続いていく
その後、小さなT字路で綾乃とは別れた。俺に事情を説明させようとした彼女だが、とりあえずはそれぞれ家に帰ろうと、三十分後に再び会う約束をした。
そこからはメイドと二人、家まで歩く。こうして彼女と帰るのは久々な気がした。きっと修学旅行を挟んだからだ。ただ、帰る家はいつもと違うけれど。
「……実は、少しだけ思い出したんです」
ずっと口をつぐんだままの俺より先に、彼女はそう話し出した。
「思い出したって何を」
「記憶です。ずっと昔のことや、少し前のこと。すべてではありませんが、大体の記憶は取り戻しました」
彼女のその言い方は、まるで今まで記憶を失っていたかのようだった。だが彼女にそんな様子が見られた覚えはない。
「どんな記憶だ?」
「そうですね。……圭人様が事故に遭って亡くなりかけた記憶など、と言えばわかって頂けますか?」
思わず、息を呑んだ。その俺の様子に気づいたメイドは、こちらを向くと困ったように微笑する。
「つまり、他の世界軸の記憶を?」
「はい。私も、圭人様と同じだったんです」
彼女の瞳が一瞬赤くちらついた。だがそれも気のせいだったと思えてしまうほど、彼女の青い瞳は深くそれでいて澄んでいる。
「圭人様が世界を移動するたびに、私もその後を自然と追っていました。いいえ、たとえ私が望まなくとも、この体は今の圭人様のいる世界へと向かうのでしょうね」
世界の移動、すなわちシャフトシフトの存在を、彼女は知っている? 赤い目ではなく、青い目のメイドがそう語っていることに、俺は肌が粟立つのを感じる。
「……よくわからない」
「そうですよね。混乱させてごめんなさい」
そうだ、最初からそうだった。俺は、何も理解できていないのだ。世界軸だの何だと言われても、すんなり理解できるはずがない。だけれどそこで立ち止まったらすべてが消えてしまう気がして、俺は必死にするべきと思ったことをやってきたのだ。
メイドが送られてきた日から、狂いだしたこの日常。もし彼女が俺のもとへ届かず、俺がシャフトシフトなどという能力を持っていなければ、この世界はどのように歩みを進めていたのだろうか。あらゆる可能性が存在するのだとしたら、そんな世界軸だってあるのかもしれない、などと想像してしまう。
「圭人様、まず最初に謝らせてください。圭人様をお救いできず、本当に申し訳ありませんでした」
その瞬間、二つの記憶が蘇る。ひとつは、ほんの数分前。名も知らない寺の庭で、腹を刺されたメイドのその姿。そして、もう一つはある病室。そこで、半ば狂ったように黒フードに襲い掛かったあのメイド様子。
彼女がどちらについて言っているのかはわからないが、少なくとも俺が言うべき言葉は決まっていた。
「そんなの謝られることじゃない。それより、さっきはありがとう。おかげで、こうしてまだ生きてる」
「この世界まで飛んだのは、誰でもない圭人様自身です。私が感謝されることじゃありません」
世界。その言葉を当然のように使うメイドには、少し不思議な雰囲気があった。
詰まる話、メイドは俺がなかったことにした世界における記憶も持っているらしい。しかし彼女に矢代と同じようなものか、と尋ねたところどうやらそれは少し違うらしい。
わからないことも多い現状ではある。だが、しなければいけないことは決まっている。
最も優先すべきはメイドと綾乃の命。何があったとしても、それだけは守らなければいけない。それはこの世界へ俺がシャフトシフトした理由でもある。絶対に、前の世界のような結末を迎えるわけにはいかない。
次いで考えるべきは、あの黒フードの対処。いや、言葉を濁すのはやめよう。別世界の俺が、どうして執拗に俺の命を狙うのか。それは知る必要があった。二人の少女を守るため、という以上に、何を思って俺という人間が自分自身を殺そうと思い立ったのか。それが純粋に気になる。
