揺蕩うその幸せに
結論、どうやら世界は俺に幸せな結末を与えるつもりはないらしい。
物語の主人公のように、俺の心は強くない。幾度絶望的な困難に直面しようとそれを乗り越えるために現実と戦い続ける。そんなこと、普通の人間にできるわけがない。
ループもの、という物語のジャンルがある。俺のこの不可解な体験を物語としてまとめるならば、きっとそれはループものに分類されるだろう。だが、俺のこれはそんな生易しいものではない。
俺は、数ある主人公たちと違って、時間を巻き戻すことなどできないのだ。一見、俺は同じようなことをしているようだが、その実質は根本から異なる。俺は、常に同じ時間軸を歩き続けている。
目が覚めたのは、自分の部屋だった。
俺が選びとったのは、今日学校へ行かなかった世界軸だ。朝、自分の頭にちらついた『このまま学校に行かなければ――』という思考。俺はそれを、現実のものとした。
一階から、何かが倒れる音が聞こえる。続いて、何かが強く打ち付けられるような重い音が続く。短く上がった悲鳴に、そういえばあんな声だったな、なんて漠然と思い出す。別段、懐かしさは沸いてこなかった。
しばしして、階段を上がってくる足音が聞こえる。そしてそれが俺の部屋の前でとまったとき、俺は瞼を閉じて寝たふりをした。
ドアが開かれる音。カーテンが開かれる音。毛布を少しだけずらされる感触。彼女の細い指先が首元に触れた冷たさ。
「学校、休んでしまいましたね」
横たわるベッドが少しだけ沈み込み、彼女が俺のそばに腰かけたことを報せた。それと同時に、俺の手に彼女の手がわずかに重なる。ほんの少しだけ開いた瞼の奥で、彼女はまっすぐこちらを見据えていた。
「やっぱり。起きていると思いました」
「起きてない。まだ寝てる」
「本当に寝てる人はしゃべったりしませんよ」
呆れるように微笑むメイドのその表情は、どこか懐かしい安心感があった。いつだったかも、彼女にこうして呆れられた気がする。それはきっと、そう最近のことではない。
「学校には、もう行かないのですか?」
「もういいだろ」
「綾乃様は?」
知らない。もうどうでもいい。いなくなるのなら、俺の見ていないところで消えてくれ。俺は、もう関わりたくない。彼女の命が切れる瞬間をもう見たくはない。どうしようもなく自分だけが取り残される、あんな感覚はもううんざりだ。いわゆる『絶望』は、たった一回で十分満足する。
それにそれが、お前の願いなんだろう?
「今日は晴れか?」
「えぇ。うんざりするほどの晴天です」
メイドは窓の空を見上げて、無感情にそう伝えてくれた。俺からは見えないが、その瞳にはきっと不安になるほど高くて青い、秋の空が広がっているのだろう。恐らくそこには、雲一つだってありはしない。
「そりゃよかった」
「どうして?」
心底ほっとした自分を、少し嗤いながら俺はメイドにこう返した。
「天気にまで同情されちゃ、本当に悲しくなる。世界はそのくらい俺たちに無関心でいいんだよ。情景描写だとかそんなものは、主人公たちだけに適応されるものだろ?」
自分で言っていて、想像以上にその言葉は腑に落ちた。自分の感情を何かに重ね合わせるなど、身の毛がよだつほど気持ち悪い。かえって心の世界が反対の様相をなしてくれたほうが、俺としては安心するのだ。
「なんだか、圭人様らしいです」
「だろ?」
「でも、少し訂正させてください」
窓の外へ向けていた視線を、彼女は再びこちらに戻した。その瞳には、慈しみとしか形容できないほどの優しさが宿っていた。
「圭人様は、主人公です。それは、あなたもわかっているでしょう?」
その問いに、俺は何も返答しなかった。ここで何かを返せば、彼女は答えを俺にくれたかもしれない。何かしらの結論を出してくれたのかもしれない。だが俺は、それが嫌だった。呆れるほど単純な答えで、この世界が定義されるのを恐れた。
俺が何も語らないことに気づいたメイドは、立ち上がって学習机に歩み寄った。そうして、机から参考書を取り出し、その下の『それ』をこちらに見せる。
「これはどうしますか?」
ほんの一瞬だって逡巡することはなかった。初めから用意していた言葉を、俺は彼女へ伝える。
「あぁ。一緒に捨ててくれないか。どうせゴミ出しには行くんだろ?」
少しだけ虚を突かれたように眉を上げたが、彼女はすぐに首肯した。俺が気づいていない、などと彼女が思っていたはずもない。おそらく、俺があのゴミ袋について言及したことが意外だったのだろう。
別に、気づかなかったふりをしてもよかった。むしろ、そうしていた方がこれから始まる生活は気持ちよく送れただろう。だけれど何故か、俺はそんな無意味な皮肉を彼女へ返していた。もしかしたら俺は、あのアルバムを捨てることに少し抵抗を覚えているのかもしれない。まったく、情けないことに。あんたにも、この俺の気持ちはわかるだろうか? できればわかってほしいと思うが、やはり難しいだろうか。
少し説明、いや、結論を言おう。
――俺は負けたのだ。折れたのだ。
俺は彼女を忘れ、彼女にこの身を捧げよう。そうすることが最善の選択肢ならば、俺は喜んでそれを選び取ろう。その結果、だれも傷つかないでいいのなら。俺が、死を見なくて済むのなら。
なんとなくではあるが、俺はわかってきたのだ。俺はなぜこうして、内心でただひたすら独り言ち続けているのか。誰に対して、この独白はつづられているのか。第一――心の中で思っただけのことに、どうして伝える対象が設定されているのか。
その問いは簡単じゃない。だが、最初からあんたはわかっているんだろう?
「それでは、さっそく行ってきます」
「あぁ、気を付けて」
その言葉に「ありがとうございます」と一礼してから、彼女はアルバムを手に部屋から出ていった。間もなく、玄関の扉が開く音がする。
その音を聞いてから、俺は着替えて顔を洗い、朝食の用意されたリビングへ向かった。時計を見れば、午前十時。ブランチにはちょうどいい。コーヒーと共に摂ったサンドイッチの味は、血の匂いが混ざってよくわからなかった。彼女も少し焦っていたのだろうか。あるいは、喜びのせいで浮足立ったのか。
そんなことはどうでもよくて、すぐにその匂いには慣れた。
時間はどうしようもなく流れていく。その無限のように続く時間を、俺はひたすら無為に過ごした。その朝から始まったメイドとの生活は、ただただ平穏だった。
食事を摂って、たまに本を読んで、音楽を聴いて、メイドと他愛もないことを話して、古い映画を観て、窓の外の空を見上げて。
たまには彼女と一緒に料理もした。何を思ってか、チェスをすることもあった。俺がメイドに負けることはなかったが、どう見ても彼女が手加減していることは明らかだった。
朝と夜の境さえ曖昧になっていく。曜日の感覚なんてものはとうの前から無くしている。だが、体調はいたって良好。だれでもない、メイドのおかげだ。
ある日からは、メイドと一緒に風呂へ入るようになった。俺の躰に貼り付く虫を、メイドは悲しそうに見つめていた。虫は、人が超えるべきではない世界軸を超えたときに与えられる印らしい。前は嫌悪感しかわかなかったこの虫だが、自分が戦い、そして諦めた印だと思うと、わずかだが愛着も湧いた。
メイドとともに、眠ることもあった。




