命の危機がある者たち 異界2-2.つまらなき夢
ともこは少女に戻っていた。いいや、少女であるにもかかわらず、我が子を抱いている。それは自分の息子というわけでもなかった。再婚した人間の子と一緒に暮らしているからだった。彼女は周りの人間が、自分より年上の大人たちがあくせく働くところを見ている。せわしなく、そして慌ただしく動き回っているのは、彼らが工場でたくさん動かなければならない仕事をしているからだ。おそらくは印刷業らしい。刷る紙の、そしてインクの、匂いがする。
ただ彼女はまだ彼らの仕事はよく分からなかった。たくさんのその他の母親たちと共に、子守をしていて、温かい自分の子供として預けられた幼児を抱えて、目まぐるしい現場を茫然と眺めるばかりだった。
そんな自分が、現在のともこと重なって見える。彼女は白昼夢でも見ているのかと思ったが、下らない日常の中にわずかに見るべきものを見つけた気がして、ある意味快かった。異常というものが自分の人生には足らないものだと分かった。彼女はやはり飽いていたのだ。そして、今自分と重なって見えているものは、いくら本や映画などで味わえるといっても、その種の非日常ではなかった。彼女はよく分からなかったが、命の危険が本当はあった。いつでも開いている異世界の扉というものは、安全など何一つない。
そう、彼女の傍には扉があった。奇妙な緑色の光を放つ、曖昧な扉だった。それはゆらゆらと陽炎のように揺れ、ここに入れとともこを誘っているようだった。思わぬ冒険に彼女は胸がわくわくした。しかしそれは終わりのない冒険だった。彼女は次々と自分以外の誰かになり変わった。工事現場の労働をしていたり、小説を書いていたり、プールサイドで監視員をしていたり、様々な職業に就いた。そしてそのどれもが、現実の生活には感じられない充実感があった。初めの子守をする少女の時もそうだ。少女はおそらく年上の旦那の言いなりになり、腹違いの子供を宥めすかしながら、これだけが今できることに違いないと思い込んでいただろう。それはしかし、本当はつまらないと感じた現実の生活の中にも感じうることだった。実は、どれも夢の中で体験していることは、これだけしかできない事の連続だった。厨房の皿洗いも、銀行員の金勘定も、街頭のティッシュ配りも、全部彼女にとって刺激的な体験だったが。人は、三番目かあるいは四番目の体験を持った。それは家族と、仕事場にいる同僚と、共に過ごす以外の居場所だった。眠る時、夢を見て、あるいは疲れた体を休ませて、その日一日の体験を綺麗に掃除するように片付けることだった。それは一々普段の体験を気に留め、意味づけを行った。それは正しく現状を理解し、己を受け入れる準備をさせた。彼女は、あるいは彼女たちは、そうした夢を見ていたのだ。
ともこは次第に終わりのない刺激的な冒険にも飽きてきた。それはもうほとんど日常となっていて、繰り返し、あまり変哲の無いことをただやったことのない仕事だからと手を付けていただけで、それ以上でもそれ以下でもなかったことに、彼女は気がついていった。なんだ。どうせ以前の暮らしとそう違わないではないか。彼女はまたつまらない日常に戻った。
戻ったはずだった。目の前に逆さ火山が聳えている。あらゆる変哲の無い仕事を、英雄でも開拓者でもない役割を、飽きるほどこなし続けたともこは、いつのまにか何の仕事もない、手持ち無沙汰で、地下の、地獄ともうかがえる不思議な地底世界に迷い込んでいた。




