命の危機がある者たち 2-2.岡城ともこと、つまらぬ日常
岡城ともこには許せないことがあった。それは旦那がいつまでも外に出ず、働きずくめだということだった。彼女たち夫婦に子供はいない。なのに二人の時間を楽しむ余裕がない。夫はデイトレーダーだった。だから常に画面を見続けて、株式の売買のタイミングを考えないといけない。八時間の不健康な労働を終えると相方はぐったりと疲れた。ともこは料理を作ったが、一度もおいしそうに旦那が食べてくれたことはなかった。
それでもよかった。夫は優れたトレーダーだったからだ。今では株取引とは別に資産を蓄えているから、老後の分まで心配はない。たとえ年金が受け取れなくたって十分だった。二人は今でこそほとんど会話しないが、夫の生活の面倒はすべて妻が見ていた。言ってみれば家族経営の自営業をしているようなものだった。そう、満足していた。その満足が許せないものに見えてきた。ともこは飽き足る満足というものがここにないことを知った。つまり、ずうっと平穏なのだ。何も望むことはない。この空虚。このつまらなさを、結婚後十五年目となるこの年に、痛いほど身に沁みて分かった。
彼女は優秀な証券社員だった。自分の足で顧客を稼いでいた。明るく、平和的で、いつも楽しげな会話をする良き話し相手になった。今の旦那はその時の顧客だ。向こうから交際をせがまれ、めでたく結婚した。何不自由ない暮らし、親に一切の不安をさせない日々が手に入った。だが子供はできなかった。彼らはステータスを手に入れたが、他の一切を手放した様子だった。六畳一間にあるべき団欒、そして子供のいることの賑やかさ、騒々しさ。思い煩うことはなく、ただ日々がある。暮らしていく日々。
そうこうしているうちに四十歳を迎え、人生の後期に差しかかった。彼女は少し離婚も考えたこともあった。あまりにつまらない日常のため、一文無しの生活に憧れることさえあった。彼女は気を迷わなかった。だから不倫とか、万引きとか、ちょっとした刺激になる反社会的なことには手を出さなかった。代わりに、いっぱい本を買ったが。映画もよく見たが。
ふつふつと、何かが自分の中に煮え滾ってくるのを、ともこは感じた。怒りとも、限界とも捉えられない。それはよく見れば当たり前のように少女たちが持っているもの、普通の夢、憧れというものだったが、彼女はそれを犠牲にしていることさえ気にしなかった。大人になればそれは当たり前のようにかき消されるもの、いつのまにかなくなっているものだと彼女は考えていた。しかし、今ふつふつと煮え立つのは、そうした一般的な、誰もが持ちうる子供じみた姿勢だった。ともこは子供時代にそうした夢や希望などと対峙したことはなかった。別段、そうしたことに関心がなかっただけだが、最近になってそれが顔を出してきたのだ。四十にもなってから。
とても旦那には言えなかった。言えばきっと日々の世話をする私をなじるだろう。誰のおかげで今生活できているのかと。老後の心配まで皆無なのは俺の腕前の良さがあってこそなんだぞと。とても「今の暮らしをやめましょう」なんて言えない。彼女は夫に今の仕事をやめてほしく思った。二人で一緒に別の事をやりたいと思い出した。二人一緒がいい。私だけでなく、ばらばらに違うことをするのでもなく。家族経営なら何でもいい。煙草屋でも、駄菓子屋でも、古本屋でも。デイトレーダーはもう嫌だった。夫婦揃ってまるで缶詰にされて、それだけで疲れて、波風の立たない変化のない暮らしをすることに、心が参っている。
ともこは旦那の生活の面倒を見るのが趣味だった。できない子供の代わりに、彼を子供のように見ていたのだろう。母性的な本能はそこで満たされていた。彼女は夫についていくならどこでもよかった。自分からこうしたいとはなかなか言えない性格だった。
窓口は開いていた。彼女は六つのトンネルを抜けていないにもかかわらず、あの世界に茫然と突き進んでいた。




