ハッピーエンド
まどろみの中、人の悲鳴を聞いた。その声はいつだったか聞いたことがある気がしたが、それが誰かは思い出せない。きっとどうでもいい相手だったのだろう。それ以上、その悲鳴について考えるのはやめる。
しゃーっというカーテン特有の音が耳について、俺は目を覚ました。ぼんやりと開けた視界の端では、メイドがカーテンをタッセルでまとめている。朝日に照らされた銀髪は目が眩むほど綺麗で、俺は虚ろな目でただその姿を見ていた。
ふと彼女はこちらに気づくと、やはり少し寂しそうな笑顔を浮かべた。
「おはようございます、圭人様」
「あぁ、……おは、よう」
その一言だけで、胸が詰まり息ができなくなった。こみあげてくる何かが喉の奥をせき止めて、やがて目から涙が次々に零れ落ちる。
なんだこれ。待って、可笑しいほど体が言うことを聞かない。なんでこんなに苦しいんだ。どうしてこんなに涙が出るんだ。なんで――
「圭人様」
やわらかな感触が俺の手を握った。そっと割れ物を包み込むようにメイドは両手で俺の手に触れる。それは、温かな熱が冷え切ったこの手を溶かしてくれるように感じられた。
「本当に、申し訳ありません」
お前が謝ることじゃない。悪いのは、お前を殺した俺だ。だがその言葉も、止まらない嗚咽に遮られる。
「そして、ありがとうございます」
ありがとう? どうして彼女は、自分が殺されたというのに人へ感謝をできるのだろうか。それも、彼女を殺したであろう張本人と全く同じ形をした人間に。
だが彼女はやはり微笑む。その儚い美しさは、どうしようもないほどに愛おしい。
「最期まで、『私の』側にいてくれて、本当にありがとうございました。ただずっと、私を抱きしめてくれた圭人様の感触は、もう二度と忘れられそうにありません」
「……あれは、俺がただ辛くて」
「それでも、私はとてもうれしかったんです。だから、私は圭人様に感謝しています」
荒んだ心に刻まれた傷が、一つ一つ癒されていくように感じた。このメイドという存在がすべての元凶だ、と考えたこともあった。だが、そんなこと絶対にあるはずがない。今は自信をもって、そう断言できる。
彼女は俺の布団をめくると、俺へ手を差し出した。
「……さぁ、支度をしましょう。学校に遅れてしまいます」
「あぁそうだな。学校に行かないと」
真っ白な、作り物のような手。それを取って、俺は立ち上がる。
学校に行って、しなければいけないことがあるのだった。恐らく俺にしかできなくて、俺が必ず遂行すべき使命。何があってもそれだけは達成しなければいけない。例え、この世界軸を棄てることになったとしても。
「今日は一緒に行こう」
「私も学校へ、ですか?」
「あぁ。たまには悪くないだろ?」
驚きを見せた彼女だったがすぐに俺の真意を理解したらしく、えぇそうですね、と辛そうに笑った。
いや、本当ならばこの家からもう出たくはなかった。外で起きるであろうその惨劇を、俺はもう見たくはなかった。
本当は心のどこかでわかっているのだ。俺が何をしようとも、目の前で笑う彼女とあのアルバムの少女は傷つくのだと。ならば、何もせず、ただ閉じこもっている方が利口ではないかと。
だが、まだ今は諦める時ではない。心の奥底で、何かがそう叫んでいた。
そこから身支度を済ませてから家を出る。俺にしては珍しく、今日はまともに髪を整えた。中途半端なこの俺の容姿だが、少し弄ってやれば多少はまともに見える。鏡の前で必死になる俺を、メイドはどこか楽し気に見ていた。
玄関にはまたあのゴミ袋が置かれていた。
「今日は早いじゃん――ってその人は?」
昨日綾乃と別れた曲がり角では彼女が塀に寄りかかって俺を待っていた。マフラーを引き上げて寒さをこらえる姿はとても絵になったが、こちらに気づくと彼女は目を丸くする。当然、その視線の先は俺の後ろについてくるメイドだ。
「あぁ。うちのメイドだ」
「初めまして、圭人様のメイドを務めさせていただいている者です。どうぞお見知りおきを」
にこりと笑って一礼するメイドに、綾乃は気圧されたようだ。「行こう、学校に遅れる」と歩き出した俺を、彼女は「ちょっと、説明しなさい……」と睨みながら追いかけてくる。
学校までの道は、なかなかに愉快だった。片方には銀髪のメイド、片方には黒髪の制服少女。そんな状態の俺は、当然衆目に晒される。中にはこちらを指さす人もいた。もしかしたら彼女たちと不釣り合いな俺を嗤っていたのだろうか。だがそれも、なぜか不快ではない。
