8話:神様だって子育ては悩むのです
「ちょっとこれから飲みに行かない?」
定時を過ぎて静まり返った職場で、僕はアテナ課長に飲みに誘われて、先日のお店に向かった。
そして現在。
(この食べ物は、絶対に、何一つとして残すものか……!)
僕は目をギラギラと輝かせながら、目の前に並べられた唐揚げやだし巻き卵、よく分からない魚類のお刺身を、ものすごいスピードで胃袋へと流し込んでいた。
給料日までの間、僕の主食は二回目か三回目の収穫となるひょろひょろの『豆苗』だったため、上司の奢り(のはず)であるこのチャンスを逃すわけにはいかなかったのだ。
少しでもカロリーとタンパク質を摂取しておかなければ、明日の命すら危うい。
僕は駆けつけ三杯のビールで喉を潤しながら、ひたすらに咀嚼を続けた。
ふと、向かいの席に座るアテナ課長に目を向ける。
ダサいジャージを羽織ったいつもの彼女なら、豪快にジョッキを煽って「もっと飲みなさいよ!」と絡んでくるはずなのだが、今日は様子がおかしかった。
そういえば、今朝からどこか上の空で、窓口でトラブルが起きてもぼんやりと宙を見つめていることが多かった気がする。
アテナ課長は、手に持ったグラスの水滴を指でなぞりながら、俯き加減でボソボソと話し始めた。
どうやら、彼女には一人息子の『エリク』さんという養子がいるらしい。
エリクさんは現在、立派な神様になるための修行中で、全寮制の厳しい神学校に通っているとのことだった。
そして、来週あたりに久しぶりに実家へ帰省してくるのだという。
(なんだ、ただの息子の帰省か。平和な悩みじゃないか)
僕は半分ほど話を聞き流しながら、目の前のフライドポテトに手を伸ばした。
「良かったじゃないですか。久しぶりの帰省なら、エリクさんの好きな食べ物でも準備して待っていれば良いのではありませんか?」
僕が食べ物に目が眩んだまま適当なアドバイスをすると、アテナ課長はふるふると首を横に振った。
悩みとは違うらしい……だが、いくら待っても悩みの本質が見えてこないため、僕は顧客の愚痴を延々と聞く勢いで、適度に相槌を打って辛抱強く話の先を促した。
やがて、ビールをもう二杯ほど空けたところで、ようやく彼女の悩みの核心が見えてきた。
「エリクとはね、もう何十年も直接会っていないのよ」
(な、何十年!?)
僕は思わずむせそうになった。
神様の寿命や時間感覚が人間とは桁違いだとはいえ、いくらなんでも長すぎる。
「その学校、未練を断ち切って神格を高めるために、通信や手紙のやり取りが一切禁止されているの。 だから、声を聞くのも本当に久しぶりで……今回の帰省だって、学校からの定期連絡の書面で知ったくらいなのよ」
アテナ課長は不安そうに眉を下げた。
何十年も会っていないとなれば、もはや浦島太郎状態だ。
子供の成長は早い。人間で言えば、小学生だった息子が突然三十代の立派な大人になって帰ってくるような感覚だろうか。
「昔みたいに、無邪気な子供として扱って頭を撫でてあげればいいのか……それとも、神様の端くれとなった息子を、一柱の独立した『神様』として対等に扱えばいいのか。今のあの子が求める態度が全然分からないのよ……」
(なるほど。僕は親になったことがないからな……。これはなかなか難しい悩みだ)
僕は最後の一切れとなった卵焼きを口に運びながら、自分に置き換えて想像してみた。
例えば、人間界の厳格な軍隊や全寮制の学校に入り、メールも電話もできないような厳しい生活を何十年も送る。
久しぶりに実家に帰れることになった時には、体つきも考え方も、すっかり大人びているはずだ。
そこで母親が、昔と同じように「サトルちゃんはいい子ね」と接してきたら、嬉しいと思うだろうか?
それとも、子供扱いされて嫌だと思うだろうか?
