6話:デレが抜けてるツンデレさん
今日は月に一度のノー残業デーだ。
壁に掛けられた時計の針が、定時である十七時を示すまであと十分。
いつもは怒号と破壊音が絶えない『神様の職業安定所・南支店』だが、今日ばかりはどこかソワソワとした、浮き足立った空気が漂っている。
無理もない。業務時間終了後は、特別な理由——例えば世界崩壊レベルのクレームなど——が無い限り、残業申請はアテナ課長に問答無用で却下されるのだ。皆が心待ちにしている、月に一度の恩赦の日である。
(さて、帰りにお肉を仕入れてフェンさん用のジャーキーを作らないとな……)
僕は手元の資料をまとめながら、密かにため息をついた。
前回、フェンさんのアンガーマネジメント(という名の餌付け)に成功して以来、彼が窓口で暴れることは劇的に減った。
それは素晴らしいことなのだが、代償として僕のプライベートな時間は『自家製ジャーキーの仕込み』に大きく割かれることになってしまったのだ。人間界でも神の世界でも、労働者の悩みは尽きない。
僕がパソコンの電源を落とし、鞄を持って帰宅の準備を始めた、まさにその時だった。
「私じゃありません!!」
フロアの奥から、悲痛な叫び声が響き渡った。
ビクッと肩を跳ねさせた僕は、今日も賑やかだなと死んだ目で声のした方を見る。
視線の先には、珍しい組み合わせがいた。
(あれは、ウズメさんだ。真面目なあの子が大声を出すなんて、珍しいな?)
ウズメさんは南支店の中でも数少ない、いや、唯一と言っていいほどの『真面目な常識神』だ。事務処理能力は高く、ルールを遵守し、決してサボらない。ただ、少しばかりプライドが高い女性神だ。
どうやら、アテナ課長と何か揉めているようだ。
アテナ課長はダサいジャージ姿のまま腰に手を当てて、やれやれと呆れたようにため息をついている。
「ウズメちゃん、でもね、あなた以外に誰があなたの席のパソコンを使うの?」
「でも……でも! 私は絶対に保存しました!」
「ふぅ……認めたくないのは分かるわ。でも、ないものはないの。ひとまず、今は解決のために協力してくれないかしら」
(何か問題が発生したみたいだな。事が大きくなって巻き込まれるより、今のうちに状況を確認するか)
僕はクレーム処理担当としての悲しい習性に従い、席を立って二人の元へ向かった。
「どうかされましたか?」
僕が声をかけると、アテナ課長が振り返った。
「あ、マーくん。ちょうどいいところに来たわ。マーくんも手伝ってくれない?」
(今日はマーくんか……)
話を聞くと、どうやらウズメさんが、求神を出してくれている各世界への受付連絡先をまとめた『一覧資料』の更新で問題をおこしてしまったらしい。珍しいこともあるなと思いながら詳細を聞いてみる。
ウズメさんは年度変更に伴い、午前中から受付一覧の更新作業を行っていた。事前にメッセージを送っていたものの、なかなか返信がない世界には自ら電話をかけ、受付担当者や連絡先の変更がないか、一件一件丁寧にヒアリングして回ったそうだ。
仕事が早い彼女は、今日一日で一覧の半分以上を更新し終えていた。
しかし、帰宅前に最終保存をしようとした時、一覧資料が午前中の状態から「全く更新されていない」ことに気づいたという。
慌ててアテナ課長に報告したところ、「保存し忘れて閉じちゃった単純ミスだろう」と言われた。それにカッとなり、「私がそんな初歩的なミスをするはずがありません!」と激しく否定しているところだった。
「ミスは誰にでもあることだから、落ち込まずに復旧を頑張って欲しいって言ってるんだけどねぇ……」
課長が肩をすくめると、周囲の同僚たちも「なんだなんだ?」と野次馬のように集まってきた。
「おいおい、あの真面目なウズメがミス隠しか?」
「潔く認めればいいのに」
普段からウズメさんに小言を言われている他の神々からは、冷たい視線が注がれている。
その空気に耐えかねたのか、ウズメさんは口を一文字に結び、涙をグッと堪えた表情で周囲を睨み返した。
「私がそんなミスをするなんてありえません! 私じゃないのでパソコンが壊れたか、誰かの悪戯に決まっています!」
自分の非を一切認めない強硬な姿勢に、周囲の空気はさらに冷え込んでいく。早く謝って認めろよ、という無言の圧力がウズメさんを押し潰そうとしていた。
そこに、空気を全く読まない巨体が割って入ってきた。
「うむ、間違いは誰にでもあるものだぞ!」
大きな影——フェンさんだ。狼の頭部を持つ獣神は、腕を組んでガハハハッと豪快に笑った。
「俺もこの間、求神票を間違えて削除したら、アテナにしこたま怒られたばかりだからな! 隠す気持ちも分かるぞ! ガハハハッ!」
パシィッ!
