零れる微笑
「で? どうしたんだよ」
優しそうな車夫のお兄さんが車を動かしだしてからしばし。自動車とはやはり異なる妙な心地よさと風を感じつつ、俺は彼女へそう尋ねた。
「特に。ただ、圭人と一緒に乗るのが一番楽そうだって思っただけ」
「そ。……気持ちいいな」
「うん。私も言おうとしてた」
少し唐突かと懸念した人力車への感想も、彼女はすぐに理解し共感してくれた。流れる景色の中、ちらと隣を覗く。
まっすぐに前を見つめる瞳はとても深く、でも口元に湛えた笑みは少し子供っぽくて、そんな彼女がかわいいと素直に思った。風になびく髪を耳にかける姿は、確か昔も見てどきりとした記憶がある。
ただ隣に座る少女を見ているだけなのに、それは三山が行った覗きと変わらないほど俺にとっては背徳感を感じられる行為な気がした。
「ごめん、嘘ついた」
「嘘?」
ふいに口を開いた彼女は、困ったように俺と反対へ視線のやり場を求める。そこには修学旅行の集団がぞろぞろと歩道を練り歩いていた。
「圭人とこれに乗りたかった理由。本当は、話があったの」
彼女はそう言うと、車夫に「次の角を曲がって、適当に走ってください。できるだけ人がいないところを」と声をかけた。
「そうならそうと、最初からそう言えばいいのに」
「わざとだよ。こうやってまわりくどいことをしたのは」
どうして、と尋ねる俺に、彼女は聞き取れないほどの小さい声でそう返した。
「だってこうでもしないと、圭人はきっと上手く逃げるはずだから」
つまり、今から話すのは俺が逃げ出したくなるような話題である、と。遠回しに彼女はそう言っている気がした。
「まぁこんな状況を作り出されちゃ話を聞かないわけにはいかないよな」
「よかった。たまに素直になる圭人の性格、嫌いじゃないよ」
「そりゃどうも」
言いながら、自分が手を強く握りしめていることに気づく。もう片方の手でそれをほぐすと、言い知れない不快感がそこから湧き上がってきた。
「まずは私が圭人に再会した理由だよ」
平然と話を始める綾乃だが、一行目から言葉が引っかかる。この再会に、理由があったのか? 何かを思って、彼女は俺のもとに会いに来た、と?
「偶然じゃなかったのか?」
「私が転校してきたのが? まさか。私は圭人に会うためにあの学校へ転校したし、もっと言えばもっと早く君の前から消えるつもりだった」
「消える? というよりどうやって俺の場所を」
「それについては、私より詳しい人がいるからそっちに訊いてよ。いま大事なのは私が圭人と再会しようと思った理由」
彼女はそこで言葉を一度切って、少し考える時間をとる。きっと祖語のないように頭の中で推敲しているのだろう。
やがてそれがまとまると、彼女は顔を上げてこちらを見据える。
「その理由は、一つ。復讐だよ。私は、君に復讐するため君と再会した」
復讐。その言葉は、現実で聞くとやけに薄っぺらかった。だが、彼女の声はいたって真剣だ。
「復讐?」
「うん。覚えてるかな。私がこういうことを尋ねたときのこと」
――圭人にとって、私は特別なの?
彼女の口から出た言葉と、俺の頭の中で再生されたそれは完全に一致した。その声はやはりどこか寂しげで、こちらをすがってくるような色がある。そうだ、思い出した。俺はあの時彼女に――。
「――違う。ただの隣人だ」
「そう。よく覚えてるじゃん」
そうだ。俺はあの時、彼女がいなくなる直前にそんなことを言ったのだ。それは、恥ずかしがったゆえの嘘ではない。それは正真正銘、俺の本心だった。
隣人。それは俺にとって、最も心地の良い存在だった。その関係には依存なんて存在しない。ただ心地の良い距離を保ち、ほどよくすれ違い、たまに少しだけ目を合わせる。それはきっと特別と言えるような関係ではなくて、だから俺は、彼女へそう言葉を返した。
「嘘でもよかったんだよ。私は、圭人の考えなんてわからないから」
彼女はそう言って、ほんの少しだけうつむく。
「あぁ、そうだよな。普通はそうする」
だけど、俺はそうしなかった。適当な言葉で取り繕うことはしなかった。なぜなら、俺は特別な存在だったから。彼女は特別な存在だったから。この二人の関係が特別なものでなかったとしても。
「実を言うと、私が転校したのは虐められてた私を親が気遣ってのことだったんだよ。だから、私がノーと言えば転校をやめることもできた」
「その最後のチャンスを、俺が潰した、と?」
「うん、そう。身勝手でしょ? 君が優しい言葉をかけてくれなかったから、私は親の言うまま転校をした。それで私は、君を恨んだんだ。本当にどうしようもない話だよ」
「まったく同感だ」
普通の視点から見れば、ただの彼女の我儘だ。だけれど俺からすると、そうではない。明らかな、俺の罪だ。
「そういうわけで、私は君に復讐しようと思ってたんだ。圭人とまた仲良くなって、その上で、いきなり態度を変えるんだ。そして、ひどい言葉を浴びせてやるつもりだった」