そこまで考えたところで、目の前には懐かしい建物が現れた。
「……久々に見たな」
俺が中学校まで住んでいた叔父と叔母の家だ。この世界において俺はこのあたりの高校に通っている。ならばこの家に住んでいると考えるのが普通だろう。
趣味の悪い装飾が施された門をくぐると、狭い庭を通って玄関がある。思わず拍子抜けしてしまうほど、庭にあるもの一つ一つまで変わっていなかった。気になるのは玄関先に置かれた二つのゴミ袋くらいだ。虚栄心の強い叔母が家のゴミを外に放置するなど昔は考えられなかったものだが。
インターフォンを鳴らす前にドアの取っ手を引いてみると、不用心にも鍵はかかっていなかった。
「……ただいま」
「おじゃまします」
家に入ると、独特の香水の匂いが鼻についた。以前から、この匂いはあまり好きではない。
叔父と叔母は家にいなかった。てっきり叔母は居るものだと思っていたが、買い物にでも出ているのだろう。メイドをリビングで待たせて、俺は部屋へ荷物を置きに行く。その後自分もリビングに行くと、メイドがお茶を淹れてくれていた。
「よく場所がわかったな」
「大体の場所は覚えていました。ぼんやりとではありますが」
「そうか。そんな世界も……」
そんな世界――メイドと俺が、この家で一緒に暮らすような可能性だって世界には存在しているのか。――――だが、それはどんな経緯で? 一瞬納得しかけた俺だったが、小さな疑問が頭に浮かぶ。その世界でも、彼女はこの家へ段ボールで送られてきたのだろうか。
「圭人様、少し散らかっているようですので片付けてしまいますね」
俺から見るとまだ綺麗な方に見えたが、彼女の合格ラインには達していなかったらしい。メイドへあぁ頼む、と答えてお茶を飲み干すと、俺は再び自分の部屋へ戻った。
二階にある三つの部屋のうち、一番狭いものが俺の部屋だ。ほかの二つはほとんど使われていないのに、どうして俺はこの部屋なのか。そう思うこともあったが、俺は一度もそれを口に出すことはなかった。
「懐かしいな……」
一人暮らしを始めて以来、この家には帰ってきていない。したがって自分の部屋に入るのも久々だ。
ドアを開けて、俺のものがその部屋に残されていることには驚いたが、よく考えると当然だ。この世界軸において俺は、ずっとこの家に住んでいるのだから。
机の引き出しを開け、カモフラージュ用の参考書を取りだす。自分の大切なものは、こうやってここに保管していた。
「……写真増えてるな」
そこにあるのは一冊の薄いアルバムだ。そこに入っているのは綾乃の写真ばかり。こう見ると、やはり俺はかつて彼女に女性として好意を寄せていたのだろうか、なんて考えてしまう。
あまり写真は好きじゃない彼女だが、撮るか? と俺が尋ねると彼女はいつも黙って頷いた。本当に機会は少ないので写真の枚数もなかなか増えなかったが、ごくたまに彼女と出歩いたときは必ず、俺は彼女の写真を撮っていた。その中でたまには一緒に撮ることもあったかもしれない。
俺のアルバムには小学五年までの写真しかなく、アルバムの半分も埋まっていなかったものだが、今俺が開くそれはもう最後のページまで埋まろうとしていた。この世界の俺は、彼女とどんな言葉を交わしながらこの写真を撮ったのだろうか。彼は俺ではないから、それはもうわからない。
「……卒業式、か」
そこにあったのは、中学の卒業式の写真だった。珍しい、俺と綾乃のツーショット写真だ。……まぁ、二人ともにこりともしない、青春の一幕としてはいささか問題のある写真ではあるが。だが、それもまた、俺と彼女らしいと言えばそう思えてきて、俺は自然と口元をほころばせていた。
写真というのは不思議なもので、一瞬を切り取っているはずなのにその時間が自然と脳裏に浮かぶ。結局俺は、小学校のころの写真を眺めて、頭の中の記憶としばし比べていた。