「あんたは隠したでしょ!」
アテナ課長の手刀が、フェンさんの頭に綺麗にクリーンヒットした。
「むっ? 理不尽だぞアテナ。だが、俺の時みたいにバックアップがあるのだろう? 何が問題なんだ?」
頭をさすりながらフェンさんが首を傾げる。
「そのバックアップから取り出して、最新の情報に更新していたのよ」
課長が疲れたような声を出した。
「問題は、電話で連絡先を聞いた世界に、もう一度電話をして同じ内容を聞き直さないといけないことよ。『さっき言っただろうが!』って、絶対に文句言われるわ」
それを聞いて、フェンさんはポンと手を打った。
「……もう一度聞けばいいだけなら、問題なかろう。牧村から『謝罪は時間が経ってからより、すぐに済ませるべきだ』と習ったぞ? なーに、俺様も手伝ってやる!」
その言葉に、僕は耳を疑った。
あの、少しでも気に食わないことがあるとすぐに暴れていたフェンさんが、自ら他人の手伝いを申し出ている……!?
(フェンさん……! アンガーマネジメントだけでなく、協調性まで身につけて……!)
僕は密かに感動の涙を拭った。あの、命がけの研修の時間は無駄ではなかったのだ。
「私もいいですよぉ~」
ミカちゃんも金髪のツインテールを揺らして前に出た。
「ウズメちゃんにはいつも事務処理でお世話になってますしぃ~。みんなでやればすぐ終わりますよ!」
「フェンさん……ミカちゃん……ありがとうございます……ッ」
ウズメさんは、二人に深く頭を下げ、感謝を伝えた。
この温かい職場の絆。ブラックだ地獄だと思っていた南支店にも、こんな美しい助け合いの精神があったのか。
僕も胸を熱くしながら、一歩前に出た。
「ウズメさん、もちろん僕も手伝いますよ! 分担してパパッと終わらせましょう!」
と、最高の営業スマイルで手を挙げた。
「……何よあんた。私が、人間なんかの手を必要とするわけがないじゃない!」
「えっ」
即答だった。コンマ一秒の躊躇もなかった。
ウズメさんは先ほどまでの感動をスッと引っ込め、汚物でも見るような目で僕を冷たく一瞥した。
(つ……つらい。温度差がつらすぎる……!)
僕の心にグッサリと見えないナイフが突き刺さる。
ポンッ。
アテナ課長が丸めた求神票の紙束で、ウズメさんの頭を軽く叩いた。
「文句を言わない! みんな、善意で手伝ってくれるんだし、なにより私も早く帰りたいから、人間の手を借りるのも我慢するの!」
「うぅ……はい……」
こうして、ノー残業デーの定時直前、南支店を巻き込んだ怒涛のリカバリー作業が幕を開けた。
お客様が誰もいないのに、フロアには営業中のような賑やかな電話の音が鳴り響く。
ウズメさん、フェンさん、ミカちゃんの三人が手分けして、各世界に謝罪と再確認の電話をかけていく。
「もしも~し? 先ほどはお世話になりましたぁ! 職業安定所・南支店のミカですぅ~! すみませぇん、念のための再確認が必要となりましたので、もう一度担当者様のお名前をお伺いしてもよろしいですかぁ~?」
ミカちゃんは持ち前の天使のスマイルと愛嬌で、相手の怒りを巧みに躱している。
「あー……もしもし。俺だ。……南支店のフェンだ。悪いが、さっきの連絡先をもう一度教えろください。……あぁ? なぜだと? 忘れちまったからに決まってるだろうが! ……あ? と、いかんいかん。申し訳、ございません」
フェンさんは相変わらず言葉遣いが怪しいが、ジャーキーの匂いを嗅ぎながら、なんとか怒りをコントロールして電話対応をこなしている。
僕は裏方に回り、自分のパソコンにバックアップデータを呼び出した。
三人が電話で聞き取ったメモを受け取り、事前に届いていたメッセージと新たに届いていたメッセージを確認し、凄まじいスピードで一覧資料に書き起こしていく。
僕の的確なデータ入力により、作業は驚異的なスピードで進んでいった。
そして、全ての確認と更新を終えることができた。
出来上がった最新の一覧資料を最終確認し、アテナ課長の承認を得てバックアップに上書き保存。無事に業務は完了した。
「終わったぁ……!」
ウズメさんは出来上がった一覧資料を見て、協力してくれた皆に向かって深々と頭を下げた。
「課長、お騒がせして本当に申し訳ありませんでした。フェンさん、ミカちゃんも手伝ってくれてありがとう……」
そこでチラリと僕の方を見て、プイッとそっぽを向いた。
「……その、牧村も。一応、ありがとう」
(一応ってなんだ、一応って)
死んだ目で心の中でツッコミを入れたが、まあ良しとしよう。
時間はすでに十九時を回っている。
フェンさんが「腹が減ったぞ……」とお腹をさすり始めた。
アテナ課長は「よし!」と声を上げた。
