驚くべき理想的な世界
旅館の中は昨夜と違ってしんとしている。まだどこの班も帰ってきていないのだろう。遠くから食器を運ぶ忙しない音が聞こえていた。
建物を出ると、冷たい風と空気に驚く。夕方となると、やはりこの季節は寒い。襟元を少しだけ寄せてから俺は歩き出した。
淡い月が紺色の空に浮かんでいる。陽はもう西の空から姿を消して、山際にその残滓をわずかに残すばかり。だけれど橙から紺への階調は胸が苦しくなるほど美しい。
そんな景色を見ながら感傷に浸っている自分が可笑しくて、俺はそれを隠すために足元の石を蹴飛ばした。
「謝らなきゃ、いけない、よな……」
彼女と会って、何を話そう。そう考えて一番最初に浮かんだのは謝罪の言葉だった。きっと綾乃は何を言っているのかわからない、ととぼけるに違いない。だけれど、俺はその言葉を伝えなければいけなかった。
その存在自体がかすんでいるような木の門が突然に現れる。古臭い木の匂いさえ感じられそうなそれは、昨日と同様に少しの隙間が開いていた。
ほんの少しの高揚を抑えて、門をくぐる。そうして顔を上げると、まだ二度目にも関わらずどこか懐かしい景色が広がっていた。
正面に小さくまとまった印象の本殿があり、右手には小さな祠が佇んでいる。建物へ続く石畳のわきには色のくすんだ灯篭がいくつか並び、またそのそばには何羽かの小鳥が跳ねていた。
そして、左側を見る。
まず目に入るのは小さいながらも丁寧に作りこまれたことのわかる古い池。その周りには花を持たない植物がぽつぽつと立っている。
その中でも一番目を引くのは、他に比べて幹の太い櫨の木。薄暗いこの寺で真っ赤に染まるその葉は目立つはずなのに、不思議とそのシルエットはぼやけて他と自然になじんでいる。
その木からは一本の縄が伸びて、それには女の子が宙ぶらりんに吊られていた。
「なぁ、お前は今どんな気持ちだ?」
風が遠くから吹いてきて木の葉を揺らす。訪れた寒気と共に、全身の血液が詰まり始めるのが分かった。脚が、怠い。
「答えねぇのかよ。俺は最悪な気分だ。隣にいるお前を殺してしまいそうなほどにな。この救いようもない屑はやっぱり殺すしかないという結論にたどり着いたよ」
雑音が頭の中に入ってくる。だがそんなのどうだっていい。
「……なんでこうなんだよ……」
隣のそいつも泣いているような気がした。俺の心も泣いている気がした。泣きながら、壊れてしまいそうだった。
彼女の顔は、ひどく青ざめていた。指先をずっと握りしめたらあれと同じ色になることを俺は知っている。
彼女の眼は開きっぱなしだった。そこに苦悶の色はなく、どちらかというと穏やかで。
彼女の体は陰がかかっていた。光の加減とかいう次元を超えて、その姿には陰がかかっていた。
彼女の脚は動かなかった。多分、もうずっと動かない。
彼女の髪は少し風に揺れていた。黒く長い髪は、はためいて彼女の顔を少し隠した。
彼女の命はもうなかった。それは誰が見ても、どう見ても、どうしようもなく、間違いなく、疑う余地もなく。
客観的に見て、その事実は明確だ。だが頭が、心が、追い付かない。彼女がもうこの世界にいないということを、事実として理解できない。目の前にある彼女の死体には、きっと触れることだって可能なのに。……触れたなら、理解できるのだろうか。
一歩前へ踏み出す。瞬間、歪んだ視界と共に頭に衝撃が走る。数秒後、口内の砂を噛みしめながら俺は自分が転んだのだと気づいた。
「――どうして……?」
驚くほどかすれた声が出た。その声を、隣の男は嗤ったようだった。
「お前だよ。お前がいるから、綾乃は死んだんだ。わかるか?」
そちらを見遣る。彼は、もうフードをかぶっていなかった。その顔は、今までに数えられないほど見たことがある。。右目の周りにたくさんの黒い斑点があることを除けば、その顔は俺の顔に張り付いているそれと全く同じものだった。
どこかで見たことがある黒い点を無くして、真っ白なその髪を黒に染めたならきっとそいつは浅井圭人の姿と全く同じになる。
「なぁ俺。早く飛べよ。綾乃がまだ死んでない世界まで。そしたら、俺がすぐにお前を殺してやるから」
あぁ、そうだった。すっかり忘れていたよ。綾乃が死んだ。気付いたら、死んでいた。死んだ。死んだ。死んだ? あぁ死んだ。どうして? なぜ? 誰が彼女を殺した?
