5話:職員は猛獣使いではありません
(さて……何から手を付けたらいいものか)
案内された小会議室の中央で、僕――牧村サトルは深いため息をつきながら、パイプ椅子に腰掛けた。
机を挟んだ向かい側では、狼の頭部を持つ巨漢——フェンさんが、巨大な身体を折り曲げるようにしてパイプ椅子に座っている。ギシギシと悲鳴を上げる椅子が、いつ叩き割られるかとヒヤヒヤして胃が痛い。
僕は、藁にもすがる思いでダメ元で確認してみることにした。
「あの……フェンさん。アンガーマネジメントって、確か新規採用時の職員研修で受けましたよね? 覚えていますか?」
「ほぅ」
フェンさんの黄色い瞳がギラリと光った。
「この俺を試そうっていうのか? 面白い」
そう言うや否や、フェンさんはガタッと椅子を蹴り飛ばして立ち上がり、重心を低く落として両手をかぎ爪のように構えた。『かかってきやがれ!』と言わんばかりの完全な戦闘態勢である。鋭い犬歯がむき出しになり、喉の奥からグウゥゥ……と地響きのような唸り声が漏れていた。
「……フェンさん、アンガーマネジメントは必殺技じゃありません。怒りを感じた時の対処方法のことですよ」
僕の死んだ目が、どんよりとさらに暗く濁った。
(……ダメだ。完全にゼロからのスタートだ。この手元の資料を読む限りでは、明日までみっちり研修の時間として割り当てて良いみたいだな。さて、どこから手を付けたものか……)
ひとまず、お互いの意思疎通を図るべく、僕は席を立ち、極力穏やかな笑みを貼り付けた。
「お互い大変かと思いますが、まずは一緒にこの研修を乗り越えましょう」
そう言って、僕は右手を差し出した。
フェンさんは拍子抜けしたように調子を狂わされ、やれやれと太い首を横に振った。
「ふん、人間に教えを乞うなど誇り高き『真狼』としては屈辱だが……背に腹は代えん。この際は仕方がない」
フェンさんはそう答え、僕の差し出した手を握り返した。
——バキッ。
「痛っ! 痛いですって! 折れる! 骨が粉砕されますッ!!」
「ぬ? ああ、すまん。つい力が入ってしまった」
生身の人間に対する力加減を知らない猛獣の手加減なしの握手に、僕は涙目で悶絶した。開始早々、右手の指の感覚が消えかけている。
◇
「……ええと、まずは認識の齟齬が無いように、今回の最終目標から合わせましょう」
僕は右手の痛みを湿布で誤魔化しつつ、小会議室のホワイトボードの前に立った。
マーカーのキャップを外し、デカデカと文字を書き込んでいく。
『目標! 窓口担当として問題を起こさない』
(ものすごく小さな目標に聞こえるかもしれないが、僕に期待されたミッションの全てはこれだ。クレーム対応どころか、窓口を物理破壊されるのを防ぐのが最優先事項なのだから)
パイプ椅子に座り直したフェンさんは、太い腕を組んで「うむ」と重々しく頷いた。
「次に、この大目標を達成するために必要な『小さな目標』を三つ考えました」
僕はホワイトボードに続けてサラサラと書き連ねた。
『小目標① 物にあたらない』
『小目標② 喧嘩腰の口調は使わない』
『小目標③ お客様の要望を正しく理解する』
ホワイトボードの文字をじーっと見つめていたフェンさんが、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「……むぅ。言葉遣いまで直さねばならんのか? 俺は神々を喰らう存在だぞ。あんな有象無象の無職どもに平身低頭するなど……」
「ダメです!」
僕はピシッとホワイトボードを指で叩いた。
「言葉遣いを直すことで、窓口のプロとしての意識が芽生えます。そして何より、丁寧な言葉遣いを使うことで、相手の余計な自尊心を刺激せず、結果としてトラブルの発生確率を劇的に下げることができるのです!」
前職のブラック企業で、理不尽な顧客からの罵詈雑言をかわし続けてきた僕の言葉には、妙な説得力と重みがあった。
フェンさんは少し気おされたように耳を伏せ、「ふむ……良いだろう。続けてくれ」と素直に頷いた。
「はい。では、これらを達成するために、大前提として絶対に身につけなければならないスキルがあります」
僕はゴクリと生唾を飲み込んだ。これが一番の難関だ。