思い出補正。俺はかつて出会った少女の可憐さをそう決めつけ、今見れば大したことない、なんて考えていた。だが、喜ぶべきことにそれは勘違いだったらしい。補正なんて一切かかっていない。夜神綾乃は、やはり俺の記憶通り儚いほど美しい少女だった。……ちなみに俺はロリコンではないからそこは理解してもらいたい。――だから誰に俺は言い訳してるんだっての……。
「あ、時間忘れてた……」
そういえば、綾乃とまた会う約束をしていたのだった。時間を確認してまだ間に合うと判断すると、俺は家を出る支度をする。
「夜神様のもとへ行かれるのですか?」
「あぁ、すぐに帰ってくると思うけど。鍵閉めといてくれ」
「わかりました。夕食をご準備して待ってますね」
ありがとう、とメイドへ返してから俺は家を出た。玄関にあったゴミ袋は、もう無くなっていた。
その後、早歩きで夜の住宅街を歩いていく。結局、約束のT字路には俺の方が早く着いた。時間を確かめれば、今は六時五十分。綾乃と別れてからちょうど三十分が経過している。俺はそばの電柱に寄りかかって綾乃を待った。
静かな夜、街灯の光に照らされて人を待つ。誰だってこの状況に立てば、少しは不安を感じるに違いない。自分以外誰もいないのではないか、そう思えるほど閑散としたこの道は、一人立ち尽くすには不気味すぎる。
耐え切れず俺はスマホを開くとメッセージアプリを起動。綾乃とのトークに「そろそろ三十分経つけど?」と皮肉を込めて送信する。直後、少し遠くからスマホの着信音が聞こえた。
「綾乃?」
――返事はない。一度だけなった着信音が嘘であったかのように、住宅街は再び静寂に包まれた。
「……隠れてんのか?」
その可能性はある。大人びた印象の綾乃だが、その実子供のように人をからかって楽しむことがあるのだ。その対象が主に俺であることは少々不服ではあるが。
内心でそんなことを考えつつ街灯から背を離し、ゆっくり歩き出す。そして曲がり角から首だけ出して覗き込んだ。
――てっきりこの角でこちらをうかがっているのかと思ったが、そこに彼女はいなかった。
「……ただの聞き間違いか」
思わずため息が出て、少し俯く。その結果少し下がった視線。その先に、彼女はいた。
「――あや、の?」
足元に転がる一つの物体。そこについている二つの目が、こちらをまっすぐに見据えていた。暗闇に包まれたその地面で、わずかな光を反射して相貌が煌めく。だがそこに生気は一切なく、ともすればそれは、果てしなく深い洞穴のようでもあった。
本来、その物体からつながっているべき躰は存在しない。ただ代わりに、首元から噴き出したらしい血痕はそこにはっきりと残っていた。
――自殺なんかじゃなかったんだ。
胃の中にあるすべてが食道を駆け上ってくるのが分かった。口の中に独特の酸味が広がったのを感じた瞬間、喉奥から上がってきた吐瀉物を俺はその場に吐き出す。その一部は地面に落ちていたその物体にもかかり、闇の中でさえ美しい黒髪を無残に汚した。
――綾乃は、殺された。
胃液と共にあふれ出る涙で、視界はすぐにぼやけだした。鼻に入った吐瀉物に不快感を覚えるがどうしようもない。足の力が抜けて、かくりと俺は跪いた。
紫がかった瞳と視線が重なる。その目は、俺のことを糾弾しているようでもあった。
――殺さなきゃ。
自分のものではなくなったかのように腕が震えた。激しく痙攣するそれらは一切制御できず、気が付くと自分の爪がめり込み俺の腕は出血していた。
――綾乃を殺したやつを、殺さなきゃ。
殆ど真っ白で殆ど真っ黒で、ぐちゃぐちゃになった思考の中しなければいけないことを理解する。綾乃を殺した誰か――あぁきっとあいつだ。あの黒いフードの男。別世界軸の俺。あいつを殺す。絶対に殺す。殺す。殺す。殺す殺す殺す殺す殺すコロすコロすコロすコロコロコロコロコロコロコロコロコロコロコロコロコロコロコロコロコロコロコロコロコロコロコロコロころ――
