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命の危機がある者たち 異界2-3.神の変節

 彼はそこで様々なものを見た。皆働く人間だった。机の前でやかましく唸る人々、電話越しに謝りまくる人々、街頭に出て必死に呼び込みをする人々、帳面を見て頭を抱える人々。どの人間も現状に不満を持っていた。どの人間も何らかの危機に面していて、自分の力ではどうにもできなかった。とくやは肩を落とした。全身から力が抜けた。どうしてこの社会は、こんなにも報われないのだろうと、半ば絶望感がその体をよぎった。そして怒りがふつふつと腸(はらわた)から煮え立ってきた。

 彼はその社会を何にも見てきていなかった。彼は顧客の訴えあってこその商売で、弁護士時代も会社員時代も、特段に物事の背景を想像してこなかった。彼には想像力が足りなかったと言えるだろう。皆の生活が何で成り立っているか、全然知らないところがあった。

 彼はだから辻褄の合わないことに猛烈に怒った。そして目の前の誰かを害することが自分自身にあっても、そうは受け取らなかった。自分が正しい。何より正義を貫いているのは自分だと、疑うところはなかった。

 夢は、そうした彼の正義感を、増幅させるものを見せた。虐げられていると見える人間を、絶望にうちひしがれていると思われる人間を、そこに見せた。彼は彼らを見るたびに、どうしようもなくこの世を変えたいという希望を持つようになった。めちゃくちゃだ、この世界は。何にも救いがない。それならいっそ全てを壊して、新しく作り変えた方がいい。戦争など起こして、もう一度真っ平にして、そこからあるべき国の方針をつくり、全員が真っ当な暮らしを受け入れられるべく、自分が根本から法律をつくり出さなくちゃならない。

 そんなことを、緑色の扉をくぐるたびに、彼は思った。しかし、その夢は彼が見させられているものだった。能動的に出会っているものではなかった。彼は、ある町に到着した。そこはてつややまちこたちが暮らしていた、あのスポーツ施設が充実した、山あいの狭い町だった。そこで彼はきびきびと動くスポーツマンたちを間近で見た。どの人間も自分の記録に挑戦し、自分を追い込む、厳しいトレーニングを積んでいた。彼はこのような世界を分からなかった。いいや、ずっと側に置いてあったのだが、知らずに世の中を渡ってきた。彼は弁護士であったにもかかわらずクライアントの生活の背景を知ろうとしてこなかったのだ。徐々に、彼の見る夢は彼のよく知らない、人間が、それぞれの人生を一生懸命に生きている様を見せるようになった。彼は、夢の中で増幅された正義感を、だんだんと違うものにしていった。それは辻褄の合うものになっていった。つまり、人の、動きや暮らしに、それを継続していくものになった。破壊ではなく、維持。それは当然の営みを続けるに際し、必要とされるはずの社会の力、あるいは、人々の根気のある生きる力に変えていった。

 彼は、自分の思考から脱した。そしてまるで人間を慈しむ光か、神のようになった。彼は、だがそれまで一種の神のように、全世界を断罪していた。自分すらも。だから、正義感を揮う怪物のようになっていたのが、次第に出来事をその背景をちゃんと把握するヴィシュヌ(平衡を司る神)と化していった。だから彼は、人間の、誠実な営みが見つけられるようになっていった。

 次第に彼は、自分が遠ざかる景色のように、暗い星々の彼方に自らを引っ込めていく感じになった。彼は、人々の暮らしの一切をタッチせず、それには関わらず、それを見守る存在になっていった。そしてその存在は薄らいでいった。悠久の時間に融け、悠久の風にでも変わっていった。


 そして、彼は、あの暗闇にいた。明るい火がぼうぼうと目の前に燃え盛る、天井のある大地に。しかし火は、逆巻いていた。天井に、呑み込まれていた。

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