ホワイトボードの中央に、一番大きな文字で書きつける。
『大前提:怒りを感じても、その場では抑える』
「というわけで、小項目の細かな実践方法は明日に回すとして、今日一日かけて、まずはこの『怒りを抑える』という感覚を身体に叩き込みましょう!」
怪訝な顔をしたフェンさんだったが、自分がこれまで何度も怒りに任せて窓口を破壊し、給与を引かれてきた苦い記憶があるのか、素直に「うむ」と返事をした。
◇
「それでは、一般的なアンガーマネジメントの手法から試してみましょう。人間の話ですが、人間が感じる瞬間的な強い怒りのピークは、せいぜい『六秒間』しか続かないと言われております。神様やフェンさんに該当するかは分かりませんが、ひとまずやってみましょう」
「ふむ。六秒耐えれば良いのだな? 容易いことだ」
「では、少し準備をしますので、ここでお待ちください」
そう言って、僕は一度小会議室から退出した。
……フェンさんの怒りを意図的に煽る以上、自分が物理的に命を落とす危険性が極めて高い。防具が必要だった。
十五分後。僕は同僚のミカちゃんを連れて戻ってきた。
「ちょっと主任! なんなんですか急に呼び出して! ちゃんと説明してくださいよ!」
今日も金髪ツインテールを揺らし、ぷりぷりと怒っているミカちゃん。会議室につくと僕は、自分の新しい業務内容(フェンさんの教育)と、ミカちゃんにサポートに入ってもらう件について説明した。
「また課長に無理難題を押し付けられて! いい加減に断らないと主任、本当に死んじゃいますよぉ!」
事情を聞いたミカちゃんは、僕のことのように憤慨して怒ってくれた。その優しさが少しだけ目に沁みる。
「あははは……心配してくれてありがとう。だからこそ、今日はミカちゃんにサポートを頼みたいんだ。具体的には……フェンさんが暴走して僕に飛び掛かってきた場合に、なんとか守って欲しくて」
遡ること十分前。僕はアテナ課長の元へ直談判に訪れていた。
『課長、お願いがあります。フェンさんがある程度怒りを制御できるようになるまで、ミカちゃんをサポートに付けていただけないでしょうか』
『無理よ。窓口担当は常に神員不足なの。フェンに続いてミカまで抜けると、現場の業務が回らなくなるわ』
腕を組んで即答するアテナ課長に対し、僕はすっと目を伏せ、哀愁を漂わせながら呟いたのだった。
『……そうですか。では課長、短い間でしたがお世話になりました。もし可能でしたら、僕が殺された後、今まで溜めたなけなしの貯金を使って、僕の身分証だけでも日本の実家に送還できるよう、上層部に掛け合っていただけますと幸いです』
『待って待って待って! あんた、何を不吉なことを言ってるの!?』
『いえ、ですから。フェンさんに怒りのコントロールを学んでもらうためには、研修の過程でわざと彼を怒らせなければなりません。……ですが、彼が怒りを制御できるようになるまでの間、ただの人間である僕が生き残れる確率は限りなくゼロに近いので。遺言です』
アテナ課長はそれもそうかと目を瞑り、頭を抱えて頭痛に耐えるポーズを取った。
『んもう……仕方ないわね! 今日一日だけよ! ミカをサポートに付けることを特別に許可するわ。ただし! 明日以降は絶対に認めないからね!』
こうして、命を守る『最高の盾』を確保することに成功した僕は、晴れて恐怖の実践研修へと進むことができたのである。
「では、フェンさん。試しに僕が『不躾なお客さん役』をやりますので、怒りを感じたら目をつむり、深呼吸をしながら、心の中で六秒間を数えてみてください」
「うむ、いいだろう。だが、矮小な人間が何を言おうと、この俺が怒ることはないがな」
自信たっぷりに鼻を鳴らすフェンさん。
「では、始めますね」
僕は念のため、フェンさんから会議室の長テーブルを二つ挟んだ、一番遠い壁際に腰掛けた。
すぅ~、と息を吸い込み、前職で嫌というほど遭遇した『最低最悪のクレーマー』の顔を思い浮かべて、不快感全開の声を発した。
「おい! そこの毛深い狼顔の職員! さっきからずっと待ってるのに、俺の順番が来ないのはどうなってんだ! ええ!? このノロマめが!」
言い終わった、次の瞬間。
——ギュィィィンッ!!