校門に教師がいなかったのは助かった。おかげで、生徒の訝し気な視線は受けたもののメイドが学校へすんなり入ることができた。靴箱で上履きへ履き替えてから昇降口へ。
「で? その子はどうするつもり?」
周りの目をはばかりながら、綾乃がそう問いかけてくる。
「綾乃に任せる。生徒会室なんかでお茶の相手でもしてやってくれないか?」
「はぁ……? なにそれ」
「そのままの意味だ。たまにはサボりも悪くないだろ?」
「サボりはいつでもどこでも悪いに決まってるし。……どうせ何か訳ありなんでしょ?」
そりゃあ訳ありに決まっている。訳がないのに、銀髪メイドを突然学校へ連れてくる馬鹿が居てたまるものか。
呆れ半分、疑念半分といった表情の綾乃は、メイドを一瞥した後に大きくため息を吐いた。
「……今晩は圭人の家に食べ行くから」
「ご馳走を用意して待つことにするよ。――頼んだ」
そこで俺は二人と別れる。メイドが「どうかお気をつけて」と言ってくれたおかげで、なんだってできるような気がする。
初めて入った高校ではあるが、やはり体が覚えているのだろうか。特に迷うこともなく屋上への階段は見つかった。その扉は、当然のように施錠されていない。それを開くと、冷たい風が一気に全身へ押し寄せた。
「……やっぱ俺は律儀だな」
「残念なことに、な」
屋上に足を踏み入れて呟いたその一言。それにその男は表情も変えず返答した。振り向くその顔は、今朝鏡の中に見たそれを幾分の狂いもない。要するに、十七年間付き合ってきた俺の顔がそこにはあった。
もう少し見慣れた黒いフード。そのポケットに手を突っ込み風に吹かれる姿は、どことなく様になっている。
「それで? お前はどんな話を俺にしてくれるんだ」
「俺は話をしよう、と言ったはずだけど。もちろん俺も話すが、お前にもいろいろとしゃべってもらうぞ?」
「お前の話の内容によるな」
ちゃんと俺の舌は回ってくれていた。掴みは及第点。加えて俺の頭はまだなんとか冷えている。憎しみや怒りなどを一瞬でも見せたら負けだ。すべての感情を支配して、存在するかどうかも怪しい勝ちを全力で取りに行く。それが俺に求められるすべて。
まず皮切りに余裕でも見せてみようか。俺は不敵な笑みのような何かを口元へ貼りつけてから話し始める。
「まず確認だ。俺は別世界軸の俺、という認識で間違いないか?」
「あぁ」
「そりゃ結構。二つ目。お前は俺やあいつら――綾乃やメイドを殺害しようとしている。違うか?」
「半分正解。いや、正確には三分の二正解だ」
その言葉に、思わず余裕を装った表情が崩れる。それを見て、そいつは少し目を細めた。
三分の二、ということは、二人は排除しようとしているが一人はそうではない?
「――綾乃か?」
「あぁ、そうだ。お前が散々傷つけた、夜神綾乃を守る。それが俺の目的だ」
「意外とすんなり話すんだな」
思わず、何も考えずにそう言っていた。まさか、こいつが自分の目的をこうも簡単に明かすとは思わなかった。だが、さらに疑問点は生まれる。綾乃を守ることが、どうして俺やメイドを殺すことに繋がるのか。
「……正直に言うと、俺は今すぐにでもお前を殺してしまいたいんだ」
「奇遇だな。俺も同じ心境だ」
自分が自分へ殺人願望を持っている、というこの状況は少しばかり可笑しかった。あるいは、俺の頭がもうおかしくなっているのか。
だがそう会話を交わす俺たちの声は本気だ。俺と同じように、彼もただならない理由があって俺を殺したいと願っているのだろう。
「じゃあどうする? ここで殺し合いでも始めるか?」
俺のその提案を、彼は鼻で笑って却下した。そのことに少しでも安堵を覚えている自分に気づき、少し焦る。
「その展開は今まで死ぬほどあったよ。だが、それじゃ何も解決しない」
「平和主義にでも目覚めたか?」
「違う。殺し合いじゃお前は殺せないんだ。お前は性質が悪すぎる。たとえ殺したって他の世界軸に逃げては平然としているし、なにより自分がもう駄目だと悟ったら、ほかの自分にその役割を押し付けやがる」
「段ボールを使って?」
「そういうことだ」
つまり、様々な世界軸の俺はメイドや綾乃を守るためにこの黒フードと戦ってきた、ということらしい。そしてその過程における、『浅田圭人の入れ替え』は何度も繰り返されてきた、と。
また恐らくではあるが、それの回数をカウントしていたとするならば、10や100どころの話ではないのだろう。
「結局俺ばかりが喋ってるな。それで? お前はどんな結果を求めてここに来たんだよ」
