懐かなかった。そして、彼女が人の事など理解できない人間だということを、その周りの人間はよく判っていた。
ある時彼女は同僚から冗談めかしながらも彼女の旦那と子供をそっくり渡してくれないかなどと言われたことがあった。彼女は笑いながら、「うちの夫と息子で良ければ」などと返した。その場は笑いで済んだが、この時のことを省みて彼女は「それでもいいかな」と考えてしまった。離婚は成立した。彼女があまり現家族に思い入れがなかったために。彼女はせいせいした気持ちになった。そして第二の人生を歩むべく、法律の本に手を伸ばした。
その法律の本は全て文字が緑色に光っていた。ぎらぎらと目に痛いほどに文字の列が激しく輝くと、決まり事の渦に彼女の意識は深く昏睡していった。




