世界の干渉
気が付くと、俺は夜道を歩いていた。それも、かなり懐かしい道。小学校にまだ通っていたころ、毎朝歩いていた道だ。
遠くから落ち葉が飛んできて、俺の横を通りすぎていった。頭上の街灯が何度かちらついた。
特筆することのないこの風景だが、久々に見てもやはりそう悪いものじゃない。
車はほとんど通らないのに妙に道は綺麗に舗装されていて、街路樹の手入れが行き届いているそんな道。この町はあまり好きじゃなかった俺もこの道はそう嫌いではなかった。
また、こんな夜だとなおさらだ。星なんて見えない曇り空を見上げ、内心にそう呟いた。
「どうしたの、そんなキョロキョロして」
隣から、少し呆れた声が聞こえた。それが、誰の声なのかなんて顔を見なくてもわかる。だから俺は、思わず立ち止っていた。
「……本当に変じゃない? 何かあった?」
彼女は俺より前へ数歩歩いてから俺が止まったことに気づく。そしてこちらを振り向くと、興味なさげに――でも少し不安げに――そう尋ねてきた。
そこには夜神綾乃が、当然のように生きていた。
着ている制服は、いつものそれとは違う。小学校のころ街でたまに見かけていた、この近くの高校の制服だ。だがそれ以外は全く同じ、あの夜神綾乃に違いない。
驚きが顔に出るのを隠して、俺はかぶりを振った。
「いや……なんでもない」
「そ。なら別にいいけど」
彼女はそして歩き出す。その背中を追って少し歩調を上げると、彼女の横にはすぐ追いつけた。
「なぁ綾乃」
こんなことを訊くべきではないとわかっている。それも、こんなトーンで話していい話題じゃない。
だが、俺はその言葉を口に出さなければいけなかった。
「お前、死にたいと思ったことあるか?」
* * *
綾乃が首を吊り、自ら命を絶ったあの世界軸。そこからの脱出は俺にとってそう難しいものではなかった。
あの場所で俺たちが襲撃される、その事実を無くしたいのならば、そもそもあの場所に俺たちが居なければいい。もっと言えば、京都への修学旅行に参加しなければいいのだ。
だが俺があの学校に通っている時点でそれを達成するのは難しい。あの時点で修学旅行に行かない、という選択肢を持っていなかった俺に、それはできないのだ。
だから、根本から変えるしかなかった。俺があんな学校に通っていない世界。唯一の心の支えを無くさなかった世界。
すなわち、綾乃が俺のもとから去っていない世界へ、俺はシャフトシフトした。何を変えたか? そんなの簡単なことだ。彼女自身も言っていたように、彼女には転校しないという選択肢があったのだ。
だから俺は、彼女への返答の言葉を取り繕った。
「圭人にとって、私は特別なの?」
まっすぐにこちらを見据えていて、でもその奥は不安げに揺れている。そんな彼女を欺くことは、俺にとって万死に値する罪であるはずだ。
だが、その罪を負わなければ、彼女は文字通り死に至る。それを防ぐためなら、いくらだって言葉を弄そう。
「……多分、そう。特別だと思う」
たったこれだけで俺は、綾乃が生存している世界への移動を可能とした。
* * *
「……なにそれ」
彼女の返答は短かった。唐突に「死にたいと思ったことがあるか」そう尋ねた俺へ、彼女は少し怪訝な目を向ける。
あぁそうだ。この綾乃にどうして首を吊ったのか、なんて訊いても真実がわかるわけはない。なぜならこの綾乃とあの綾乃は、決して同じ人間ではないのだから。
「圭人、何か変なこと考えてない?」
その声音は、少し怒気を孕んでいるような気がした。彼女には珍しい、静かな怒り。それが何を思ってのことかはすぐにわかった。
「あーいや、俺は大丈夫だ。綾乃が考えているようなことは全くないから」
「本当に?」
突然変なことを尋ねる俺を、心配してくれているのだろう。確かにこのシチュエーションでは、こいつは早々に命を絶とうとしているのではないか、なんて疑われてもおかしくないか。
詰問してくる綾乃に、俺はわざとにやりと笑う。
「俺がお前に嘘ついたことあるか?」
「しばしば」
「そりゃ失敬」
どうやらこちらの世界でも、俺はまともな人間ではないらしい。そのことを内心で嘆きながらも、このなんて事のない会話がひどく懐かしかった。
消えたはずの存在がそこに存在している。俺の心は、案外それを簡単に理解したようだ。あるいは、彼女が消えてしまったという事実をなかったことにしようとしているのかもしれない。
そこまで内心で呟いてからふと気が付く。俺の目の前から消えた少女がもう一人いたことを。
こっちがくすぐったくなるほど俺を慕ってくれて、たまに言う皮肉は鋭くて、でも言葉一つ一つが優しい、そんな少女。
あぁ、どうして俺は彼女のことを一時でも忘れていたのか。彼女――――か――――あれ。
「――彼女って、誰だ――?」
目を閉じればその容姿すべてがありありと脳裏に思い出せる。そう確信していた一秒後にはその影は掻き消えて、どれだけ探してもその笑顔は思い出せない。彼女が誰なのか。彼女の名前は?
確実に、何かが抜け落ちていた。そこにあるはずだった存在。全てをあきらめかけた俺に、もう一度飛べと言ってくれた少女。
彼女のことをどれだけ思い出そうとしても、その記憶は次第に遠くなっていった。
「圭人?」
「――綾乃、メイドって知ってるか」
体が勝手にそう口走っていた。だが、尋ねてから気づく。そうだ、俺が思い出そうとしているのは――
「メイド? 何を突然……あぁ、あの人のこと?」
不審そうに口を開いた綾乃だったが、正面を向いて何かに気づくと納得したように俺へ問いかけた。
綾乃は少しだけ笑って、なに? 好きなの? なんて言う。だがその言葉はもう俺の意識まで届かなかった。
「メイド――?」
小さな歩幅で向かいから歩み寄った彼女は、俺たちの前で立ち止る。そしてどこか寂しげな笑顔を、こちらに向けた。
「圭人様、おかえりなさいませ。お迎えに上がりました」