「う~ん……」
親子の関係性にもよるだろうが、長年会話していないときたか。簡単に答えは出てこない。
僕は箸を置き、頭を切り替えた。
「ところで、アテナ課長ご自身は、エリクさんに対して『どのように接したい』とお考えなのでしょうか?」
僕が尋ねると、アテナ課長はハッとして顔を上げた。
「私? 私は……それは、昔みたいに思いっきり可愛がりたいわよ。抱きしめて、美味しいものをたくさん食べさせてあげたい……。でも、あの子は私と血の繋がりがない養子だから……『本当の親でもないのに、いつまでも母親ぶるな』って嫌われたら……嫌でしょ……」
弱々しく呟く彼女の姿は、いつも南支店で大立ち回りを演じている豪快なアテナ課長とは別人のようだった。
養子という負い目があるからこそ、大人になったエリクさんに対して、どこまで親として踏み込んでよいのか距離感を測りかねているのだ。
それからしばらくの間、僕はアテナ課長から、エリクさんがまだ小さかった頃の思い出話を延々と聞かされることになった。
初めは事情があって仕方なく引き取ったため、正直可愛いとは思っていなかったこと。
しかし、泣いたり、笑ったりする素直なエリクさんと一緒に暮らすうちに、少しずつ心が通い合い、神としての永遠の命の中に『愛おしい』という感情が芽生えたこと。
ずっと『ママ』と呼んで懐いてくれていたのに、学校に入る直前、急に『母上』と他人行儀に呼ばれた夜、ショックのあまり自室で一人枕を濡らしたこと。
僕は相槌を打ちながら、ジョッキを煽った。
やがて、何杯目かのグラスを空けたアテナ課長は、すっかり酔いが回ってしまったようだった。
机に突っ伏して「エリクー……」と唸り始めたため、これ以上の長居は危険だと判断し、僕が彼女を家まで送り届けることになった。
(もちろん、お会計は上司持ちだ。ごちそうさまでした)
◇
夜風が心地よい異世界の街並みを、ふらつくアテナ課長を支えながら歩く。
その道中、僕は彼女の悩みの『正解』にはならないかもしれないが、人間としての僕の考えを伝えてみることにした。
「課長。まずは、課長は何も変わっておらず、エリクさんは今も大事な息子だという、昔と同じ態度で接してみるのはどうでしょう」
「……昔と、同じ?」
「はい。その上で、『もう子供じゃない』と嫌がられたら、その時に初めて『じゃあ、どうして欲しいのか』を二人で話し合えばいいのではないですか?」
僕の言葉に、アテナ課長はピタリと足を止めた。
街灯の光の下で、彼女はジッと僕の顔を見つめてくる。
僕は実家の母を思い浮かべながら言葉を続けた。
「相手の顔色を窺って、先回りして距離を置くのは、一見相手を尊重しているようで、実は『自分が傷つきたくないだけ』の逃げかもしれません」
「それに、いくら親であろうと、子供が喜ぶことばかり考えて自分を蔑ろにするよりは、ぶつかり合ってでもお互いの落としどころを話し合い、理解し合う方が、絶対に良い関係になれると思います。……少なくとも、しがない人間である僕は、そう信じています!」
静かな夜の道に、僕の熱の入った声が響いた。
アテナ課長は目を閉じ、しばらくその場でじっと考え込み始めた。
沈黙が落ちる。
僕は少し偉そうなことを言い過ぎたかと冷や汗を流したが、やがて彼女はパチリと目を開けた。
「……そうかもしれないわね。神様になったとしても、あの子が私の大事な子供ってことは変わらないんだから。変に気を遣うのはやめにするわ。昔みたいに思いっきり可愛がりながら、ちゃんと対等な会話をする!」
吹っ切れたのか、再び歩き出したアテナ課長の足取りは軽かった。
その目は、純粋に愛する息子に会えることを楽しみにしている、ただの『母親』の優しい眼差しになっていた。
「じゃあ、あの子が帰ってきたら、昔みたいに久しぶりに一緒にお風呂に入って、背中を流してあげなきゃね!」
「……課長、それは絶対にやめた方がいいです。先に話し合うべき最重要案件かと」
僕は真顔で即座にツッコミを入れた。
何十年ぶりに会う成人した(神様基準だが)息子を風呂に誘うなど、反抗期をこじらせる地雷行動の筆頭である。
その行動によって親子の間に亀裂が入り、職場で僕に八つ当たりされたら堪らない。
僕は自分の平穏を守るために、しっかりと釘を刺しておいた。
「えー、そう? 昔はあんなに喜んでたのに」
不満げに唇を尖らせる課長を宥めているうちに、けっこう近くにあった彼女の邸宅の前に到着した。
立派な門構えの、神様の住まいにふさわしい大きな家だ。
「マッ……牧村」
門の前で、アテナ課長が振り返った。
普段のあだ名ではなく、珍しく名字で呼ばれた。
「今日は、愚痴に付き合ってくれてありがとね! おやすみ」
「いえ、お気をつけて。おやすみなさいませ」
僕が頭を下げて帰ろうとした、その時だった。
家の扉に手をかけたアテナ課長が、首を傾げた。
「えっ? 鍵が開いているわ……?」
その言葉と同時に。ガチャリ、と重厚な扉が内側から勢いよく開かれた。
「母上! 遅くまでお仕事、お疲れ様でございます!」
中から現れたのは、見目麗しい青年の姿をした神だった。
背筋をピンと伸ばし、神々しいオーラを放つその青年は……なぜか、フリルのついた可愛らしいエプロンを身につけ、手にはお玉を握りしめていた。
「簡単ではありますが、お夜食を作っておきました! さあ、中へ……ん? 母上、ひどくお酒を飲まれたようですね。 足元がおぼつかないではありませんか」
……どうやら、噂のエリクさんは、既に実家に帰省をしていたらしい。
そして、彼の手作りご飯が待つ家に、母親は部下の男と酒を飲んでベロベロになって帰ってきたという、最悪の構図が完成してしまった。
エリクさんの視線が、アテナ課長の後ろに立つ僕へと向けられた。
その瞬間、彼の温厚そうな瞳が、スッと細められた。
(あ、これはヤバい)
クレーム対応で鍛えられた僕の危機回避センサーが、かつてないほどのけたたましい警報を鳴らした。
エリクさんはエプロン姿のまま身体を光らせ、信じられないスピードで僕の目の前まで詰め寄ってきた。
胸ぐらを掴まれんばかりの至近距離だ。
「おい、そこの不届きな奴! 母上をこんなに酔わせて、一体夜道で何をするつもりだったんだ!!」
「言い訳は聞かん! 母上に手出ししようなどと、万死に値する!!」
とんでもない因縁を付けられた。
まさか、感動的な親子の再会のプロローグで、僕が「母親を狙う怪しい男」として処刑されそうになるとは。
「ち、違うのよエリク! この人は私の部下で……!」
「母上は下がっていてください! 今、この不敬な輩を次元の彼方へ消し去って差し上げます!」
激おこ状態のマザコン神(候補)を前にして。
僕――牧村サトルが取れる手段は、現実逃避しか残されていなかった。
(……明日も、豆苗にはたっぷり水をあげよう)




