彼岸を見た者 3-2.南川やすとと、奇跡
南川やすとは牧師だった。つまりは、プロテスタントの神職だ。彼は日々祈りながら働いていた。若くして僧侶を志したのは幼い頃妹を亡くしていたからだった。彼は祈らずにはいられなかった。
彼のせいで、彼女は亡くなったのだから。そして、彼はそれをごまかしたから。多くは言えない。なぜなら彼は妹にあらゆる悪事を働いていたから。性交を強要したこともある。クラスのいじめも積極的に指導した。親からは見えない所で、彼は妹に対し思いつくだけの犯罪を犯し、そして死に至らしめた。まだそのことは誰にもばらされていない。
生まれた時から妹は彼のおもちゃだった。何やっても面白かった。一々反応する彼女はまったく体のいいおもちゃで、彼は、彼女の身体も、心も遊び道具として見た。そしてその恐ろしい支配に妹が拒絶し始めると、なおさらひどく扱った。妹は自殺した。彼は体のいいおもちゃを失った。
失った後で彼は非常に気分が悪くなった。なぜならおもちゃはたとえ壊れても修理するか、新しく買い直されるもので、失ったとしてもそれほどダメージはなかったからだ。彼は同じものを求めたが、どこにもそれは見つからなかった。
なぜ見つからないか、彼は考えた。彼は自分の妹が、代えのきかないものだったと気づいた。替えのきかないもの。それは唯一のものだった。彼は代えがきくものとして妹をずっと扱っていた。それは壊れても故障しても直せるものだと思っていた。
いや人間にそんな感想を抱くことがあろうか。いや、ある。あるから人は犯罪を行う。それが良いことなのか悪いことなのか全く知らなければ。彼は人から裁かれることのない犯罪を犯したが、誰からも責められなかった。彼は、このことを打ち明けようとしたことがある。たまたま、教会の告白所が開いていてそこで話してみようと思った。しかし誰かがそこで話を聴いていると考えたら、彼は別の話をしてしまった。別に告白話ではない。近所で小さい子供がこのように遊んでいたとか、給食の料理がまずかったとか、そんな話だ。影の向こうで確かに誰かは話を聴いてくれた。それがどうも話した内容以上のことを、向こうは聴いたような気がした。つまり、彼の心情、思わず妹についての話は隠してしまったことなどを。彼は嘘をつくつもりはなかった。訊かれれば答えられるずのことを、打ち明けるつもりでいた。別に彼はまだ悪いことをしでかしたつもりはなかったのだ。
なのに彼は、重要なことを告白していないにもかかわらず、その教会の手伝いを始めた。そして信頼されるまでに真面目に奉仕した。彼はプロテスタントの聖書の暗唱も任せられるようになる。歌うことは好きだった。響きよく彼の声は教会を満たした。
その反響する声に、彼はたじろいだ。あまりにいい響きで響くから、発した自分の声はどこか荘厳な天使の歌声かのように聞こえた。彼はついに聖書の一節一節の全てを暗誦する。そして牧師になる資格を得た。
牧師になるということは、勿論教義を理解し、教え広められるようになるということだ。彼の頭の中には神と子とのやり取りの全てが、何が善で何が悪かの区別が、人間という生き方の是非が、きちんと整理されていた。おかしなことだが彼は一度も教会に勤める間、妹のことを考えたことがなかった。
彼はついに一つの教会を任せられる身分となったが、空っぽのがらんどうの建物の中を見て、あっと強烈に叫んだ。自分は何をしていたのだろうと初めて省みた。省みたのは妹のことではない。自分がいつのまにか信者を志し、そして教唆できる者にまでなったことだった。彼は教え広められる者になった。その時に彼は妹を自分の教会に迎えたいと思った。生きていれば、自分が、彼女に色々と教えることができたのにと。
その時に、ふと、彼のしでかしたことの全てが蘇ってきた。自分はまるでもののように妹を扱い、そして自殺にまで追い込んだ心の羅列を、逐一思い出した。どんな態度で彼女に接してきたか。そして彼女が死んだ後、それを非常な満足にも感じていた。誰かを蹂躙し、ひざまずかせ、思い通りになることを。彼女が死んだ後彼はひどく気分が悪くなっていたが教会に勤め始めてそれはなくなった。
彼は妹を唯一の存在だと認めたが、それは替えのきかないという意味でしかなかった。彼は代わりを探さなかったが、彼の為したことの代わりは手に入れた。つまり、牧師という身分、教え広められる役割という強圧的な地位を。彼はこの時に苦悩を始める。つまり、彼が教唆する相手は替えのきかないものだということがよく分かり、そのために自分は妹のように教会に来る者を扱えないと感じたためだった。彼はみじんも自分の妹に愛情を感じていない。ましてや訪れる信者にはもっと冷たいものを抱いた。だがそれは人を人として見ていないためで、自分は人とは違うとも感じていたからだった。ところが彼は人は人として見ていないが、存在は存在として見るようになってしまった。一人一人が独立して見えるようになってしまった。替えのきかないもの。唯一のものに。
彼は一人一人に関われなくなってしまった。随分と自分の仕事に支障が出るようになってしまった。彼は存在同士が関わり合う最も基準となるものに精神を寄り添わせ、そしてそれに囚われた。つまり、何もかもが自立して、自分に働きかけてくるということに。
彼は、まったく偶然にだがレンタルの自転車に乗った。それは決まった場所に駐輪すれば返したことになるものだったが、駅前に並べられてあるそれを拝借したのだ。彼はおもむろにそれを漕ぎ出した。爽やかな風が海辺を洗い、そして彼を追い抜いていった。彼は風に負けないくらいスピードを出した。例によって彼はトンネルに入った。三本のトンネルを抜けた後だった。何もない所で、トンネルの中でもないのに、彼の視界は暗くなり、別世界に飛ばされた。