引き裂くような甲高い衝撃音が会議室に響き渡った。
「ひっ……!?」
僕は思わず身をすくめ、頭を抱えた。
目の前数センチのところに、半透明の美しい金色の光の幕——ミカちゃんが間一髪で展開した『結界』が浮かんでいた。
その幕の向こう側では、パイプ椅子を粉砕して跳躍したフェンさんが、血走った目で金色の壁に鋭い爪を突き立て、般若のような形相で牙を剥き出しにしていた。
「誰がノロマな狼だあぁぁぁッ!? 噛み殺してやろうか!!」
「ヒィッ……! あ、ありがとうございますミカちゃん……!」
「言わんこっちゃないじゃないですかぁぁ!」
引きつった顔でミカちゃんにお礼を言いつつ、僕は結界の向こうの猛獣に向かって叫んだ。
「ふ、フェンさん! これは練習です! 今です! 目を瞑って! 深呼吸しながら六秒数えてください!」
「ぐぬぬぬぬ……ッ!!」
顔を真っ赤にし、頭の毛皮を逆立てたまま、フェンさんはなんとか思い出したように目をギュッと瞑り、激しく肩を上下させて深呼吸を始めた。
すー……はー……すー……はー……。
一秒、二秒……六秒。
しかし、フェンさんの全身から放たれる殺気は一向に衰えない。十秒……三十秒……たっぷり一分が経過した。
静寂が包む会議室で、恐る恐る僕が尋ねる。
「ど、どうですかフェンさん……? 怒りは大分落ち着いたんじゃないですか……?」
その言葉を聞いた瞬間、フェンさんはカッと目を見開いた。
そして、目の前にあった厚さ五センチの長机に向かって、右拳を全力で振り下ろした。
ドガァァァァンッ!!
激しい破壊音と共に、頑丈な長机が真っ二つに叩き割られ、木の粉砕片が部屋中に飛び散った。
「全く落ち着かんぞぉぉぉ!!!!」
真剣な表情で経過を見守っていた僕の目が、いつものどんよりとした「完全な死んだ目」へと戻った。
(……これは、思った以上に手ごわいぞ。人間の精神論は、神々の領域の猛獣には一切通用しないらしい)
◇
その後。
あまりにも巨大な破壊音が庁内に響き渡ったため、備品を壊したことがアテナ課長に一瞬でバレてしまい、小会議室を叩き出された。
追いやられた移動先は、地下一階にある薄暗く広い『大倉庫』だ。
僕は念のため、周囲にある古い書類箱や予備の備品を遠くへ片付け、これ以上の被害が出ないように細心の注意を払った。
(これ以上備品代を弁償させられて、ただでさえ少ない給料を減額されるのは本気で困る……!)
「よし、気を取り直して別の方法を試しましょう!」
それからというもの、僕は前職の研修で得たあらゆる知識を動員した。
「怒りを別の感情に置き換えるトレーニング」「嫌なことを言われたら頭の中で相手をカボチャに変換するイメージ法」「数を100から7ずつ引いていく計算レスポンス」……あの手この手を試してみたが、真狼の思考回路には全く効果が見られず、全戦全敗であった。
「しゅに~ん……もう課長にごめんなさいしちゃいません~……?」
夕方近くになり、半日以上も防衛結界を張り続けて魔力を消耗したミカちゃんが、床にヘタリ込んで泣き言を言った。
重苦しくどんよりとした空気の中、さすがのフェンさんもしゅんとした様子で耳を力なく垂らし、気まずそうに壁際で小さくなっている。彼なりに努力しようとしてはいるのだ。ただ、本能が理性を凌駕してしまうらしい。
「少し……休憩にしましょうか」
僕は壁に背を預け、他に何か手はないかと知恵を絞ったが、何も良いアイデアが浮かばなかった。
疲労とストレスで胃が痛む。僕はスーツの胸ポケットから、深夜の残業用として個人的に準備していた「自作のオヤツ」を取り出し、一口かじった。
ポリ……カシャ……。
固い肉を噛み砕く香ばしい音が、静かな地下倉庫に響く。
すると、壁際で小さくなっていたフェンさんの鼻先が、ピクッと跳ね上がった。
クンクン……クンクンクン……。
フェンさんが巨大な体を揺らし、四つん這いに近い体勢でスルスルと僕に近づいてきた。その黄色い瞳は、僕の手元に釘付けになっている。
「んん……? なんだ人間、それは? 香ばしく、実に濃密で、野生を刺激する肉の匂いがするぞ……俺の分はないのか?」
僕は手の中にある、漆黒に乾燥した肉片——自作の『ビーフジャーキー』を見つめた。
そして、フェンさんの飢えた肉食獣のような眼光を見た瞬間、僕の脳内に電撃が走った。
(……待てよ? 人間の精神論が通じないなら、動物的な『条件づけ』ならどうだ……!?)
