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命の危機がある者たち 異界2-4.踊り場

 呑み込まれた彼の体はどこかへと落ちていった。そして、ざぶんと水に浸かった。勢い良く落ちたわりには水飛沫も少なく、体への衝撃も小さかった。とものりは暗い地下に放り投げられた気がした。ばしゃんという水の跳ねる音が反響したからだ。建物の中でも反響はするが、彼は洞窟の中で聞いたことのある音の響きと今の音が同じようだったから、ここは地下なんだろうと想像した。それに、さっきの水の音だけではなく、別の、不思議な音もずっと反響していた。直接耳に入ってくるその別の音は、何かの残響のように聞こえている。しかし彼以外、そして小さく揺れる波以外はそこに動くものはなかった。そして、そこは確かに暗かったが、薄明かりが辺りを覆い、何もかも見えないほどではなかった。

 彼は鼻血を出した。つんとくる痛みが鼻の奥に起きて、ぼろっとそこから血液が漏れてきた。彼は鼻を拭った。ぼんやりと両手両足を動かしながら、立ち泳ぎをしているのだが、不思議と体は沈まず、地面に立っているのでもないのに背筋は伸び、片手で鼻を拭うのも造作なかった。彼はここは海だと思った。あの世の海。この世のどこかではない異次元の海へ、自分は落ちてしまったのだと思った。

 そこへ緑色の光を放つ若い女性が近づいてきた。顔は大変に美しく、彼は女神だと思った。あの世に女神。女神は裸足で、宙に浮いていた。彼女は何の音も出していなかった。依然不思議な音がずっと反響しているが、ひらひらとはためくその衣の裾も、風圧に煽られているように見えるその桃色の襟足も、物静かだった。女性は長裾の着物を着ていて、青色の帯をあしらっていたが、髪に挿したかんざしは黒く塗られていて、着物も桃色の襟以外は真っ黒だった。だが緑色を放つ光芒はまぶしく、彼に恐ろしいものを見たような感想は抱かせなかった。

 とものりは勇気を出してこの女性に挨拶した。

「こ、こんばんは!」

 女性は頷いてにっこり笑った。彼はそれで安心した。話が通じる。

 そう思ったが、女性はぐるっと真横に回ってかき消えてしまった。渦状にその姿が回転して、細い線になって、暗闇に。とものりはあっけに取られて驚いたが、何だか救いようのないものをそこに見た気がした。女性はきっとその歳になって死んだんだと想像した。

 なぜならそうでなければ消えたりなどしないから。彼はそう思った。するとさっきの女性の放っていた緑色の光芒が、彼の足下から涌き出した。水中から、淡く神々しい光が強まって、水面までそれは到達した。彼は次第に水の上がその光で隈なく照らし出されていくのを見つめた。その時、ここは、あの世なんかじゃない。そう彼は直感した。

 ここは、色んな人が集まってくるような踊(・)り(・)場(・)だ。彼は踊(・)り(・)場(・)という単語こそ頭に浮かべなかったが、廊下の隅っこや、階段のフロアとフロアの間、そしてホテルのホールや、学校の下駄箱のある玄関口などを想像した。大勢の人が集まるけれど、そこに留まらない、開けた場所。休み時間などはたくさんの人間が集まるけれど、授業中なんかは閑散としている。

 まるで玄関だ、と彼は思った。ここは、入り口と出口が一つの、通り過ぎる場所。緑色に染まった空間を見て、彼は、思い切り息を吸い込んで水の中を覗いた。するとそこにはたくさんの小魚が集まっていた。きらきらと鱗を反射させる小さな魚たちは、隊列を組んで、右に左にジグザグに泳いでいた。

 そして、細長いウミヘビのような魚に出会った。サヨリか、カマスか、最初こそ細長いからヘビのようなものかと思ったが、真っ直ぐになってくねらず、彼のように立って泳いで、頭を上に向けている。それは始め十匹ほどだったが、水底から次々に浮かんできた。そして見るも綺麗な立ち泳ぎの列ができて、その隙間を縫って小魚たちが悠々と泳ぎ出した。彼はこの景色を父親に見せたいと思った。いいや、兄にも、友達にも。そしてお母さんにも。

 彼は、言った。「元に戻してあげるよ」と。すると、魚たちは一斉に水底深く潜り、緑色の光もまた水面の下に引き上げていった。彼は、また暗い薄明かりのどこか分からない水と空気の狭間に取り囲まれた。そして誰かを呼んだ。自分を。

 自分を。「とものり!」と。


 それは父親の声だった。彼は目が覚めた。しかし、そこはいまだ異界だった。あの、火山が逆噴火している、しかもその火山は上からそびえている、火の粉が舞う、地の底だった。

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