「お前だ。お前があいつを殺した」
――俺か。
俺は何を間違った。どうして彼女は消えた。また俺は言葉を間違ったのか? あの時のように、質問に対する答えを間違ってしまったのか?
いや、もしかしたらこれが彼女の言っていた復讐なのかもしれない。あの時の俺の返答。それに対する彼女の回答が、これなのかもしれない。こうやって這いつくばる俺を彼女は見たかったのかもしれない。
――でも、なんで――?
わからなかった。どうして彼女がああして宙吊りになっているのか理解できなかった。復讐なんていう推測は、簡単に俺の中から霧散した。彼女はそんな人間じゃない。きっと。多分。
ふいに、横腹に衝撃が走った。痛みはない。だが四つん這いだった俺の体は裏返され、仰向けの状態で俺は空を仰ぐ。そこにもう橙色は残っておらず、ほとんどが紺の色に染め上げられていた。
視界の端で、男が刃物を出すのが見える。数秒後、俺はあれに刺殺されるのだろうか。そういえば、前にも一度あのナイフで額を貫かれたな。
――今度は、もうちゃんと死のう。
絶望なんていう陳腐な言葉では表せない、真っ黒な感情。視界から全ての色がなくなるほどの失意に満ちたこの心は、自然と死という言葉を確実な未来として導き出した。簡単だ。何もしないなら俺はすぐに消える。
綾乃は、俺を怒るだろうか。いや、彼女だったらきっと淡々と「別にいいんじゃない?」なんて言うかもしれない。メイドは……少しくらい悲しんでくれるだろうか。矢代にはありがとうと言えなかった。きっと俺たちをずっと見ていてくれたのだろうに。
目を瞑る。走馬灯は見えない。命はまだ、死がそこに迫っていると認識していないのだろうか。だが俺の脳味噌は、自分の額が抉じ開けられ、そこから脳漿が流れ出る光景を容易に想像できた。
だが。
「――圭人様っ」
名前を呼ばれた。この世界で俺をそう呼ぶのは一人しかいない。別の世界でどうかは知らないが、この世界では。
「メイ――」
「逃げてくださ――!」
瞼を上げると華奢な少女がナイフを持つ男に体当たりをしていた。どうしようもなく必死そうな目で、だけどやっぱりその目は優しそうで。彼女の目は、いつだって温かくこちらを見ている。それは、今もそうだった。
赤が広がる。彼女の腹からはその命が流れ出していた。汚れていない、鮮やかな赤だ。
「圭人様――飛んで、ください――」
メイドは、俺に笑いかけていた。その顔はきっと作ったものだけれど、だからこそ途轍もなく尊い。何があろうと痛みに顔はしかめない。しかしそんな彼女の強さは、優しくて、痛ましかった。
「どういうことだ。……こんなの初めてじゃねぇか」
男が独り言ちる。そしてメイドの体から刃物を引き抜くと、彼女の体を無造作に放った。横たわった彼女の顔は反対側を向いていて、俺がそれを見ることはできない。
――あぁ、だめだ。このまま死ぬわけにはいかなくなってしまった。
彼女は前に言っていた。バッドエンドは嫌だと。世界が終わる直前かのように彼女の目は悲し気で、だがその姿に俺は惹かれたのを覚えている。
「絶対……見つけるから――」
恐らくもう二人とも聞こえていない。しかし、二人とも同じように頷いてくれた気がした。だから俺はもう足を止められない。どうしようもなく震える足で立ち上がり、俺は彼に正対した。彼はこちらを見据えて訊いてくる。
「で? また行くのか?」
「あぁ、行かないわけにはいかなくなった。――次も邪魔するのか?」
「お前にとっては邪魔かもしれないが、おれにとっては立派な善行だ」
そいつは俺の後ろ、あの櫨の木あたりを見遣り、少しだけ目を細めた。その表情は殺人鬼のそれには見えないが、到底俺にはできない表情だと思う。
「それじゃあ、俺はお前を邪魔しないといけないな」
俺のその言葉に、彼は少しだけ驚いたようだった。虚を突かれると露骨に眉が上がるのは多分俺も同じだ。
「――そうか。じゃあ精々やるだけやってみろ。お前がまだ筆記者のうちに」
彼は手に持つナイフをこちらに投げる。だが、その刃物と最後に言った彼の言葉は、もう俺へ届かなかった。当然だ。すでにシャフトシフトを開始したこの体は、もうそこに存在しなかったのだから。
わからないことしかない。どうして、なぜ、と問いかけても答えなんて出てこない。ならば、必死にもがいてそれを探しに行くしかないだろう。諦めるという選択肢は潰えた。彼女たちがそこにいる間は、きっと俺はもう後退れない。
探しに行こうか。欠損のない、全てが手に入る理想的な世界を。