僕は覚悟を決め、手の中のオヤツを強く握りしめた。これにかけるしかない。
◇
翌日。
小目標の研修(および極秘の条件づけ)を終え、僕はアテナ課長の下へ研修終了の報告に向かった。
アテナ課長は不信感たっぷりの目で尋ねてきた。
「それで、むらっぴ。あんたから見て、フェンは窓口業務、無事にこなせそうなの?」
「はい。全く問題ありません」
僕が胸を張って答えると、アテナ課長はチラリと12番窓口の席に座るフェンさんに視線を向けた。
ちょうど窓口には、横暴そうな元・神のお客様がやってきて、「おいケダモノ! さっさと良い案件を出せ!」と机を叩いて怒鳴り散らしているところだった。
以前のフェンさんなら、一秒で相手の首を噛みちぎろうとしていた場面だ。
しかし、今のフェンさんは違った。
全身の毛皮をピクピクと震わせ、怒りで顔を強張らせてはいるものの、完全な無表情を維持したまま、ぎこちない丁寧語で対応していた。
「……お客様の要望を、聞いて……拝見いただき、頂戴しました。確認してますので、何卒お待ちくださるよう」
「ふん、最初からそうしていればいいんだよ!」
お客様の話が止まったのを確認すると、筋肉をピクピクさせながらフェンさんは窓口のカウンターの下——お客様からは絶対に見えない位置へとスーッと顔をかがめた。
そして、机の下に隠した透明なビニール袋の口を少しだけ開け、鼻を突っ込んで、
すぅぅぅぅぅーーー……はぁぁぁぁぁ……。
と、激しく匂いを吸引した。
満足気な顔で顔を上げたフェンさんは、慣れない手つきでキーボードを叩き、条件に合いそうな案件をスムーズにプリントアウトして見せたのだった。
それら一部始終を遠目から観察していたアテナ課長が、じとーっとした目で僕を振り返った。
「言葉使いはまだまだ全然おかしいけど……ねぇ、むらっぴ。あんた、フェンに何か『危ないお薬』でも渡したんじゃないわよね……? 窓口の下で怪しいことしていたわよ?」
「誓って言えます! 完全に健全なストレス発散方法です!」
僕は冷や汗を流しながら、全力で首を振った。
しばらく訝しそうに僕を見つめていたアテナ課長だったが、まあ現場のトラブルと備品の破壊が減るならそれに越したことはない、と考え直したようで、それ以上追及するのをやめた。
「ふ~ん……まあいいわ。研修ご苦労様。でも、もし急に元に戻って大暴れしたら困るからね。しばらくの間は、むらっぴも連帯責任のままだから」
アテナ課長はニコリと悪魔のような笑顔で釘を刺してきた。
僕は引きつった営業スマイルを浮かべ、「かしこまりました」と頭を下げるしかなかった。
◇
お昼休みを告げるベルが鳴ると、12番窓口からフェンさんが、まるで千切れんばかりに尻尾(のような毛皮)を振りながら、飛び跳ねるような足取りで僕のデスクへやってきた。
「おい人間! いや、牧村! 見ていただろう! 完璧に対応したぞ! 今日の分の『アレ』を寄越せ!」
「……はい、どうぞ。お疲れ様でした」
僕がデスクの引き出しから、小分けにしたビニール袋を取り出して手渡すと、フェンさんは奪い取るようにそれを受け取った。
すぐに袋を破いて中から一本の黒い肉片を取り出すと、愛おしそうにじっくりと舐めまわしたあと、豪快に噛み砕いた。
ガリッ! ポリポリポリ……!
「うむ!! この溢れ出る肉汁の凝縮された旨味! 弾力のある歯ごたえ! スパイスの刺激! やはりたまらん!!」
そう、神々の領域には新鮮で上質な肉や果物などの献上品は溢れているが、僕が知る限り「乾物」や「燻製」といった加工食品を売っている店は存在しなかった。
神々に捧げられる献上品は常に『新鮮なもの』でなければならないという概念があるため、長期保存用に加工するという習慣そのものが、この世界には存在していないようだったのだ。
僕がふと食べたくなり趣味で作っていた『自家製ビーフジャーキー』は、フェンさんの野生のドツボに完璧にハマったのである。
「怒りを感じたら、机の下でスパイスと肉の香りを嗅いで興奮を鎮める。無事に接客を終えたら、ご褒美としてジャーキーを食べる」というパブロフの犬方式の条件づけ。これが奇跡的に功を奏した結果であった。
問題がひとつあるとすれば、材料費の原価分のお金はフェンさんからきちんともらえるものの、肉の仕込みと乾燥に凄まじい手間暇がかかるため、僕のプライベートな時間がさらに削られ、自宅での作業量が爆増してしまったことくらいだ。
「主任、上手くいったようですね~」
お昼休みのため、隣のデスクに戻ってきたミカちゃんが、感心したように声をかけてくれた。
「うん。ミカちゃんも研修に付き合ってくれて本当にありがとう。おかげで命が助かったよ」
「えへへ、あれくらいならまっかせてください! でも……命の恩神なんですから、貸し一ですからね」
ミカちゃんは可愛らしくウインクすると、ルンルン気分で食堂へと去っていった。
フェンさんは幸せそうにジャーキーを噛み締め、ミカちゃんには新たな「貸し」を作られ、自分は夜な夜な自宅で肉を仕込む日々……。
僕――牧村サトルの目は今日も死んだ。神々の空の彼方を見つめて呟く。
(……早く、地球に帰りたい)