そう問われてから思い出す。あぁそうだった。俺は、
「もちろん、お前を殺すために決まってるだろ」
これまでの人生で、出したことのない種類の声が出た。声色としては笑っているようなのに、その実ひどく荒んでいる。そんな声。きっと、人間がまっとうに生きる上では出すべきでない類の声だろう。
目の前の彼は、そんな俺に呆れているようだった。きっとこれまでにも俺は彼にこうして殺意を向けてきたのだろう。
だが、きっと今回は少しだけ違う。
「……って、言ってもどうにもならないってことぐらいわかってる。そうだろ?」
彼の今までの言動や矢代の言葉から考えるに、俺は今までに何度も失敗してきているはずだ。そして、今俺がこうして存在しているということはすなわち、完全なハッピーエンドを掴むことはできていないのだろう。
ならば、今までの俺がしてきたことをなぞっても意味がない。幾千もの試行を経て達成できていないこの難題を解くならば、存在し得るあらゆる可能性を試してみなければ。有り体に言うならば、俺は俺自身を捨て駒に使う。
虚を突かれた彼は「じゃあお前はどうするんだ?」と訊いてきた。
答えは単純。まず自分が取っていないであろう選択をするだけ。
「頼む。何があっても全員が笑える結末にしてみせる。だからこの世界軸だけでも、俺たちを傷つけないでいてくれないか」
深く、自分の誠意を乗せて、俺は頭を下げた。心の中の怒りを抑え込んで、ただ目の前の自分へ懇願する。頭に血が上って、足元がふらついた。なぜか、どうしようもなく息が詰まった。
「――」
返答はない。だが、彼ならばわかるはずだ。自分がこのような行為をすることに対して、どれほどの抵抗を覚えるのか。いまだに自分を特別視し続ける男が、他人へ頭を下げることをどれほど嫌うのか。それを本当の意味でわかる彼ならば、俺のこの願いを理解してくれる。
気づいたとき、そこにもう彼の姿はなかった。
俺は、ほとんど倒れこむように壁を背に腰を下ろした。そんなことしている場合ではない。早く生徒会室に戻り、彼女たちの安全を確保しなければ。……安全? あの黒フードがもし俺やメイドを殺害しないならば、俺は何から彼女たちを守るんだ?
あの男は、綾乃を守るために俺を、あるいはメイドを殺すと言っていた。ならば、綾乃にとっては俺が何らかの悪影響を与える存在である――?
これ以上考えてはいけない。反射的にそう感じた。俺が信じなければいけないことは、こうして黒フードの襲撃を無効にできたのは今回が初めてだということ。もしこの選択肢をとった自分がほかにいたとしたら、その俺の時点でハッピーエンドを迎えているはずなのだ。だから、『黒フードに頭を下げた』という世界軸はこの軸のみでないといけない。
「……そんなはずない」
零れ出た言葉。それに自分自身が驚かされた。
屋上の出入り口を出て、授業が進行する校舎内をさまよう。五分近くのろのろと歩き回って、やっとのことで生徒会室を発見した。
ひどく古い校舎だ。床のリノリウムは傷だらけで、天井はところどころ剥げている。窓ガラスはくすみだらけで透明度をほとんど失ってしまっていた。きっと、どれだけ拭いても落ちない類の汚れなのだろう。
「――待たせた――」
どことなく懐かしい生徒会室の扉。それを開けてまず生まれたのは、「やっぱりな」という諦めだった。
こちらを正面に向いて椅子に腰かける少女。俯きがちにじっと動かない彼女は、普通に見れば眠っているように見える。
カーテンの隙間から差し込む光が彼女だけを照らす様子はどこかステージ上のスポットライトのようで、少し幻想的でもあった。
だが、ぱっくりと開いた首の傷がすべてを帳消しにする。
鋭利なナイフで掻っ切られたらしい傷は、首の半分まで迫ろうかというほど深かった。そこからは鮮やかな赤色が彼女の胸もとまで広がっている。少し息を吸えば、血の匂いが鼻腔をくすぐるようだった。
黒板の下を見れば、そこにも糸の切れた人形が座り込んでいた。
たくさんのフリルが付いた胸元には、深々とナイフが突き刺さっていた。さぞかし勢いよく刺したのだろう。その周囲には血の飛沫が多く見受けられた。さらに、その傷の血はまだ固まっておらず、わずかではあるが液体が流れ出している。
別段、誇張して書くことはない。ただその部屋では、二人の少女が死に至っていた。
「全員笑える結末、だったか?」
背後から声が聞こえたときには、もう俺は飛んでいた。