「でも、そうはしなかった」
「うん。とてもそんなことできなかった。私、実は、全く特別なんかじゃないんだ。君と離れてから知ったよ」
少し冷たい秋の風に、彼女はその目をわずかに細めた。
「だけど、圭人と再会して少し話して、また勘違いをするようになった。君と話しているときは、私がやっぱり特別なような気がしたんだ」
「俺は褒められてる、ってことでいいか?」
「うん、べた褒めだよ」
そうやって、彼女は楽しそうに笑った。
「よし、と。これで私が話さなければいけないことは終わり。これからは私が話したいことだから、適当に聞いてもらっていいよ」
ふっと掻き消えた笑顔に、俺は少し未練を覚える。だが真剣な彼女の声音に、その感情は押し出された。
「言い方が悪くなってしまうけど、許してほしい。あの子は何なの? どうして、圭人に付きまとっているの?」
「メイドか?」
「うん、そう。第一、メイドっていうのがよくわからない。どうしてメイドなの?」
それは俺も知りたい。肩をすくめて「さぁ?」と言う俺に、彼女は「さぁ、って……」と呆れた。
「けど、別に悪い奴じゃないから家に置いてる。料理旨いしな」
「それは知ってる。でも、おかしいって思わないの? どこの誰かも知らない相手なのに」
思う。思わないわけがない。むしろ、綾乃が知っている以上に現状はおかしい。俺の日常は、彼女がうちにやってきた日から狂っているのだ。
あえて思い出さないようにしていた言葉が脳裏に浮かび上がる。シャフトシフト。世界軸の移動。なんだよ、それ。
「ごめん、こんなこと訊きたくないんだけど。ううん、訊きたい。ただ、訊くべきではないってわかってるけど」
「別にいいだろ。俺はそういうのを気にするような繊細な人間じゃない」
「圭人はひどく繊細な人間に見えるけどな。――じゃあ、訊くよ。あの子と私から選ぶとしたら、圭人はどっちの手を引く?」
その瞳は、ほんの少しだけ濡れている気がした。そして同時に、不安げな色で揺らめいていた。今までに見た彼女の表情の中に、こんなものは一度たりとも存在しない。本当に、初めて見る表情だ。
ここで、俺は何と答えるべきなのだろうか。綾乃は確かに、俺にとってほかの人間とは異なる存在であると思う。だが、だからといって、ここで安易な言葉を俺は使っていいのか。
ふと、メイドの笑顔が脳裏に映る。ここでもし綾乃を選ぶと答えれば、彼女は傷つくのだろうか。傷ついてくれるのだろうか。
あぁ、そうだ。俺はここでどちらかを選ぶべきではない。そうだ、それが最適解に決まって――いや、考えるまでもない。俺が彼女に伝えるべき言葉は決まっている。
「決まってる。お前だよ。理由なんて特にないけど」
「うん、よかった。安心したよ」
あぁそうだ、と俺は内心で呟く。これだ。これが俺たちの距離感だった。話がどんな内容で、どんなことを互いに思っていたとしても、あくまで口調では平静を装う。彼女と俺だけに許されたこの独特な会話が、俺はとても心地いいのだ。
――何かがおかしい。
心は安らぎに満ちて心地よいはずなのに、その奥にごく小さなノイズが混じっていた。
「……そっか。本当に良かった」
「まぁ当たり前だろ。あいつとはまだ出会ったばかりだし」
「じゃあ変動する可能性もある?」
一般的に見て、その質問はなかなかに難しい。だが俺にとってこの返答を伝えるのはそう難しいことではなかった。
――口が勝手に動く。何かがおかしい。
「そうだな。可能性はある」
「だよね。圭人ならそう言うと思った」
もしかしたら、二人にとってこの会話はすべて冗談なのかもしれない。思春期の男女を装った、ただの戯言。だけれど、それはそれで悪いものではない。どんな時でも本物が最良であるとは限らないのだし。
それを彼女は、あのころから知っていたのかもしれない。いや、彼女の心情を推し量るというのはきっと無駄なことだ。いつだって、俺は間違えているのだから。
――どうしてそんなことを俺は考えてる。何かが、何かがおかしい。だけれどそれが、俺の心に一切影響を与えることはない。それがまた、ひどく苦しい。
「それじゃあ合流しようか。三山が二人に迷惑かけてるかもしれない」
「あぁ、間違いない」
二人でわずかに苦笑して、綾乃は「すみませんでした。二条城までお願いします」と車夫に告げた。
気の良さそうなお兄さんはこちらを振り向くと面白いものを見た、とばかりに笑って「承知しました!」と言った。
「あ、そうだ」
思い出したように綾乃が言う。
「今日も昨日の場所でまた会おう」
「いいけど。どうして?」
「あの場所が気に入ったの。きっと今日もきれいな景色が見れるよ」
そうやって笑う彼女の微笑は、零れるという表現が似合いすぎた。どこか儚さを感じさせるその笑顔は、見るものに否応なくそれが有限のものであると感じさせる。だからこそ、彼女の微笑は魅力的なのだろうか。