「みんながこんな風に協力するなんて、珍しい光景だわ。せっかくだから、今日は、みんなで一杯飲みにいくわよ!」
「ええっ!? 私は別に……」
遠慮するウズメさんを強引に巻き込み、僕たちは夜の街へと繰り出すことになった。
◇
神様の国の繁華街にある、お酒を出してくれるお店に移動した。
皆に飲み物が行き渡ったところで、アテナ課長が立ち上がった。
「みんな、今日はお疲れ様! それじゃあ、南支店の今後のますますの繁栄を願って……かんぱ~い!」
「「「かんぱーい!」」」
ガチンッ! とジョッキをぶつけ合う音が響く。
(へえ……グラスを当てる文化は、神々の世界にもあるんだな)
僕は人間界の居酒屋を思い出し、少しだけ懐かしい気分になりながら、冷えたエールを喉に流し込んだ。
「ぷはぁーっ!」
アテナ課長がジョッキをドンとテーブルに置き、笑う。
「でも本当に珍しいわね? ウズメちゃんがこんなミスをするなんて。南支店に来て初めてじゃないかしら?」
「だから~! ……もういいです」
ウズメさんは顔を赤くして小さくなる。
宴もたけなわとなり、皆が良い具合に酔い始めた頃。
フェンさんが豪快に何気なく発言した。
「ガハハハッ! まあ気にするなウズメ! 今だから言うが、実は俺様も今日は小さなミスをしてな。少し焦ったわ!」
「何があったんです?」
僕が興味本位で尋ねると、フェンさんは得意げに鼻を鳴らした。
「なに、就業間際で客も来なくて暇だったからな。さっさと自分のパソコンの電源を落として、帰宅準備をしていたのだ」
フェンさんはジョッキを煽り、話を続ける。
「そうしたら、駆け込みで客が来やがってな。俺のパソコンはもうデスクに仕舞って鍵をかけた後だったから参ったわ」
僕は話の先を促す。
「だが、就業時間の間際だったからな。明日の予約で手を打ってもらったわ。そうだ、わざわざパソコンを出し直すのも面倒だったから、席を外していたウズメのパソコンを少し借りて、予約処理だけさせて貰ったぞ」
(……ん?)
僕の脳内で、危険を知らせるアラームが鳴り始めた。
嫌な予感がする。僕は冷や汗をダラダラと流しながら黙り込んだ。
ピタリ、と。
テーブルの空気が凍りついた。
みんなが引きつった顔でフェンさんを見つめる。
「ふぇ、フェンさん……」
僕の声は震えていた。
「ウズメさんのパソコンを借りた時……何かファイルが開かれていませんでしたか……?」
フェンさんはケロリとした顔で答えた。
「うむ。邪魔だから一度閉じたぞ」
「「「…………」」」
「だが問題あるまい! 借りた後にもう一度、サーバーから出して開き直しておいてやったからな! ガハハハハッ!!」
つまり。
ウズメさんが一日かけて更新したファイルは、フェンさんが勝手に閉じた。
そして、サーバーにある古いデータを上書き保存して開き直した。
なので、ウズメさんが戻ってきた際には、すでに中身は古いデータにすり替わっていたのだ。
「……だから」
ウズメさんが、下を向いたまま、ぶつぶつと呟き始めた。
「私は間違っていないと言った……。 私のせいじゃないって言った……。 誰かが質の悪い悪戯をしたと言った……」
彼女はバッと顔を上げ、般若のような形相でフェンさんをキッと睨みつけた。
「最低最悪!! この馬鹿狼ぁぁぁっ!!」
「なっ!? なぜ俺が怒られるのだ!?」
状況が理解できていないフェンさんの肩を、後ろからアテナ課長がめいっぱい握りしめた。
課長のこめかみには、くっきりと青筋が浮かび上がっている。
「……お前が犯人か」
とうとうウズメさんは泣き出してしまった。
「よしよし、ウズメちゃん可哀想に」
ミカちゃんがウズメさんを慰め、フェンさんをジロリと睨む。
「ここは、あの馬鹿狼に全部奢ってもらおうねぇ」
「そっ……それは酷いではないか! 破壊した備品の弁償で、今月はピンチなのだぞ!」
フェンさんが慌てて反論するが、もはや誰の耳にも届かない。
僕はハンカチで額の冷や汗を拭いながら、乾いた声で言った。
「フェンさん……今回ばかりは自業自得だと諦めるしかなさそうです」
と、自分は無関係な安全圏にいると思っていた、その時までは。
ガシッ。
僕の肩を、アテナ課長の手が力強く掴んだ。
「何を言っているのマーくん」
「……え?」
「言ったでしょ? 暫くはあなた達はバディだって」
「……と、言いますと……?」
僕の声が裏返る。
「連帯・責任・よ!」
アテナ課長から放たれた無慈悲な宣告。
つまり、今日の飲み代は、フェンさんと僕で折半(あるいは僕が立て替え)ということだ。
ただでさえ薄給なのに、神々の飲み会代など払わされたら、今月はもやし生活すら危うい。
今日も僕——牧村サトルの死んだ魚のような目は、絶好調に涙の海を泳いでいた。