「あああああああぁぁぁぁぁあああああああ!!!」
気が付くと走り出していた。どこへかはわからない。ただひたすら、そこにある道をただ走る。目的地なんて、どこでもよかった。だが。
――メイドはどうなった。
瞬間的に、絶望が頭をよぎった。恐怖をはるかに超えた、本能的な絶望。それに駆られて俺は方向転換し、その家を目指す。
大丈夫だ。ちゃんと鍵は閉めてきた。それにメイドは記憶を取り戻しており俺たちにとって脅威となり得る存在がいるということもはっきりと理解しそのうえで完全なる対策を恐らく施しそのうえで自らの身を守るすべをぬかりなく何の欠陥もなく完全なものとして用意しているはずであるからしたがって彼女は――
――――――死んでいた。
飛び込むようにして家の扉を開き、リビングへ足を踏み入れ、そこからぐつぐつと何かを火にかける音のするキッチンへ。
そこで、彼女はそのメイド服を赤く染めて倒れていた。その側には血に濡れたナイフが一丁。
「――ぁ」
喉から零れ落ちるような嗚咽が漏れた。俺は何も間違っていない。むしろまだ、何一つ行動できてすらいない。なのに、この世界はすでにゲームオーバーを迎えていた。
やり直しなんてない。ifなんて存在しない。そう、世界が俺を嗤っているようだった。
「圭人、さま……?」
瞼がわずかに開き、その奥から青色の瞳が覗く。そうしてこちらの姿を見つけた彼女は、その整った顔にほんの小さな笑顔を浮かべた。
「ごめん、なさい……ま、だ、夕食の準備……できて、なく、て……」
心から申し訳なさそうな謝罪の言葉だった。自分の状態なんて関係なく、彼女はただ俺に、そう謝った。
「何言ってんだよお前! そんな場合じゃないだろ!」
側にあった付近で、俺は彼女の傷口を覆う。応急処置のやり方なんて知るわけがない。ただ彼女の命をこれ以上零れさせたくない、その一心でただ俺は傷を抑え続けた。
「そうだ、救急車――」
ポケットからスマホを取り出し緊急連絡の文字をタップする。そして数字を三つ――押す前に、彼女は息を引き取っていた。
そのあまりにも綺麗な死に顔を見た瞬間、俺は窒息しそうになった。その表情はまだ一度しか見たことのない彼女の寝顔の様で、何度か揺すればすぐにその瞼を上げてくれるようだった。
だが、もう彼女が瞼を動かすことはない。
ふと、背後に一人の人間の気配を感じた。それはきっと俺が最も憎むべき存在であり、また排除すべき対象でもある。だが、それは今じゃない。今この世界軸では、意味が、ない。
「……さすがの演技力だな」
「なんのことだ」
前触れもなくかけられたその言葉に俺は聞き返す。だがそいつは、その問いに答えなかった。またそれと同じように、俺に危害を与える様子もない。それまるで、そんなことをしても意味はない、と語っている気がした。
「次の世界軸にもどうせついてくるんだろ?」
動かなくなったメイドを見つめながら、そう尋ねる。当たり前だ、と答えたその男は、いったい何を求めているのか。だが、俺からしたらそんなことはもうどうでもよかった。
「話がある。明日の朝学校の屋上だ」
男が息を呑むのがわかる。どうやら俺の言葉は、彼の虚を突いたようだ。単なる偶然だが、これで一つ勝算が増える。
ふと気が付くと、彼の気配はそこから消えていた。
どれだけ時間が経っただろうか。俺はただひたすらに、彼女の躰へ顔を押し付けていた。もう心音の聞こえないその胸へ、ぬくもりを求めていた。朝日が昇り、家に光が差し込む時間まで、俺はずっと虚ろに目を見開いていた。
――そろそろ、行かないと。
俺はメイドに覆いかぶさったようなその体勢のまま、世界を渡る、その感覚を思い出す。そうして選び取るのは、この世界とほとんど変わらない、ちょうど隣の世界軸。大きく何かを変えずとも、彼女たちが元通りになるということは、何となくわかっていた。




